第2話 スミレ

7月16日。蝉の声が両耳を突き刺してくる。暑くてジメジメとした夏の日だった。

肩に掛けた鞄がずんと重い。

夏休み前最後の登校日。ひたすらに面倒くさくて、重い気持ちがのしかかってくる。1歩1歩が辛くて、引き返すのもしんどい。休みたい。

「遅刻しちゃうな……」

時計を確認してそう呟いたものの、学校まで走る気も起こらない。溜息を吐いてジリジリと焼いてくる太陽に俯く。

いつもの蒸し暑い坂道を風が吹き抜けていった。爽やかな花の香りが僕の鼻を掠めて目線を上げた。

風に揺れる長い黒髪を見た。



始業のチャイムが鳴り終わった。ようやく教室に辿り着いたが、明日から夏休みということもあって熱気の溢れる教室は、心做しか外よりも少し息がしずらかった。

先生が教卓に立って低い声で号令を促した。

ざわめきながらも席につく生徒達。

「おはようございます」

いつもより元気な挨拶が廊下にまで響いた。

僕は明日以降の予定を立てる楽しそうなクラスメイト達を上の空で眺めていた。

まだ少し鼻に残る花の香りが頭をぼうっとさせていて、先生の話も右から左へ流れて行った。

手元に溜まっていく宿題。億劫で仕方がない。

特に遊ぶ人も遊ぶ予定も見当たらないので、たっぷり時間はあるのだが、どうも宿題は手に付かない物だ。

また溜息を吐いて、眩しくて青い空に1羽だけ飛んでいたヒヨドリを眺めていた。


休み時間、水を飲もうと廊下に出て水道へ向かった。冷房の効いていない暑苦しい廊下にまたふわっと花の香りがした。香りの主を探そうと当たりを見回す。人の奥にあの艶やかな黒髪を見付け、気付けば追いかけていた。

肩を叩くと黒髪が揺れ、その子は振り返った。

まつ毛が長くて美しい子だった。

「なんでしょうか」

特に用もなく肩を叩いたので慌ててしまう。

「あ、えっと」

「?」

「何という花の香りですか」

咄嗟に質問をする。

「え?」

「その…香水」

「あぁ、スミレです」

「いい香りですね」

「それはどうも…」

「あ、引き止めてしまって申し訳無いです」

「いいえ、気に入っている香りなので声を掛けて頂けて嬉しいです」

彼女は軽く頭を下げて歩き去った。

水を飲むのも忘れて教室に帰り、席に着く。

今度は香りだけじゃなく、目を伏せた彼女のまつ毛も頭に浮かぶ。

自分を引き戻すように、大きめの音を立てて手帳を閉じ、鞄にしまい込んだ。


帰りは行きより少し足取りも軽くなった。

太陽は真上から肌を焼き、汗が噴き出したが、あまり気にならなかった。

ふと目に付いて帰路にある花屋を覗くと、白いスミレが売られていた。花屋の中は別の世界のように涼しかった。スミレを買って机に飾ることにした。


おかえりの無い暗くて蒸し暑い部屋に入る。冷房とテレビを点けてソファに倒れ込んだ。

大きな溜息が自然と出てきた。

相変わらずスカスカの冷蔵庫に冷やしておいたペットボトルの麦茶を開けてぐっと飲んだ。冷たさが物足りなくて、コップに氷を入れて麦茶を注いだ。

今の時間は特に面白い番組もやっていない。昼のニュースを見ながらぼーっとスミレを眺める。

少し元気が無いように見えたので、瓶に水を入れてスミレを挿してやった。

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