貸本 雨文字堂
くもまつあめ
お客様一人目 植木育夫
植木育夫 二十六歳 会社員
夕方、五時四十七分。家路に向かう。
辺りはもう真っ暗で、夕方と呼ぶよりは夜に近い。
五時に定時で上がって、会社から駅まで徒歩十五分。そこから電車で三十分。駅についたら寄り道をするでもなく真っすぐ家に向かう。
家までは二十分ほど。
昨日スーパーで買った総菜の残りが冷蔵庫にある。
良いこともワクワクすることもなくいつも通りの一日だった。
帰り道に口から文句が溢れる。
「何が、『植木くん~君はホッチキスだけはきちんとしてるね~
みんな~植木くんのホッチキス見習ってくれよ~』だ!
ばかにしやがって!」
小さな声で聞こえるか聞こえないかの大きさで呟いた。
良いことはなかったが、嫌なことは今日も両手両足では足りなくなるくらいあった。
その中の一つが上司の下野だ。
自分を見下してるんだろうがいつも嫌なことばかり言ってくる。
資料を作ったが何度も下野に修正をさせられ、やっとのことで通った資料を必要分コピーし、ホッチキスで留めている時に言われたのが先ほどのセリフだ。
「俺が上司なら絶対あんなこと言わないのにな。」
物や他の人に八つ当たりできる度胸もなく、ブツブツ言いながら帰るのがいつもの事だった。
駅から離れて歩いたいつもの帰り道、下を向きながらブツブツ言いながら歩いていると、自分の視界に自転車と誰かの足元が目に入った。
(おっと、危ない・・)
ハッとして顔を上げる。
いつもの帰り道に珍しい。電柱の横に自転車が停まっている。
路上販売だろうか、自転車の荷台にぼろぼろの木箱を括り付けてその木箱にあせたオレンジの小さな旗で『貸本屋 雨文字堂』と書いてあった。
自転車の傍らに男が立っており、ニコニコしながら
「いらっしゃいませ」と声をかけて来た。
くすんだ橙色のベレー帽を被り紺色の半被、袴?古着?よくわからないパンツを履き、足元にはこの時世に珍しい草履のようなものを履いている。
(怪しい・・・素通りしよう)
男も見た目もすべてが怪しく、無視して素通りを決め込むことにした。
そんな自分を知ってか知らずか、
「いらっしゃいませ~いかがですか~どうぞ~」
男が自分に向かって声をかけきた。
「あの、結構です」
とっさに断ろうとすると、
「そんなこと言わずに~、少しでいいので~。
今日はお客さんがさっぱりで途方に暮れてるところなんですよ・・・。」
男が自分の前に立ちふさがる感じで勧めてくる。
(こんな怪しいんじゃ・・・そりゃそうだろうよ)と内心思ったが
しつこそうなので少し相手をしてさっさと断ろうと決めた。
「あぁもう!急いでいるんで、少しだけですよ何のお店ですか?」
男は飛び上がって喜び、
「なんと!ありがとうございます~!
こちら、貸本屋になります~。
ここでしか扱っていない代物が沢山ございます。」
「貸本屋?レンタルってことですか?」
「・・・?はぁ、まぁそんなところです。
手前どもの貸本を読んでいただいて、お代を頂戴しております。」
男はあいまいな返事をした。
暗くて顔はよくわからなかったが、細い目でにっこり微笑むと木箱をごそごそと開けて中から商品をとり出して来た。
「こちらなんていかがでしょうか~?」
そのタイミングでパっと電信柱に明かりが灯り、男の顔と差し出された本が見えるようになった。
きつねのような男だった。
差し出された本・・・・というよりは、粗雑な紙に鉛筆で手書きで書かれた作文のような手紙のような代物だった。
書いてある時も小学生が書いたような文字だ。
「これって本ですか?本というよりは・・・・
うわ、こりゃ子どもの作文ですね・・・これって面白いんですか?
作者も何も書いてないし・・・沢山っていう割には選ぶことできないし・・・」
思わず口にでた言葉に、男は気にする様子もなく
「はい、手前には今はこれが精いっぱいでして・・・どうでしょうか、ぜひ読んでやってくれませんかね?」
ニコニコと本・・というか作文を差し出してくる。
帰っても特にやることもないし、なんだか読んでもいいかという気持ちになってきてしまった。
「はぁ・・わかりました、いいですよ。いくらですか?」
「ありがとうございます!こちら読んで頂いてからで結構です。」
男はニコニコと笑う。
「ふぅん、珍しい。後払いなんですね。返却は?一週間ですか?
あ、いやまず会員登録が先か?」
すっかりその気になって尋ねると、
「いえいえ、とんでもない今ここでこの場で読んで頂きたいのです。」
そういうと何処からともなくこれまた古ぼけた小さな腰掛け椅子を持ってきた。
「え?ここで?」
「はい、ここでお願い致します。
手前どもの商品を無くされては困りますし・・・
いや、お客さんを疑ってるわけじゃございませんよ?
それより、お代を頂戴しそびれるのが何より困りますので・・・。
なに、そんなに長い時間は頂きません。途中でやめてもらっても結構ですので。」
「はぁ・・・わかりました」
(お代って言ったってそんなものじゃ・・・)
そう思ったが、椅子まで出されたならしょうがない。
男の手から作文を受けとり、椅子に腰を掛ける。
差し出された作文を受け取って電柱の明かりの下読んでみることにした。
今気づいたが差し出された男の手ではなく獣の手だった。
ぎょっとして立ち上がろうかと思ったがなぜか立ち上がることができず、作文から目を離すことができなくなった。
「毎度あり~」
男の弾んだ声がした。
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