第16話 OceanReminiscence

先刻のやり取りだが…確かに人魚と天使は接触し、会話の中で真実へと一歩前進を遂げた。

だが…私の愛する人魚はこれがまた中々の朴念仁ぼくねんじんで。それほど少女らしくもなければ、乙女の夢想など持ち合わせているはずもなく…何分なにぶん現実主義がいきすぎているのだ。真実は己の目で確かめ、理屈を知り、納得のいくまで熟慮検討する。善悪を結論付けるのはその後…という如何いかにも彼女らしい価値判断である。


私の古い友人にクロノス、タナトス、ミネルヴァと灰汁あくの強い3神が居るが…中でもこのミネルヴァという女神は、まぁ小難しくて敵わないのだ。際立つ美しさを押し退ける神経質さといい…この至極麗美な人魚を思わせることしばしば。

おっと…少々話が長くなり過ぎた。

では、本当の二人の出逢いを回想してみよう。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


水面越しに伸ばした掌は今にも月を掴めそう…揺らぐ月を眺めては、青々とした海にちっぽけな自分の居場所を探してみる。


パリンッ………!!!

硝子の割れるような高い音が響いた。


ふと、かげる月。

同時に降ってきた巨大な魚に、私はなすすべもなく…凄まじい衝撃と共に全身を水の上から抑え付けられる。ゆらりと大きな影が覆い被さり、それだけ加わる力も増していくようだ。

突然の事に抵抗できず、重たい身体を押し退けようとするも、手に絡む水が滑って邪魔をする。月影と逆光で何がなんだか解らず、混乱に拍車が懸かった。闇雲に両腕をバタつかせたが、呆気あっけなく手首を受け止められてしまう。


「ちょっと…暴れないでもらえるか。君が紅玉るびーの持ち主って…嘘だろ…………まだ子供じゃないか。…………………はぁ…悪いけど、少し落ち着いててくれよ。」


勢い任せに金魚鉢の空を打ち破り、降ってきた序でに口を開く。年端もいかぬ少女が紅玉の持ち主と確信するや否や、僅かに天使の表情が強張った。


紅玉るびー


未だ幼さを残した人魚は硬直する。

天使は咄嗟に上体を反らしていたようで…大きかった衝突の割にけろっとしており、全く平気そうだ。見たところ痛みも怪我をした様子もない。

一方人魚は、この不可解かつ奇妙極まりない出来事の連続は、紅玉を要因にしたものだと検討を着けていた。そのため、多少驚きはしたものの直ぐに落ち着き払って、降ってきたのは何者かと警戒しつつ紅玉との関係性を考えた。


じっと彼の姿を探り月の明かりだけを頼りに眼を凝らす。相手の輪郭を捉えるように様子を伺ってみる…すると、白金ぷらちなの光をちらつかせ、眩しそうに眼を細めて此方に強い眼差しを向けている…色白で大柄な割に骨張った男が独り…姿を現した。不満なのか大きく溜め息をつき、ふわりと月下に舞い上がる。月を背負って立つ姿は正に天の使い。

衝突の影響か、柔らかそうな羽が辺りに散らばっていた。


サラリーマン風で長身、背中に翼のある男。

只の人間ではない。

そもそも天使などは空想上の生き物と思っていた…本当に居るんだ。…いや、私と同じで突然変身した?その割には落ち着いてる。

恐らく紅玉について何らかの手掛かりを握っているか、若しくは…私が人間の姿に戻るため協力をしてくれるかもしれない。

手先が滑ったのは彼のシャツを掴み損ねたせいだったのか…大きな翼をはためかせながら人魚わたしを見下ろしている。

偉そうな表情に不遜な態度…翼も大きいし、私のこの姿を見ても動揺もしていない…というより何か知ってて此処に駆けつけた。紅玉るびー以外にも不思議な事に詳しそう。


実際、彼女はよく考えていたし判断を間違えなかった。月越しの天使を見上げながら、不思議そうな面持ちをしたのも束の間…一変して今度は随分と怪訝そうに眉を潜めた。


「そんなに睨むな…此方こっちだって好きでやってる訳じゃない。はぁ…取り越し苦労になったのかどうか。あー糞ッ。お前、あの紅玉るびーに触ったな。」


男は諭すように話しているつもりなのだろうか…しかし、先程よりいささか語気は強目になっている。仕方なさそうに額を抑え、大きく溜め息を着いた。

…大丈夫そうだ、きっとこの人まともな大人。少し面倒臭がりなだけで。


「ふぅ…やっぱり……知ってるんだ。確かに触った…そしたらこうなった。急に海の中へ瞬間移動させられたりもした。…もしかして、貴方があの紅玉るびーの持ち主だったりする?」


不可解だが相手は天使…きっと只事では済まないのだろう。人魚になったばかりで気持ちに整理を着けたかったが、余りの事に先刻さっきまで感じていた憂いも恐怖もすっかり何処かへ消え去ってしまった。


「…なるほど、それでその姿か。残念ながら、俺はあの石の持ち主じゃないんだが…変身したものは仕様がない。ふぅん…人魚ねえ…水に馴染みがあるってことか。しかし、人への戻り方を見つけないとな。」


男は人魚の出で立ちから、私の能力や経験を分析していた。勢いよく水を浴びたせいで、彼の髪や身体はしっとりと濡れており、腕を伝ってぽたぽたと水滴が零れ落ちる。大振りに羽根を広げてばさばさと水を払いけた。

月光に滴る水と相まって白金の翼が美しく輝くと…一瞬、柔らかな風が吹き上がる。乱れた前髪を手櫛でおもむろに撫で付けながら、彼は風の力を使って全身を乾かしている。


…これが天使の能力ちからか…私も何かできるんだろうか。


未知の可能性を考えながら男を観察していると、己にも使用できる能力は在るのではないかと次第に期待が高まっていく。振り返り様、彼は私の尾ひれを指差し、軽く頷いて見せた。

その無愛想な天使は、海辺と満月を見渡しながら再び話し出す。


「その様子だと、今は紅玉るびーを持っていないみたいだな。それに…その姿になってまだ半日といったところか。君さえ問題なければ…このまま紅玉を探しに行きたいんだが…大丈夫か?」


天使は人魚を気遣いながらも前向きに話を進めた。突然のことにも拘わらず、この天使と人魚は極めて冷静に振る舞っている。

いや…冷静になろうと努めていたのかもしれないが、この二人は聡明かつ懸命であった。

僅かに大人びた人魚の表情かおもさながら、長い黒髪から滴る露の煌めきが美しい…。


「今のところ大丈夫だけど…その……能力って私にも使えるの?…さっき風の力を使っているのを見たから。人魚になったってことは、私も水を操るとか…できるのかな。」


「お前」から「君」呼びになったことに安堵した。人魚になったばかり…まだまだ不安は拭い去れないけれど…この天使の男に少しは認められたということなのかもしれない。


実のところ颯爽と表れたこの男…モナドの私や三千世界の住神から見ても有能な天使である。彼は能力者としてかなりの実績があり、腕の立つ天使であることに間違いはなかった。仕事においても充分、信頼の足る存在である。


紅い人魚は己の身に起こった不可思議な現象を全て話してみたくなった。

水泳のことも、怪我のせいで泳げなくなったことも…この男に話してしまいたい。

それが原因で紅玉に惹き付けられ、人魚こんなすがたに変わってしまった不安も…。

何故だろう…

懐かしい気持ちと切ない気持ちがない交ぜになって、潮のうねりのように感情が一気に押し寄せてくる。

焦りと不安…孤独と恐怖を自覚した途端、身体がかすかに震えた。

ほんの少しだけ涙が零れそうになる。


天使は何か考え込んでいるのか…しばら口許くちもとを抑えながらうつむいていたが、眉間に皺を寄せると、今度は実に難儀そうな表情かおをした。


「わかった…取り敢えず状況を整理しよう。君は、見ての通り人魚だ…確かに水の能力のうりょくは使える。だが、思い通り支配コントロールできるまで時間は掛かるぞ。…それと…。」


「それと…?」


「君が本来の能力を発揮する際、あの紅玉が必要になる。そのくらい…デカい能力ちからを持った石だ。未だ…あの紅玉るびーが安全なものとは言い切れないが…。」



風がやさかに吹き抜ける。

月光と共に彼の眼差しが私を射した。

白金の煌めきに揺れる天使は静かに月を仰ぐ。


輝く紅の鱗を纏い、しなやかな尾ひれを波間にくゆらせて…人魚は只その様を見つめたたずんでいた。

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