隻眼聖女
八百板典人
第1話
(一)
『隻眼聖女』に雇われて早数日。俺は彼女の事をよく理解していない。
「大丈夫ですか、傭兵さん」
泥濘んだ地面の所為で足を滑らせてしまう。泥塗れになった身体で白い薄衣を纏った春天を仰いだ。空を縦横無尽に駆け抜ける小鳥達が、足を滑らせた俺を嘲笑する。冷たい春風が泥だらけになった俺の身体を優しく撫で上げた。
「神なんかを信じているから、足元を掬われるんですよ」
「聖職者としてあるまじき発言だな」
神を冒涜するような発言を口にしながら、隻眼聖女が俺の顔を覗き込む。右目に刻まれている縦一文字の傷が特徴的な彼女は、心配そうな表情を浮かべると、泥塗れになった俺に手を差し伸べた。唯一残った彼女の左瞳に視線を向ける。目が合った途端、彼女は俺から視線を逸らした。
「いいのか? その手、間違いなく汚れるぞ」
「いいですよ。罪は拭い落とせませんが、泥なら洗えば落ちますから」
彼女の手を見る。汚れ一つついていない綺麗な手だった。自分の手を見る。血の匂いが染み込んでいた。彼女の手を汚す事に罪悪感を覚える。眉間に皺を寄せた後、俺は彼女の手を借りる事なく立ち上がった。
周囲を見渡す。四方八方、どこを見渡しても木しか見当たらない。つまらない風景だ。俺達を取り囲むように立ち並ぶ木々と昨夜の雨で泥々になった地面を睨みながら、此処が山道である事を改めて痛感する。
「怪我がなさそうで良かったです」
右手についた泥を比較的綺麗な右頬で拭いながら、俺は聖職者の衣装に身を包んだ彼女の左瞳を覗き込む。彼女の瞳に映る俺の姿は小汚い仔犬みたいだった。再び彼女と目が合う。すぐさま彼女は俺から視線を逸らした。見るに耐えなかったんだろう。地味に傷つく。彼女は地面に視線を落としたまま、再び山道を歩き始めた。俺もその後に続く。
……隻眼聖女に拾われて、早数日。当然と言えば当然なのだが、俺は彼女の事をよく知らない。知っている事と言えば、彼女が除霊の専門家である事、聖職者であるにも関わらず神を信じていない事、そして、右目を失明している事。それ以外の情報は一切不明。彼女の右目に刻まれた縦一文字の傷はいつどこでつけられたのか、何で神を信じていないのに聖職者になったのか、俺は何も知らない。
というか、言葉を交わす機会が殆どない。これまでの道中で彼女と会話をした回数は両手で数え切れる程度。こんな会話量で彼女を理解できる訳がない。
(どうして、こうなった)
この状況に陥った経緯を思い出す。俺が隻眼聖女と出会ったのは数日前。酒場で仕事を探していたら、酒場に来たばかりの彼女に話しかけられた。そして、何だかんだあって雇われた。
何でも彼女はここから山を四つ越えた先にある港街に用があるらしく、一刻も早く街に向かわなければいけないらしい。何の用なのかは不明。分かっている事は、俺みたいな血と鉄しか知らないケダモノに縋らなければいけない程、彼女は時間に追われている事。あと、彼女の腕っ節は村の子どもに負けるくらい弱い事。それだけ。
彼女曰く、『生きている人間には弱いですが、死んでいる人間には滅法強いです』らしい。しかし、まだ彼女が仕事をしている所を見ていないので、本当に強いかどうかさえ不明。というか、そもそも幽霊がいるかどうかさえ不明。……本当、分からない事だらけである。
そんな得体の知れない彼女と俺は現在進行形で足場の悪い山の中を歩いている。
「傭兵さん、どうかしたんですか?」
聖職者の衣装に身を包んだ隻眼聖女は泥濘んだ獣道の上を歩きながら、疑問の言葉を口にする。俺は地面に落とした大きめの鞄──俺と彼女の着替えとか地図とか入っている──を拾うと、彼女の後を追い始めた。
「いや、あんたの事、よく知らないなーって」
泥が付着した頬を泥だらけの右手で拭いつつ、俺は木の葉に遮られた春天を仰ぐ。俺の吐き出した言葉と同じくらい、空もいつも以上にぼんやりしていた。
「私みたいな片目潰れた女に興味があるんですか?」
「口説いて欲しいんだったら、素直にそう言いな。忘れられない夜にしてあげるぜ」
揶揄われたので、俺も全力で彼女を揶揄う。自分で言うのもアレだが、あり寄りのなしの発言だった。頬の温度が急上昇する。足を滑らせた時以上の恥辱が俺の身に襲いかかった。
「なに恥ずかしがっているんですか。聞いているこっちの方が恥ずかしいんですよ」
彼女は赤くなった頬を手で仰ぎながら、呆れた口調で俺を詰る。
「でも、お互いの事を知るってのは良い考えですね。神の名を借りる傲慢野郎は、こう仰いました。『隣人を知れ』と。その教えに従うのは、個人的にかなり癪ですが、まあ、今回は素直に言う事を聞きましょう。これからの旅を効率的に進めるために」
「神に親でも殺されたのか?」
一言多い神への恨み節を吐き出しながら、隻眼聖女は明後日の方向に視線を向ける。足下から目を背けた所為なのか、或いは神を嘲笑した報いなのか、彼女は足を滑らせた。
「おっと」
彼女の腕を掴む。が、地面が泥濘んでいる所為で上手く踏ん張る事ができなかった。俺も足を滑らせてしまう。泥土の上に着地した俺と彼女は、ものの見事に頭の先から足の爪先まで泥の衣に覆われてしまった。
「……あんた、意外と抜けているんだな」
「貴方は意外と頼りないんですね」
「こんな足場が不安定な所を通るって言ったあんたが一番悪い」
「そんな私の選択を受け入れた貴方も悪いです」
泥のついた手で顔の泥を拭いながら、俺達は溜息を口から吐き出す。
「とりあえず、この近くに施設があるので、そこで泥を拭いましょう」
「施設?」
口に入った泥と一緒に思いついた事も吐き出す。反芻する事なく吐き出した言葉は、間抜けな響きを持ち合わせていた。
「私が勤めている団体が持っている施設です。礼拝堂との機能を持っている建物と言えばピンと来るでしょうか。その建物の近くに川があるので、そこで泥を拭いましょう」
そう言って、隻眼聖女は泥だらけのまま立ち上がる。俺は泥土の上に着地した鞄を持ち上げると、先行する隻眼聖女の後を追い始めた。
……旅はまだ始まったばかり。俺達は春天を仰ぎながら、歩を進める。
(二)
「ようこそ、聖女様。私達の村へ」
小さな村に辿り着いた俺達を出迎えたのは、腰の曲がったおじいさんだった。
「諸事情により礼拝堂は使えませんが、私の家で旅の疲れを癒して下さい。私と家は此方です」
泥だらけの俺達を嫌悪する事なく、おじいさんは俺達を自らの家に案内しようとする。そんな彼の善意に隻眼聖女は疑問を抱いた。
「ん? 礼拝堂が使えないとはどういう事ですか? 小火(ぼや)でも遭ったのですか?」
「それが、……礼拝堂は亡霊に乗っ取られていまして」
殺風景の村の中を歩きながら、俺はおじいさんの背後姿をぼんやり眺める。彼の背後姿は煙のようにボンヤリしていた。存在感がないと表現したら適切だろうか。彼はいつ俺達の前から消えてもおかしくないくらいに儚かった。
「なら、私が除霊しましょう。礼拝堂に案内して下さい」
「止めといた方が良いです。あの亡霊はかなり攻撃的でして、……その、下手に刺激したら何するか分かったもんじゃ……」
「余計な心配です。生者を現世から取り除く。それこそが私達『聖女』の役目ですから」
おじいさんの善意を道の脇に投げ捨てつつ、隻眼聖女は礼拝堂に案内するよう促す。
「で、ですが、……」
「ですが、じゃありません。その亡霊の所為で、村の人達は外に出られないんでしょう? 亡霊の所為で生活が儘ならないのでしょう? なら、一刻も早く除霊すべきです。じゃないと、生と死が混濁して手遅れになりますよ」
彼女の発言により、ようやく俺はおじいさん以外の人が外に出ていない事に気づく。少し年季を感じる煉瓦の家から人の気配のようなものを感じ取った。恐らく彼女の指摘通り、村人達は家の中に引き篭っているんだろう。沢山の視線が俺の肌を射抜いていた。
「そ、そこまで言うのなら、案内します。でもわあまり霊を刺激しないでください」
数歩だけしか離れていないというのに、老人がどういう表情を浮かべているのか把握できなかった。自分の目がおかしくなったと思い、目を擦る。が、俺が目を擦っている間に老人は礼拝堂に向かって歩き始めていた。見えるのは彼の背後姿のみ。さっき見た時と同じように、彼の背中は厚い雲に覆われた空みたいに『ぼんやり』していた。
隻眼聖女が老人の後追いを始める。俺も彼女の後に続く。亡霊が乗っ取ったと言われる礼拝堂は村の外れ──川の近く──にあった。
俺達を礼拝堂に案内した後、老人は俺達と改めて向かい合う。案の定、彼の顔は表情筋の動きが分からないくらい『ぼんやり』していた。
「ここが我が村の礼拝堂です」
「ありがとうございます。では、さっさとここから離れて下さい」
隻眼聖女は最低限の労いの言葉を掛けた後、老人に『さっさとどっか行けクソジジイ』的な態度を取る。どうやら彼女は結構冷淡な性格らしい。
「……何かあったら、赤屋根の家に来てください。くれぐれも無茶しないように」
その言葉だけを残して、老人は俺達の前から立ち去る。彼の残した言葉は彼女の選択を歓迎する音じゃなかった。
「さ、中に入りますよ」
『老人の忠告なんてクソ食らえ』みたいな態度で、隻眼聖女は礼拝堂と呼ばれる木造の建物の中に突入する。俺も彼女の後に続く形で建物の中に入った。
中を一望する。建物の中は殺風景だった。中には埃を被った木像しか置かれていない。建物の広さは縦大股十歩・横大股八歩。以前、別の村で見た礼拝堂と比べると、この村の礼拝堂は礼拝堂と呼ぶには烏滸がましい程、狭くて暗くていい加減で小汚い場所だった。
「貴方が亡霊ですか」
隻眼聖女は神を象った木像に寄りかかる『誰か』に話しかける。陽射しが一切入って来ない礼拝堂という名の豚小屋にいたのは、無造作に髭を生やした大男だった。
「オレに何か用か?」
脂ぎった長髪。淀んだ両瞳。髭に覆われた顔面。最低限の衣服と血が滲んだ包帯に包まれた筋肉質の身体。そして、身体に染み込んだ血の臭い。
数年前まで戦場で生計を立てていた俺だから分かる。彼は咎人(つわもの)だ。生き残るため、数多の命を奪って来た人でなし。神に忌み嫌われる側の人間だ。
「……いいから放って置いてくれ。オレは、もう疲れたんだ」
その言葉を告げた後、大男は木像に全体重を預ける。その姿は親に甘える赤ん坊のように弱々しく情けないものだった。
「……これは困りましたね」
寝息を立て始めた大男──亡霊を見て、隻眼聖女は溜息を溢す。それに呼応するかのように、何の前触れもなく、大男の身体が透け始めた。半透明になった彼の体を見て、俺はつい驚きの声を発してしまう。
「私の力では彼を除霊する事ができません」
ある種の敗北宣言を口にしながら、彼女は弱音を零す。
「じゃあ、傭兵さん。彼をよろしくお願いします。私は私の責務を全うしますので」
自分の力じゃ手に負えないと判断した彼女は、亡霊を俺にぶん投げる。
「……俺、除霊できないんだけど」
「知っています」
「……あんたの責務って何だ?」
「貴方が責務を全うできるよう、神に祈りを捧げる事です」
神を信じない隻眼聖女は神に祈るフリをする。その白々しい姿を見て、俺は長い溜息を吐き出す事しかできなかった。
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