第6話
だが、至極残念――もちろん、明隆にとって――なことに、彼の瞳には、人ならざるものの姿が映っている。何も言わず、ただしくしくと泣く女性の後ろ姿が。
言わずもがな、くだんの怨霊である。
――いや、これは実際に明隆の目に映っているわけではない。夢の中の出来事である。
だが、室内の調度も様子も、慣れ親しんだ自分の室だ。
(くそ……!)
最近、怨霊の活動が活発になってきていた。その理由に、明隆は心当たりがある。
ただ婚姻しただけならば、きっとこうはならなかっただろう。すべては自分の甘い見通しのせいだ。
ぎり、と歯ぎしりをして、明隆は必死に怨霊の姿を見ようと目をこらした。長い黒髪に
だが、代わりに声がする。しくしくと泣く声が。恨みのこもった呪詛の声が。
近くに控えているはずの
沙映は大丈夫だろうか。もちろん、女房たちの中に式神を紛れ込ませてあるから――。
う、と一瞬息が詰まる。間違いなく、沙映のことを考えていたせいだろう。
そう。
沙映だ。
脳裏には、甘い菓子を抱えて微笑む彼女の姿を容易に描き出すことができた。思い出すと、胸がほっこりと温かくなって、幸せな気持ちになる。
そう、認めよう。
自分が、沙映に惹かれていることを。
結婚をするときは、こんなことになるとは思っていなかった。だが、甘味を持ち帰ればうれしそうに笑い、身を飾らせればはにかんでみせる沙映のいじらしさに、すっかり心を射貫かれてしまったのだ。
(う、うぅ……っ)
はっきりと胸の内でそう思った瞬間、締め付けはさらに強くなる。じんわりと脂汗が額に浮いて、明隆は耐えるようにぎゅっと目を閉じた。
夜明け前まで我慢すれば、この怨霊はどうせ姿を消してしまう。また夜が更けるまで現れることはない。だから、それまで我慢すればいい。
『おのれ、いまいましや……どうして……どうして……』
どうして、と問いかける相手はもはや明隆ではあるまい。自分の祖父ながら、罪作りな男であることよ。
「ふ、う……」
とりあえず、朝まで耐えればいい。怨霊の囁きは呪いだが、呪いの成就には条件がある。それさえ守っていれば、大丈夫なのだ。――そのはずだ。
しかし、こうして怨霊が日を置かず明隆を苦しめるので、彼は日に日に目に見えてやつれ始めていた。
そんなある日のこと。
雪が降ったと女房たちが騒ぐので、沙映は珍しく
舞い散る雪に手を伸ばすと、手のひらの上であっという間に溶けてしまった。
「冷たい」
「沙映姫さま、ささ……そろそろ中へ。ここは冷えますから」
(最近、明隆さま、おいでにならないわ……)
手すさびにと縫い上げた
はあ、と
「沙映姫さま、夫君のいらっしゃらないのが寂しくていらっしゃるのでしょう」
「……わかってしまう?」
沙映がはにかむと、うんうんとほかの女房たちも頷く。
「まったく、うちの殿様はなにをしているんでしょうねぇ」
「本当に、こんなかわいらしい姫君が待っておいでだというのに」
口々にそう言い合っているところに、庭の方から水干姿の少年がひょこりと顔を出した。
「まあ、壱」
藍がそう言って、簀子縁まで降りて話しかける。壱は、明隆が近くにおいて使っている少年だ。利発で身軽そうな少年で、くりっとした瞳が印象的である。
「明隆さまから伝言を預かってきた。今日は帰りが遅いので、先に休んでいてだってさ」
「そう」
その言葉は、内にいた沙映の耳にもしっかりと届いた。残念な気持ちを押し殺し、そう、とか細い声で呟く。
(今日も、お姿も見ることができないのね……)
共寝はせずとも、明隆は日に一度は顔を見せてくれていたのに、ここのところそれさえもない。
沈み込む沙映の姿に、壱と藍は顔を見合わせ小さくため息をこぼした。
その日の夜。
皆が寝静まった頃、とうとう眠れなかった沙映は
(明隆さま、もう私のところには来てくださらないのかしら)
空にかかる月を見ながら思うのは、明隆のこと。手を伸ばしても届かないそれは、まるで今の自分と彼の距離のようだ。
見えるのに、届かない。届きそうなのに、絶対に。
(もう、充分に付き合ったと――そういうことなのかも……)
婚姻して約半年、まめまめしく世話してくれた明隆のことを思い返して、沙映はまたふらふらと歩き出した。
ぼんやりと、あてどもなく足を進める。
(そうよね……帝から直々のお声掛かりということで結婚したけど……もしかしたら……)
以前にも考えたことがある。明隆には、もしかしたら身分違いの恋人がいるのかも知れない。その方との間に子が出来れば、沙映のいる意味などなくなるのだ。
(嫌……)
きつく唇をかみしめたとき、どこからか男の声と、か細い女の声が聞こえた――ような、気がした。
「え……?」
今の男の声を、沙映が聞き違えるはずもない。間違いなく、これは明隆の声だ。
はっと振り仰げば、いつの間にか
(う、うそ……)
再び、女の声と明隆が何か答える声がする。だが、それ以上そこにいることもできず、沙映は身を翻して元来た方角へできる限り早足で立ち去った。
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