第14話 骨折り損の草臥れ儲け

水面越しに伸ばした掌は今にも月を掴めそう…揺らぐ月を眺めては、青々とした海にちっぽけな自分の居場所を探してみる。


パリンッ………!!!

硝子の割れるような高い音が響いた。


ふと、かげる月。

同時に降ってきた巨大な魚に、私はなすすべもなく…凄まじい衝撃と共に全身を水の上から抑え付けられる。ゆらりと大きな影が覆い被さり、それだけ加わる力も増していくようだ。

突然の事に抵抗できず、重たい身体を押し退けようとするも、手に絡む水が滑って邪魔をする。月影と逆光で何がなんだか解らず、混乱に拍車が懸かった。闇雲に両腕をバタつかせたが、呆気あっけなく手首を受け止められてしまう。


「ちょっと…暴れないでもらえるか。君が紅玉るびーの持ち主って…嘘だろ…………まだ子供じゃないか。…………………はぁ…悪いけど、少し落ち着いててくれよ。」


…え。今なんて…紅玉るびー


魚は直ぐ様喋り出し、私を硬直させた。

しかも気づかない内に、目の前の魚は上体を反らしていたようで…衝突の割に痛みも怪我をした様子もない。月の明かりだけを頼りに眼を凝らす。相手の輪郭を捉えるようにじっと様子を伺ってみる…すると、白金ぷらちなの光をちらつかせ、眩しそうに眼を細めて此方に強い眼差しを向けている…色白で大柄な割に骨張った男が独り…姿を現した。不満なのか大きく溜め息をつき、ふわりと月下に舞い上がる。月を背負って立つ姿は正に天の使い。

衝突の影響か、柔らかそうな羽が辺りに散らばっていた。

思考が停止する。

降ってきたのは魚ではなかった。

長身の男性…それもサラリーマン風。

手先が滑ったのは彼のシャツを掴み損ねたせいだったのか…大きな翼をはためかせながら人魚わたしを見下ろしている。

彼は人魚わたしの顔を見つけると、不思議そうな面持ちをしたのも束の間…一変して今度は随分と怪訝そうに眉を潜めた。


「取り越し苦労…になったのかどうか。あー糞ッ。お前、あの紅玉るびーに触ったな。」


先程よりも随分と乱暴な口調で語気を強め、責めるような物言いで男は私を睨み付ける。


「えっ…紅玉るびーってあの紅い石のこと………何で知ってるの。」


不可解だが相手は天使…きっと只事では済まないのだろう。人魚になったばかりで気持ちに整理を着けたかったが、余りの事に先刻まで感じていた憂いも恐怖もすっかり何処かへ消え去ってしまった。


「…見りゃ解る。あ~ぁ、立派に変身しちまって…お前、此れからどうすんの。その姿じゃ帰れもしねえだろ。」


男はぶつくさと小さく愚痴を溢しながら、前身頃まえみごろやパンツスーツを細かくチェックし始めた。彼の腕を伝ってぽたぽたと水滴が零れ落ちる。大振りに羽根を広げてばさばさと水を払いけた。

アァ~ビショビショジャネエカ…などと声を洩らしながら背中側のシャツを摘まんで肌から引き剥がしているようだ。おまけに盛大な溜め息をこれ見よがしに着き、乱れていた前髪を手櫛でおもむろに撫で付ける。その無愛想な天使は、海辺と満月を見渡しながら何か話を続けた。


が、混乱していた人魚の耳には届かない。

彼女は目一杯に思考回路を巡らせ、状況を呑み込むべく葛藤していた。


天使…だよね?

それとも…只のサラリーマン?

…ってことはないか。

うん、ない。100%ない。

だって羽生えてるもん。

煙草吸いてえ…とか呟いてるし。

えっ何…喫煙者?

今時ヘビースモーカーなの?

最近値上がりしてるけど…まあ、珍しくはないか。うん。


否、葛藤以前に着眼点が可笑しい。

この少女は己の姿を忘れているのだろうか。

…いや、責めては可哀想だ。

人魚になったばかりで泳ぎ疲れ、更には天使まで降ってきた。挙句の果てに見知らぬ海で、こんな仏頂面した天使、しかも男と二人きり…嫌に決まっている。混乱するのも無理はないだろう。早く美しい私に会いたい筈だ。

などと独りごちていたら、


「…オイッ…おいってば!聞いてんのか?」


突如大声を挙げられ、反射的に彼女の身体は可愛らしく跳ね上がる。ずっと話し掛けられていた事にようやく気付いたようだ。


「えっ…あっ!ご、ごめんなさい。何だっけ…あっ、紅玉るびーのことだったよね。実は、私も探してて…まだ見つからないんだ。」


可哀想に…男の怒号に人魚は震えながら答えている。どうやら私を探しているらしい。健気だ。長い黒髪から滴る露の煌めきが美しい…私のアルバムに保存しておこう。


「はぁ………紅玉るびーもそうだが…身体は大丈夫なのかよ。怪我は?…見たところ…まだ半日もってないだろ。気持ち悪いとか痛いとかないのか、新米人魚さん?」


強いて言うならお前(男)が気持ち悪い…いや、彼なりの心配なのだろう。玄人くろうとの天使をやっていると自尊心プライドが高くていけないな…フム。話がれてしまったが、この男は能力者としてかなりの実績がある。つまり腕の立つ天使であることに間違いはなく、仕事において充分信頼の足る存在である。


「今のところ平気だけど…そんな症状あるの?…私さっきまで海の中にいて…そうだっプール!…昼過ぎに友達とプールに着いて、独りで練習してたの。そしたら、プールの底にあの紅玉るびーが………それで、急に光って海の底に…。結局あの紅玉るびーは何なの…教えて。」


矢継ぎ早に言葉を繰り出す。

紅い人魚は己の身に起こった不可思議な現象全てを話すような勢いで、執拗に言葉を投げつける。天使は暫く頷きながら聞いてやっているが、眉間に皺を寄せ実に難儀そうな表情だ。つまり…彼女はどうしても私の正体を知りたいらしい。あのように美しい姿に変わってしまったのだから…まあ当然と言えよう。仕方のない事である。


「わかった…取り敢えず状況を整理しよう。でも、その前にその尻ヒレ(足)じゃ家に帰れないよな。そもそも歩けるのか?…戻し方…は解らないよな…何か気づいたことは?」


天使の投げ掛けに対し、人魚は少し躊躇うように口を開いた。

未だあどけない頬を染めながら…







「私の………お尻の下に何か居る…。」

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