童心に帰る
浴室での光景を改めて驚いてやる必要はない。如何にも悪い予感はあったのだ。しかし、バクに魅入られた覚えも、薬物を好いて白昼夢を見る趣味もない。ならば、折り畳まれた時間の隙間に挟まれたとしか思えず、天を仰ぐついでに唾を吐くなどしてこの鬱憤を晴らしてやりたいが、頭に返ってくるならば慎もう。
日付にして三日前である。一体どういう行動から、このような結果に結びつくのか。目星をつけるのは簡単だったが、はっきりさせておく必要がある。それを知るのに有効な手段は、“何もしない”ことだ。
結果からいえば、何も起きなかった。つまり、夜を跨ぎ次の日を迎えた。ここから推測すべきことは、時間の巻き戻りに偶発性はなく、獲物との因果関係を洗えば、巻き戻しを意図的に引き起こすことも可能だといえる。ぐらぐらとハラワタが煮えるような熱いものが込み上げてくる。拳を天に掲げて、歓喜と呼んで差し支えない感情の迸りを、今すぐにでも発散したかった。だが今は、この喜びを噛み締めよう。
経験に勝るものはない。一人の人間を拐い、飄々と自宅に帰る。童心のまま解体へ耽る直情さはなくなって、情緒を楽しむだけの教養を身に付けた。
「やぁ、起きたね」
縄に絡め取られた獲物が、起き抜けのボケた顔をしながらも、自身に起きている状況を徐々に咀嚼していく。先ず初めに、目玉が俺の部屋を舐め取り、不自由な身体の案配を確認する。
「……」
口に貼ったガムテープが過呼吸ぎみに上下し、やおら青ざめていく顔は、普く不安の象徴だ。
「やぁ、目が覚めたみたいだね」
目眩を催したかのようにグルグルと目玉を転がす獲物は、俺の言葉に耳を傾けるだけの余裕がなさそうだった。だから、髪を掴んで此方に注意を向けるように仕向ける。
「話を聞け。いいか?」
細かく頭を上下させ、獲物は従順な姿勢を見せる。
「三日間、君を生かす。その間の安全は保証しよう」
あまりに憔悴されてもつまらない。猶予をはっきりとさせ、心の整理をつけさせる。
「学校、楽しいか?」
「俺が君と同じぐらいのとき、全く楽しくなかったよ。没頭できるものが何ひとつなくてね」
「中学に上がれば、環境は変わるし、それなりに期待したよ」
「でも、全然ダメ。でも仕様がなかった。俺は他人と少し変わってたから」
返事のできない獲物を相手に滔々と語ってしまった。殊更に話し相手に困っていた訳でもないのに、まるで人生の折り目に際したかのような過去の述懐だ。獲物が逆上を恐れて俺の話す内容に耳を傾けて必死になっている。俎板の鯉とはこのことを言うのだろう。恐らく俺が命令すれば、恙無く生活を送るだけの共同体を簡単に築けそうだ。
食事を与えることは軽率だが、水を飲ませる程度の気遣いに首を絞められる心配はいらないだろう。ガムテープに穴を開けて、そこへストローを挿し込む。出来るだけ元気でいてほしいのだ。手足をバタつかせる、あの時の蛙のように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます