電磁人

赤川凌我

第1話 電磁人

電磁人

第1部 伝導体

皆僕を勘違いしている、僕が人間だと。しかし僕は人間ではない。肉体は人間のそれであるから人権もあるが、僕は電磁気そのものなのだ。僕は電磁の神。僕の名前は山田太郎である。なんて平凡な名前だろう。しかしシンプルイズベストである。アップル社のアイフォンでさえ、シンプルではないか。光は電磁波の一つの形態である。僕は一定の条件の元では光になれるという事だ。僕が電磁人間である事は僕の人生と人間についての公理である。光は我々の生活に身近である。現代物理学でも相対性理論においては光速度不変の原理からアインシュタインによって提起された。もっとミクロな世界ではボーアやハイゼンベルクなどの量子力学もあり、21世紀の現代物理学は主にこの相対性理論と量子力学は避けて通れない。こんな事を言っておきながら恐縮だが僕は物理学者でもなければ、科学の知識も自慢できる程はない。しかし電磁と僕の存在は酷似している。秒速30万キロメートルの速さ、子の速さを持って人生を疾駆する光になりたいというのが山田太郎電磁にとっては憧憬の願望であった。僕はマイケルファラデーの電磁気理論を幼少期から知っていた。本なども、活字も読めないのに、ファラデーの肖像と彼の理論の説明を凝視して過ごす事も僕にはあった。

僕の顔は平均よりは良い方であって幼稚園時代も女児からモテていたようだ。今現在の頃の僕の身長は178㎝で身長も並よりは少し上である。世の中は質量保存の法則が成り立つ、その総和は無である。少なくとも僕はそのようなゼロサムゲームを信じている。社会には僕のように恵まれている人間もいれば、幼少時から体罰や虐待、ネグレクトを受ける人間もいるだろう。多感な発達過程においてそのような扱いを受ける事は心理的な障害を誘発させる。人間は僕の理論ではイギリス経験論に即して発達していくと思っている。カントやデカルトなどより、人間は白紙の状態で始まるというのがロールプレイングゲームのようで楽しいではないか。未来は如何様にも変わる。僕は哲学の中でも明るい哲学が好きだ。僕は大学にも行っていないし、哲学的知見はお粗末なものであるが、自身の人生を好転させるために自己啓発本に書いていた哲学的知識をしばしば調べるというような事をやってきた。世の中の大学教授を僕は尊敬している。彼らは例外なく現人神であり、僕如きの人間は彼らからすればクソ雑魚産業廃棄物である。

僕の少年時代の一人称は「俺」であった。しかし今の僕に相応しい一人称はやはり「僕」だろう。僕は少年時代、自分をバンガロー・ビルと名乗っていた。当時聴いていたビートルズの曲からその固有名詞は借用した。僕がビートルズの洗礼を受けたのは僕が小学生だった頃だった。僕の両親はビートルズやクイーンのファンだったからそれも自然の成り行きだったのだと思う。盲滅法な外国礼賛のつもりはないが英米の20世紀音楽のナンバーは甚だ完成度が高い。有名バンドの当意即妙なアイデア、また換骨奪胎の基本姿勢は僕から見ても学べる事が多かった。小説執筆でもしばしば文豪の古典を読んでおくことが関門になるように洋楽の豪傑達の楽曲はたとえオールディーズであっても芸術にとって参考になる。僕の洋楽偏愛は懐古趣味から生じたものではなく時代的な、論理的な必然性から来ている。

僕は少年時代、功名心からか自尊心からか、何か社会的なムーブメントを起こそうと密かに思っていた。このような思いを抱く少年は珍しいものではない。しかし近年は世の中を斜に構えて悟ったような少年がスタンダードになりつつあると言うのだから僕はその既成概念の起こるべくして起こった破壊を愛さずにはいられない。僕の当時の友人にはアンダーグラウンドにはまっており、小学生の時点でネット上が騒然とするような事件を起こしたらしい。僕はそいつについて、きっと夭折するだろうと思っていた。当時の僕の周囲は「お前は絶対に凡人だよ。高知能じゃない。私と同じだ」と女子生徒から言われた事がある。しかし現在の僕は天才だと認められているし、当時は僕の天才の前駆期、序章に過ぎなかったのだと僕は思う。凡人は往々にして人を見る目がないものである。

子供時代の僕は「俺の内的秩序は混乱や混迷の中でこそ一際強くなる。その為には何らかの集団に隷属して社会の酸いも甘いも勉強しなければならない」と思い少年野球チームに入った。この選択は僕の秩序の破綻を招き、僕の目論見通り混乱の時期に突入したのだが周囲の土人どもが余りにも不愉快過ぎた。結果として僕の選択は僕を悩ませ、時間の無駄遣いとなった。本当に無為な時間だった。指導者のスポコン精神による体罰なんてものは当然の如くのさばっていた。また少年たちの幼稚な趣味にも僕は社交的強迫感から合わせなければいけなかった。また黒人差別も蔓延しており、地黒だった僕は黒人だのガングロ卵などと言われて嘲笑されていた。分別のつかない子供はよく他人をエンタメの舞台装置にしたてあげようとするものだ。当然そのようなスタンスは大人になる頃には根絶されてしかるべきなのだが、程度の低い集団にはそのような発達遅滞の連中が多くいるので大人の僕にとっても未だ注意が必要だ。

僕は寸毫も好きではなかったのに、野球チームの女子を好きだという妙な噂を流されたりもした。僕はその当人である女子の事を好きであるばかりか、恐れていた。彼女は良く分からない人間であったし、僕とはタイプの違う人間に思えた。僕は出来れば彼女と関わりたくないとさえ思っていた。彼女は野球チーム時代、僕に冷酷な扱いをする事はなかったが僕は彼女に常に冷酷な扱いを受けているように感じていた。繰り返し言及するが僕は彼女に対しびくびくしていた。今彼女は同じ野球チームの男と結婚し、出産しているらしい。まあそれはそれで良いのだが、あの野球チームには良い思い出がない。馬鹿どもが雁首揃えて、馬鹿な事をやって、馬鹿な精神に支配されていた。その様相はまるで家畜である。ニーチェ風に言えば畜群とでも言うのだろうか。スポーツには罪がない、人間に罪があるのだ。スポーツのみならずあらゆるコンテンツを汚物に変えるのはいつだって人間なのだ。人間の醜い精神、競争心、通俗性、粗暴さ。そのようなものがコンテンツを貶めている事にいい加減人々は気づいた方が良い。

僕は少年時代の初期の頃は喧嘩好きであった。白兵戦には自信があったし、溢れるようなエネルギーを暴力に昇華する事が多かった。今の僕ではそんなものは考えられない。暴力の先には何もないのが普遍的な心理である。僕は当時周囲の児童を散々馬鹿にしていたものの、僕自身もまた未熟な少年であった。決して人格的には褒められたものではなかった。

僕は統合失調症を発症するまでは良い時代を過ごしたように思える。自分の個性も、また全力疾走も発露出来た、多くの友人にも恵まれた少年時代であった。僕を電磁的存在だとするなら当時は縦横無尽の保証された伝導体の中にいたのだろう。僕の少年時代はまだ才能が開花していなかったものの、良い時代に相違なかった。僕の少年時代中期に僕はブルースなども聴くようになっていった。またそれまで以上にリフやコードにも注目するようになり、刺激的なリフが売りのブラックサバスなどのヘヴィメタルや、芸術的に構成が素晴らしピンクフロイドなどのプログレッシブロックも聴くようになっていった。僕は音楽の趣味のあう人とは学校の休憩時間いつも一緒にいて、懸命に会話に没頭した。

「俺はビルの事、好きだよ。恋人としてではなく、友達として」

「ありがとう。俺も君の事、良い友達だと思っているよ」

僕は当時そんな会話をした。僕は少年時代、何故か人に惚れられたり、魅了される経験が多かった。何も意識していない行動が、友情を育み、エンタメになったりしていた。当時の僕と、今の僕を比べてみると、分りやすさの点において異なっている。現在の僕の慈悲やら感情やらは至極複雑怪奇なものであって、その内部には理性が内在していたりする。それを明晰に理解できるものは少ないのであまり表面的には褒められないのだ。後は今の僕は非常に対人恐怖の残滓に悩んでいるという点もその理由の一つだろう。今は昔よりはましになったのだが、統合失調症の経験により人間に慄然とし、人間との意思疎通や人間の視線を忌避する時期が長い間続いていた事がある。今僕には友達も恋人もいるのでそうではないが、この少年期の次に仁王立ちしている絶縁体の時期はまさに恐怖小説の如き力量を持っている。

僕は少年期はゲームが苦手であった。男なのにゲームが苦手だとは珍しい。ちなみに僕は今でもノベルゲームやパズルゲーム以外は人並みにプレイする事は出来ない。そんな僕は当時下手なりにゲームを享楽していた。ヨッシーアイランドというスーパーファミコンのゲームが特に僕のお気に入りであった。遠方の友人の家まで出かけては昼から夕暮れになるまでずっとその友達の家でヨッシーアイランドをプレイしていた。

かつて僕はスポーツが好きな少年であった。今もスポーツは嫌いではないが、自分から進んでやろうとは思わない。スポーツの指導は誤っている、あのような教え方ではスポーツを憎む人間が出てくるのも頷ける。僕は当時足が速かった。陸上競技大会にも出たことがある。しかし急に足が遅くなり始めてからはあまり体育などでも活躍しなくなった。

またバイオハザードのゲームにはまりだしてからはゲーム内の傭兵の真似事をして、アクロバットな遊びをしたり、体術の研究をしたりしていた。当時の僕の夢は自衛隊員になって、海外に派遣され地球や国家を防衛する事であった。それは場違いな、身の程知らずな夢の一つであった。僕は野球選手になりたかった時もあったし、モデルになりたかった時もあった。しかしそれらは覚悟もない、畢竟虚妄に過ぎなかった。甘い考えで夢を持ち、その夢が潰えるのは人間の人生にとって常套的に行われる事ではないだろうか。

中国や韓国などのパクリ問題を僕は当時ネタにしていた。しかし昔は日本でさえもパクリの粗悪品を海外に輸出していたのだから歴史的なバックグラウンドを考慮すればこれは迂愚な事であった。少年少女時代は一般に愚昧の変遷にこそある。そして肉体的精神的に発達していく過程で分別のある大人が完成する。しかし誰しも気づく。子供の頃のような情熱や好奇心は失っていく。指の間からすり抜けていくのだ。そのような悲哀とともに生きるのが生物の宿命であるのだが、僕の少年時代の一図で無謀な万能感はその頃、恣意的に振舞っていた。少しでも聡明な人間なら早いうちに万能感などを捨て、大人になる事を選択するのだが、僕はやはり、通常の少年時代の踏襲者であった。僕はあの頃、愚かだったのだ。聡明さとは無縁の下衆のような精神構造をずっと持っていた。

僕は成長とともに精悍な顔立ちに育っていった。僕の第二次性徴は一般的な時期に発言した。剛毛になったし、吹き出物も出た、テストステロンによって僕は筋骨隆々な体になっていった。

少年時代には僕の事を好きな教師もいた。当時の僕は既存の学校教育に服従し、優等生としての地位を思うがままに享受していた。まるで不良だった少年期初期との決別をするかのように僕はヒステリックに行動していった。自我が覚醒するこの時期に僕は自己を改革する事が出来た。今の僕はそれ程の熱量があるかどうか、甚だ疑問の至りである。

少年期初期に僕は高い場所から誤って転落した。その際僕の脳は欠陥がぶちぎれた気がした。実際にぶちっというような音を僕は聞いた。少年期の僕は、特に初期少年期の僕はよくビールを飲んでいた。不良だったのだ。しかしそれは悪ぶりたいからではなく飲まなければやっていけないからであった。僕は親戚などの集った食事の場で大人にビールを飲ませてもらったのだ。僕の母親はそれを黙認した。僕は家族に隠れてビールを飲むことがあった。何故か冷蔵庫のビールが消失している事に僕の両親は唖然としていた。正確無比な論理性を持った優秀な僕の父親も、まさか僕が飲んでいるとは思わなかった。

僕は少年時代初期は野球道具を買ってもらったり、生物学の図鑑を買ってもら足りしていた。シートン動物記は僕の少年時代の愛読書であった。また僕は少女漫画もよく読んでいた。女子がどのような心理で恋愛をしてゆくのか、僕は何となく理解できるようになっていた。しかしそれを言語化して、解説書などを書くことは出来ない。それは僕の神経に直接語り掛け、教示された天啓のようなものであった。

僕の少年期には東北に大震災があった。福岡の原子力発電所はメルトダウンし、放射能が漏れたらしい。外国人の中には放射能をまき散らすなとか、黄色い猿どもが流れている、日本列島が沈没していくのが目に浮かぶ、などと言う連中もいた。そうした連中は一人の例外もなくレイシストなのだろう。人間全てが善人だとは限らない。極端に悪い奴がいれば、極端に良い奴もいる。しかし世の中の大多数はそうした連中の二極化が進んでいるのではなく中間存在であるどちらともつかない人間が多い。この実情を考慮せずに、外国人を野蛮なレイシストと総括して批判するのはナンセンスである。しかし当時の僕はそのような発想には至れず、ただ恐れ、悲しんだ。その影響で外国人との音声チャットでは理由もなく外国人に「ファック・ユー」なんて言った。これは非生産的どころか、現実を一層複雑にする馬鹿げた行動である。僕はそうした野卑な少年時代を回顧して、苦笑せずにはいられない。

少年時代に僕を嫌う連中がいた。僕は彼らに何もしていないのに僕は彼らから嫌われていた。しかし今ならその理由が分かる。自分の確固たる世界があって、自分の頭で、例え間違っていようともきちんと思考が出来ている人間を見ると彼らにとっては嫉妬で燃え尽きてしまうような痛痒を感じてしまうのだ。馬鹿げたカスどもである。僕はそのようなカスどもを現在でも心底軽蔑している。カスどもはカスどもなのでとるに足らない連中である。ゴミに話しかけながら生活するような人間がいないのと同様に、僕はカスどもを相手にしない。対等になったら負けである。

少年時代、僕は、自身の陽気な生命力に当たる電気と、その陽気な副産物である磁気を常に発生させていた。

僕はまだ成人の平均身長に満たなかった14歳の頃、とある事情により、精神科で知能検査を受けた。精神科医は驚きながらその結果を僕に伝えた。IQ175だという事であった。僕はガウスの正規分布曲線のような形状が知能指数の統計では伴う事を知っていたので若干喜んだ。僕の両親はその日から僕を天才扱いするようになった。

少年時代中期、僕には相棒がいた。しかしそれは僕にとって遠すぎる過去だ。僕の相棒はイケメンであった。また理系の成績が優秀で、理科の試験では満点を取ったり、模試の数学では校内で1位になったりしていた。模試で校内1位というのは僕も社会と英語でとった事があった。しかしそれはずば抜けた代物ではなかった。数学の模試では校内3位までしか取ったことがない。数学の能力だけを測る30点満点の試験では29点で他の学生からは驚かれた事もあったが、僕は満遍なく出来る人間ではなかった。

彼は女にモテていた。僕も女にモテていたのだが、彼ほどではなかった。彼は僕と自然科学について議論をしたりしていた。相対性理論や電磁気学が当時専ら僕達が行っていた議論であった。彼には利発さがあった。それは外見にもあらわれていた。僕と同様近視だが輝きのある、豊富な洞察力を彷彿とさせる瞳、論理的な話口調。正直僕は彼が羨ましかった。僕と彼はお互いに気を許していて、よく休憩時間には一緒に喋っていたのだがそれは彼のような恒星染みた光を受けたかったからだ。当時の僕にはまだ積極性があったので自分の興味の持った人物には手当たり次第に話しかけたりしていた。

意識はしていなかったが僕は彼を同性愛的に愛していたのかも知れない。彼が女性と親しげに話しているのを見ると、僕の胸中には嫉妬心のようなものが燃え上がっていた。同性愛なんてものは中世のキリスト教社会では罪であったらしい。同様に当時の僕としても同性愛と言えば、なよなよした男がお互いにいちゃつくという見るに堪えないものだと僕は感じており、自分の中のそういった傾向は断固として認める訳にはいかなかったのだ。

彼は僕の理解者を自称していた。僕もまたプライドが許さなかったので口にはしなかったが彼の事を、彼の才能を、彼の性格を理解し、敬服していた。

「ビル、この素晴らしさが分かるかい?物理学の美しさはまさに対称性にあらわれているんだよ。俺の塾の先生が言っていたんだけどね、特殊相対性理論は光速度不変の原理から編み出された歴史的必然の産物なんだよ。俺はアインシュタインのしたという計算も見たけど、それは本当にエレガントだったよ」

「特殊相対性理論か、そんな事に詳しい先生が君の塾にいるのか。俺、計算は苦手だなあ、でも将来物理学の研究をする上では計算は避けて通れないいばらの道だよね。何とかして慣れていかないとレオンハルトオイラーのように計算にその身を投じていきていかなければならない。俺たちはプリンストン大学に行って世界の最先端で研究をするんだ。お互い頑張ろうじゃないか」

「ああ、頑張ろう」

僕たちの友情は尊いものであった。今彼は生物学を専攻する人間となったようだが、当時の僕との記憶をどう思っているだろうか。幼稚な男と仲よくした事は時間の損失だと考えている事だろう。僕には人を魅了し、楽しませる事は出来なかった。冗談なんてものも秀逸なものは言えなかった。僕はエンターテイナーでもなかったし、抜群の優秀な学業成績を誇っていた訳ではない。今の彼にとって僕は生ゴミのようなものであるだろう。統合失調症になってから彼は僕とあまり関わらなくなった。彼は精神病を知らなかった。また彼のような強靭な人間は僕にとっては精神的な疾患とは無縁に思える。

しかし人は外見では分からない。僕の家の兄弟は4人中、2人が精神科や心療内科のお世話になっている。精神的な障害はある意味この悲哀に満ちた時代の専売特許と言えるかも知れない。診療内科を訪れた僕の妹は最近医師に適応障害だと診断されているらしい。したがって仕事はやむを得ず辞めると言っている。

少年時代中期まで、紆余曲折はあったものの電磁である僕はその力を見せつけていた。また自分自身もその事に誇らしさを感じていた。それは純粋な誇らしさである。あの頃の僕は純粋で穢れを知らなかった。良き友に恵まれていたのに、当時の僕はその事を上手く感謝できなかった。今になって思う。自分は彼らに感謝しなければいけなかったのだ。しかしそんな事は当時の僕には出来なかった。プライドだけは一丁前に高かったのだ。統合失調症発症以後、僕のプライドは標準的なものに変化していったのだが。相棒であった彼、僕は彼に明確に性的な欲情を抱いたりする事はなかった。もしかすると同性愛ではなく、単なる深い友愛を僕は彼に抱いていたのかもしれない。しかし彼は魔性の男である、人を狂わせてしまう魅力が横溢していた。今の彼はどうなのか、僕には分からない。彼のその魅力は若さゆえのものだったのか、それとも恒常的なものだったのか、その実情は今の僕にも判然としない。

当時の僕は極めて前向きであった。しかしそれは無知から生起した前向きさであった。人生の袋小路である統合失調症発症以後の僕はすっかり悲観的になってしまった。また僕は後ろ向きであればあるほど偉いのだと考えるようにもなっていた。しかしそのような事は明白な近視眼的誤謬である。無知な愚か者であるよりは、悩める賢者である方が良い、そのような意味を示したミルの言葉もある。しかしそのような事は完全に間違っている。大体、悩み過ぎて、問題を一人で抱えて、自滅していくのが正解な筈がない。悩み自体を僕は否定しない。しかしいつまでも世界に対し達観したかのように絶望の眼を向けているのはちゃんちゃらおかしい話である。それは生き抜く上では何より障害になるのだし、現代の先進国ではそれを美徳とする風潮さえ跋扈している。これは事実を曲解した人間のなした甚だしい誤解の流布であり、民衆がそれに対し、盲目的、無批判に従う事によって今の暗鬱で、閉塞した世の中は維持しているのだ。また国の終わりを意識する人間は海外と日本の一側面だけを見て、この国は終わりだなんて言っているのだが、それもおそらくは自分で考える事を放棄し、国民の意識変化を意図したマスコミなどの陰謀である。陰謀と言えば、大仰に聞こえるかもしれない。世界の陰謀のほとんどは大嘘であるとの意見もある。しかしこれに関しては僕は確信を持って陰謀だと言う事が出来る。人はその事に気づき、いつまでも支配に身を委ねるのではなく、自分自身の頭で間違いでも良いから懸命に考え、自分の哲学を持って、強く、自立して生きていく責任がある。特に大人にはその責務がある。

僕は相棒と大学の科学の実験をするイベントに参加した事があった。場所は僕たちの地元の図書館であった。そこでは遠心分離を使用した化学実験が行われていた。僕たちは目を輝かせてその様を見ていた。科学というものは尊いものだ。人間を前進させたり新たな法則が発見されたりする。彼とは一緒に図書館に入り浸っていた事もある。僕たちは多くの主に西洋由来の科学知識を吸収していった。僕たちはそうして得た知識を自分たちなりに咀嚼していった。それは僕達にとって何よりも面白い事だった。少なくとも僕にとっては誇張抜きで面白かった。

僕たちは本当に仲が良かった。僕はそう思いたい。本当に、あの頃の僕の記憶を僕が思い出すたびに胸が締め付けられるような心地がする。僕は楽園を自分で壊したのだ。統合失調症は単なるスケープゴートだ。本当は自分勝手に楽園を壊してしまった自分が、僕は許せないのである。それは今でもそうだ、許せない。したがってそのような自分を僕は直視し、自己懲罰をしていた頃もあった。自分が世界一の極悪人だとは思わないが、決して善人ではないだろう。真の善人なら病気になっても人間関係はこれほどまでに凋落したりはしないものだ。

僕の少年時代中期まで、僕の芸術的才能は中学校でも知れ渡っていた。ピカソのような絵画を描くと言う事でよく礼賛されていた。美術教師になる道や画家になる道も僕には勧められた。しかし当時の僕の画力は今現在と比べてアニメや漫画の影響を大きく受けており、必ずしも自信を持って人に見せられるものではなかった。しかし僕は描き続けた、僕は本当は科学や数学より芸術の方に適性があった。しかし相棒との親友的な関係を捨ててまで芸術に没頭する事はしたくなかった。今でこそ僕は様々な芸術活動を行っているが、それは統合失調症を経過させた事よりも、相棒がいなくなったことが影響しているのかも知れない。僕と相棒はお互いに信頼しあっていた。僕は彼の信頼を裏切らない為に、強く生き続けた。悩んでいても彼には打ち明ける事はなかった。まあそれは僕の配慮によるものというより僕は彼の前では強い自分しか見せたくなかったからだ。

統合失調症を患ってからの僕に対して自尊心が高すぎる、君は色んな意味でグレーだなどとみなすプライドの高く、馬鹿な医者もいた。僕は妄想に妄想で応じてどうすると思った。この大変な時期に診察で下らない意見を言うんじゃないと思った。その医師はチビで僕に対し慎重で張り合ってきた。最後まで馬鹿な男だった。あのような男は医師免許をはく奪されてしかるべきだ。彼は医師を名乗れる水準に達していない。ただ自分の妄想を患者に押し付けて自己満足の稼業を行っているだけだ。大変な時期にいる、混迷の時期にいる患者に対しそのような卑俗かつ醜悪な仕打ちをするのは医療従事者失格であるし、彼のような存在が現代日本の精神医学や臨床を更に複雑で荒唐無稽なものにしてしまっているのだ。彼のような存在はその典型的なパターンである。また同じ病院の医者も僕の事をプライドが高すぎるなんて的外れな事を言っていた。彼らは僕の診察での毅然とした態度、およそ精神疾患者に似つかわしくない恐れ知らずの態度に恐怖し、嫉妬し、そのような事を言っていたのだ。彼らは極めて感情的な生き物だ。動物と大差がない。僕は動物相手に診察を受けてしまったのだ。あのような時間は時間と労力の浪費であるばかりか、精神症状に苦しんでいる僕に対し、俗物的な精神で報いた事によって非常に僕を不愉快にさせた。

時間は有限で、人生も有限だ。僕はこの短い人生を無駄な事で費やしてしまうのは馬鹿げた事だと思う。僕の野球経験はまさに単なる時間の無駄であったし、あの経験で僕に学びをもたらしたり人生を豊かにする事はなかった。しかし僕の相棒との記憶は依然として僕の少年時代の良き時代である。若さは貴重なものだ、しかしその貴重性は経験量の欠乏から生じる盲目性によって普段僕の念頭に置かれる事はなかった。若者にしかない力量や情熱、純粋無垢さも僕にはあった。僕は少年期によく見られるように周囲の人間を終始一貫して見下していた。そうする事で僕と周囲の人間を差別化し、相対的に自分を高位の存在に置こうとしていた。当時の僕は重要な思想を持っていた。天才は必ずしも学業成績の中に表れるものではないという事だった。僕より成績の悪い人間の中には並外れたユーモアのセンスを持っていた者や、IT機器に関して専門知識を持っていた者もいた、僕は彼らを尊敬しつつ、しかし一般にはやはり見下していたのだ。こういうと何か矛盾しているように思えるかもしれないが、思春期の人間の胸中は得てして矛盾しているのが通例であり、それを赤裸々に文章に示せば、理路整然さを失ったような記述になるのは必然である。矛盾を指し示す事は僕にとって思春期の僕との決別であり、成長の証だ。無論自分の思春期を脚色したりして、徹頭徹尾理を通底させたりする記述をする人間もいるだろう。しかしそのような事は僕にとっては偽善や欺瞞のようなものであるように思える。人間は理性的な存在であり続ける事は出来ない。終始理性的な存在であるのなら世界大戦などは起こらなかっただろう。バートランドラッセルも僕と同様の感想を持っていたようだ。これは公理を基礎とし明晰さのみを資源として展開される数学や科学のようなものと対比させればあまりにも野性的で、議論するのも憚られる問題であるだろう。

僕は昔から男らしいイケメンであった。三船敏郎に似たハンサムな外見を持っており、女顔の男は気持ち悪くて受け付けない。女顔の男は弱そうに見えるし、男としてのプライドをなげうって生活している女顔の男を僕は今でも軽視している。僕の周囲の人間も同様の意見を持っている。赤川という女顔の男が今現在社会では持て囃されているが、そんな事に僕はやはり憮然とせざるを得ない。どう考えても頼れそうな外見の、筋骨隆々で精悍な、僕のような男が優秀に決まっている。

僕という電磁の勢いは少年期においては際限なく流出していった。僕は相棒と出会う前、様々な人々と下らない話をしていた。その中では夭折し、もはや個人となった人物もいる。僕は中学時代には母親に運動部に入らないと家に入れないと言われ、嫌々運動部に入った。一番楽だと評判であったソフトテニス部に僕は入った。僕は今、スポーツのルールを全く覚えていない。スポーツをしなくなったからだ。ソフトテニス部で僕は本気になって練習や試合を行う事はなかった。ダブルスで僕と一緒になった男はいつも僕に対しイラついていた。彼は試合に負けるとヒステリックに僕を責めた。また暴力的な少年もいた。彼は長身であり、サボタージュしていた僕にボールをぶつけたりしていた。運動部の練習は僕にとって拷問である。スポーツは遊びであるべきだ。ストイックに上手くなろうと練習をするほどの価値はスポーツにはない。それでも僕はスポーツそのものを嫌ってはいない。ただスポーツに関わる愚かな人間を嫌っている。まことに馬鹿ほど始末に負えないものはない。

僕は少年時代、もっとも特筆すべき自分の才能は芸術の分野にあると思っていた。ちやほやされようとされなかろうと僕はやはり芸術への情熱を失わせる事はなかった。僕の好きな絵画はドガやモネの絵画であった。僕は名画を模写したり、風景を描くこともあったが前述したように当時の僕の絵画はアニメや漫画などの影響を受けていた。

よく僕は当時自転車で様々な場所に移動したりしていた。休日は昼ご飯をマクドナルドにして映画を観る事も多かった。僕は色んな映画を観ていた。当時の僕にとって映画は、特に洋画はかなり刺激的なものであった。家族でショッピングモールに出かけた時にも映画を観る事が少年時代中期までの僕にとって通例であった。むしろ映画を観なければ僕はなにかいたたまれないというか、妙な感覚を感じるようになっていった。

僕は少年期は特に哲学を嗜む事はなかった。古代ギリシアの書物は読んでいたし、ソクラテスやプラトンなどはもちろん知っていた。しかし後の僕が傾倒するフロイトなどの兆しはその頃には全く見られないものであった。哲学なんて難しい。あんなものは机上の空論だ、科学のような唯物的で理性的な世界観こそ最高だ、と当時の僕は考えていた。しかし科学の領域であっても、その基礎的な部分やバックグラウンドでは哲学的発想が孕んでいるのだからこれは甚だしい誤解である。

「ビル、お前は賢いよ」本ばかり読んでいた僕を見てそう言う人間もいた。彼は僕に哲学者になってくださいなんて言っていた。また当時の僕の大言壮語は国語の時間の作文や、学校の催しである感想文などにも如実にあらわれていた。

当時から僕が苦手としていたのは抑圧された自分の感情や思考を自意識にのぼらせる事である。この事に関しては僕は今でも四苦八苦している。僕は幼い事から口下手で口げんかも苦手で煩わしいと感じていた。ほとんど言語障害のようなものだ。僕の国語の成績は中学時代までは優秀で素晴らしい参考書があったから高得点であったが、もし僕にそういった存在がなければ僕の国語の成績は低空飛行か地を這っていただろう。実は小説もそれほど僕は昔から読んでいた訳ではない。ダンテやシェイクスピアの著作で感動した事も僕にはあったのだが、文系的分析はやはり僕からすれば苦手なものであった。周囲の人間がそうする事が知的だというから小説を読んだりしていた。要するに当時の僕は他人を軸にして生きていたのだ。そもそも不良だった過去の自分を改革するのは自己満足的な問題というより他人に依存した事柄であった。それでも熱量は豊かなものであった。僕は数年間、燃え尽きる事無く研鑽し続けた。様々な本を読んで、様々な思想にも触れた。また記憶力が良かったので社会の成績は良かった。まあ政治経済は全く興味がなかったのでその分野の成績は芳しいものではなかったのだが。

21世紀の日本は資本主義である。様々な資本にまつわる誘惑が僕の生きる時代では支配的なものであった。僕もまた周囲と同じように権力者やマスコミ、専門家からの洗脳を一身に甘受していた。その洗脳を認識できるようになるのは僕の哲学的意識が勃興し始めてからである。そしてそのような事が出来るようになった時には僕に絶縁体的作用がもたらされていたのである。皮肉な事だ、真理や本質に近づけば近づくほど、胸が高まったり、感動したりするのではなく、無感動になって行く。どのような賞賛や名声も本心からは喜べず、またそういったものは無味乾燥な美辞麗句のようなものであると思えるようになって行く。少なくとも僕の場合はそうであった。

僕は少年時代中期まで、早く大人になりたかった。ビールを飲んでいるのがしばしばあった僕にとってそれは酒が合法になるからではない。大人は僕にとってクールに思えたのだ。

中学時代に僕は同級生の少年たちと釣りにでかけた事もあった。また友人と悪ふざけをしてその様子を動画に撮ったりもしていた。それはネットにさらされたらしいが余りにも下らないのでほとんどだれも見向きもしなかった。またチャットなども僕はしていた。チャットは当時の中学生で、電子機器に慣れていない時分の僕にとってかなり新鮮に感じていた。下らない事を僕たちは話した。僕はネット弁慶であったのでネットでは人格が一風変わったものになっていたらしい。しかしその自覚は当時の僕にはなかった。

今の僕は178㎝でそこそこ長身である。中学時代の僕は男子中学生の平均程度の身長であった。また精通は既に小学校六年生の頃に済ませていた。卑猥だが近所のお姉さんに済ませてもらったのである。僕は昔から女たらしであった。女にモテそうな事はどのような下らない事であっても果敢に行っていった。周囲の人間も女にモテたいのは同じだったようでそういった人間は珍しくなかったらしい。僕は男としてのプライドをかけて、自己を演出し、威信を示し、これ見よがしに極端な行動を矢継ぎ早にしていった。当時の僕は自己顕示欲の塊であった。統合失調症になってからはむしろそういった要素を隠蔽し、普通の人間を装ったりしていたがそれでも僕が統合失調症になってからは多くの人からいじめられたり、迫害されたりしていたものだ。

僕は昔、江戸川乱歩もよく読んでいた。彼の作品の中では僕は特に短編を好んだが長編も好んで読んだりしていた。僕の相棒は伊坂幸太郎や東野圭吾を読んでいたのだが、僕は文豪の書物ばかりを読んでいた。これは単に名前がよく知られているという事はそれだけ値打ちがあるのだと、民主主義にありがちな誤謬から生じるものであった。まあしかし、それを抜きにしても江戸川乱歩の作品は面白かった。学校の教科書に彼の作品が掲載されていないのが僕からすれば残念であった。

僕の髪型は今も昔も僕の好きな俳優を意識したようなものであった。僕は中学時代にはまだ日本のドラマも熱心に見ていた。日本のドラマも捨てたものじゃないと僕は思う。しかし最近の僕はドラマ自体を見なくなった。これは統合失調症によって意欲が削がれているからだろうか、それとも感性の激動によるものであるからだろうか。まあそんな事はどうでも良い。大体人間は常に変化してゆくものだ。良い意味でも悪い意味でも。

僕は受験を期に変わって行った。僕は激しい虚脱感に襲われ、勉強にも、進路にも、人生にも投げやりなものになっていた。自分なんていっそのこと死ねば良いとまだ思う程自分の醜さを苦に病んで自己嫌悪を意識しだすようになった。周囲の人間はむしろ受験をきっかけに勉強や人生と真面目にかかわるようになって行った。ウサギと亀の逸話で知られているような事が僕の人生にも起きたのだ。もう僕は精神的バランスも完全に失っていった。人間関係でも僕の事を根暗な男だと言う人間も出て来た。僕は女にモテるなんてことにも熱意を感じなくなっていった。ここまで駄目な人間が、どうして恋愛など出来るだろうかと思っていた。数年付き合っていた彼女とも破局した。それは僕の孤独を求める性質故の行動であった。僕は内向的になってゆき、自分だけで問題を抱えるようになった。その悩みを僕は誰にも相談する事がなかった。当時こそ、真に他人からの助けを必要としていたにも関わらずだ。僕は不器用で、生きるのに向いていないのかも知れない。昔も今も。それは僕の体質とでもいうべき基本原理なのだろう。また当時はその悩みを文学や哲学との関係性の中で俯瞰したり、分析したりすることもしなくなっていった。

精神疾患は現代病とされている。僕の統合失調症も発症年齢やその他の統計的なデータでは多くの人に見られる病気である。その犠牲者に僕が選ばれた。いや、僕自身が堕落を求めていたのだから統合失調症は僕が引き寄せたものだ。当時は精神的危機に相対してから自分は超人になれるのだと僕は信じていた。艱難辛苦が人間を強くするというのは僕のオリジナルの思想ではない。それは世の中に蔓延している思想の一つである。それをもとに僕は行動していった。もはや受験どころではなかった。僕は偏差値だけで興味のない工学の学校に中学を卒業してから進学するようになっていった。

統合失調症の人間は多くの場合見た目は普通に見えるのである。僕自身もその不可視の生涯ゆえ、よく健常者と同じような仕事や期待を強いられている。15歳の時点で僕には統合失調症の前駆期が始まっていた。しかし当時、賢かったのが僕は自分を傷つけ、責め苛む事があっても他者危害には至らなかった事だ。これは功利主義的な他者への無危害を基本としたものではなく、単にそれは美しくなかったからだ。理性も著しく落ちぶれ、生活習慣も荒廃したものの僕の内的な芸術家はまだ美を捨てなかったという事は何か、非常に象徴的である。


第2部 絶縁体

 僕は15歳で痛恨のミスをしてしまった。進路選択の失敗、盲滅法の努力、僕は自分の力量を見誤り、人生設計を失敗したのだ。僕は工学の学校に入った。ここには自由がなかった。そして僕自身も自分は自由であってはならないと思っていた。統合失調症、それは15歳の受験期のストレスによって発露したものであった。僕は人を避けながら生活するようになった。僕は自宅からその学校に通っていたのだが、自宅ではいつも暗い部屋で何かをしていた。その為僕の視力は日増しに劣化していった。僕の父親は近視で、その祖父母も近視だ。僕には近視の遺伝があった。目は重要だと日頃から熱弁していた父親の声を僕は無視し、目を大切にしなかった。学校で僕はあるクラスメイトから無視されていた。また僕の存在を疎ましく思う人物はあからさまに僕に対していやがらせをするようになった。まるでその学校は監獄のようであった。ただ抑圧される生活のみがあった。その学校には女性が少なかった。しかし当時の僕は恋愛なんて出来なかった。人が怖かったのだ、そっとしておいて欲しかったのだ。僕に優しくしてくれる人間もいたが、僕はそんな人々の有難い助太刀を拒否した。学校で僕は孤独な人間であった。クラスの連中の半数以上はアニメや漫画を愛好するオタクたちだった。僕はアニメと言えばアカギやNHKにようこそと言ったものしか見ていなかったし、それ以外のアニメは退屈であった。ラノベもその頃からは全く読まなくなった。あの文体や世界観に没入する事は全く不能になってしまった。

 絶縁体、15歳から22歳頃までの僕は絶縁体の世界で生きる電磁人だった。統合失調症の症状は工学の学校に入学する頃には無為自閉や認知機能障害以外は存在していなかった。しかし僕は当時自分が精神病でなくてもノイローゼ状態である事を意識していた。中学の同級生たちにも僕はその事を相談できなかった。人間関係は持ちつ持たれつだ。しかし僕は持つことも持たれる事も当時は拒絶していた。僕は心の平穏を願っていたのだが、専門の工学の勉強は意味不明であったし、その学校に友人などは一人もいなかった。僕を雑魚扱いする連中もいた。彼らは僕が恥ずかしい目に合ってるのを見て嘲笑していた。ざまあみろだとか、スカッとしたわ、とか言っていた。僕は悔しかった。僕の存在は世界から拒絶されているようにも思えた。しかしそれ以上に僕も世界を拒絶していたのだ。死を考えたこともある。しかし死に至るには強大なエネルギーが必要だ。単に自分が楽になりたいから自殺を考えているレベルの精神では自殺は完遂出来ないだろう。僕はそういった自分の弱さを見るのも嫌だった。僕は純文学に自分の救いを見出そうとした。教科書に載っていない作家の小説も精読していた。しかし結果は何も変わらなかった。文学は、たとえ純文学のような高尚なものであっても僕を受け入れてはくれなかった。僕は理系であったのに文学青年を気取って生活していた。よく意味深な事を両親に言っていたりもした。

 普段の僕は暗い性格であった。それは伝導体時代の僕の快活さや社交性を取り除いた僕であった。急激に性格が変わった僕を受け入れてくれる友人はほとんどいなかった。暗さを伝染されるのを嫌がって多くの中学の同級生が僕から離れていった。

何だこの様は。無様。僕の人生はこれほどまでに落ちぶれるのか。人間の営みは栄枯盛衰とは聞いていたがこれほどまでに変わった自分の人生を僕はただ悲嘆して、毎日自室で泣いていた。救いなどない。孤立無援。世界が僕を拒絶している、僕に死ねと言っている。僕はそのように思っていた。このような極端に嗜虐的な世界観は統合失調症によるものなのか、しかし人生の過渡期なら同様に悩む人間も多いだろう。アンジェラアキの手紙の主人公も悩んでいた。彼は15歳だった。僕もまた一人の人間であり、ちっぽけな存在である事を当時の僕は痛感した。僕は万能ではない、また優秀な人間でもない、僕を助けてくれる人物などいない、ならば、激甚の苦痛を経過してでも自分で自分を救うしかないのだ、と僕は思った。しかしそのように思ってはいたものの、僕の精神は弱り切っていた。自分を自分で救うだけの気力もなければ勇気もない、ただ寂寞感を感じつつ、僕は日々懊悩していた。普通の勉強が出来る人間が、僕は羨ましかった。僕は小学校の頃の不良に逆戻りした。碌に勉強をしなかった。それだけなら良いのだが、小学校時代の僕と異なっているのは僕にはもう人生を楽観するだけの余裕もなければ、安寧もなかった。僕は自分の世界でさえ、ただ自己懲罰的な世界観に凌辱され、苦しんでいた。

僕のデストルドーは15歳以後に覚醒した。それは不運な覚醒であった。僕は過去の自分を恥じた、苦痛を経験すれば、僕はより一層素晴らしい人間になれるだって?とんでもない、僕は苦痛を乗り越えられない。僕は立派な人間にならなくても良いからただ平凡な幸せが欲しい。一緒に笑ってくれる仲間がいて、相談できる大人がいて、雨にも負けず、風にも負けず、ただ穏やかな精神でありたかった。知識や知恵などはもはやいらなかった。僕は無知でも良い、無教養でも、無為徒食でも良いからこの窮地から救ってくれる何かを欲していた。自分の力だけではもうどうにも出来なかった。当時僕は僕の母親にも心配をかけた。自殺を仄めかすようなラインをして母親を心配させたりもした。

神は死んだ、で昔ヨーロッパ社会を席巻したニーチェ、ニーチェは現代の日本でも有名だった。彼の人生哲学の理論、殊に超人思想は僕にとって必要なものであった。苦しい時にニーチェに救いを求める少年少女も多いと聞く。それでも当時の僕はまだ哲学に対して敷居の高さを感じており、哲学書は読まなかった。小説の物語の中にも僕はもう入り込む事は出来なかった。僕は活字を読む事すら困難になっていた。会話もまともに成立しなかった。僕の周囲の人間は僕を知恵遅れのように扱った。周囲から見下されているのを僕はひしひしと感じていた。しかし中学、少年期中期までのように自分の印象を一変させるだけの自己顕示欲や熱意も僕にはなかった。もうどうでも良いという不貞腐れた考えが僕の脳髄で支配的になっていた。世界は僕を虐待した。そして僕は忽ち自由を失い、自由を勝ち取るだけの力も失った。本は僕を救わなかった。人間も僕を救わなかった。誰からも愛想を尽かされているように僕は感じた。刹那的な快楽の為に少年期からの愛聴していたビートルズ、ブラックサバス、ピンクフロイドなどを聴いている時だけが僕の救いであった。しかしそれ以外の場面で僕は深い苦しみを感じていた。周囲の思想が如何に的外れに感じたか、仰々しい哲学が如何に無為に感じたか。余りにも統合失調症の陰性症状や認知機能障害が僕の中で支配的になるともはや僕は文盲状態となった。簡単な語彙でさえ、簡単な論理でさえ理解に時間がかかった。抽象的な思考も当時の僕には出来なかった。僕は自分を弁護するだけの能力もなかった。また自分の世界を創り、そこに閉じこもろうと躍起になる一方で他人の作り出した世界に甚だしい嫌悪感や倦怠感、退廃感などを感じるようになっていった。

その学校には中学の頃の優等生だった僕を知っている人間もいた。彼は僕を気にかけてくれていたが、統合失調症の自閉で人を寄せ付けない態度になっていたのか、次第に僕に声をかける事もなくなっていた。僕はどのような人物も、頼りなく感じた。

僕は祖父相手にも余所余所しい態度を取るようになっていた。僕の性格は極端に快活で、万能感に満ちたものから、極端に根暗で、大人しいものに変わっていった。僕は絶望の新参者としてその頃様々な死生学を独自に脳内で発達させていく事に勤めていた。それは完全に体系だったものでもなければ客観的な指標や尺度で創造されたものではなく、また言語化出来る程洗練されてもいなかった。思春期や青年期の人間が死に魅了されるとは話に聞いていたがそれほどまでの事は僕は十分に想定できていなかった。

僕は統合失調症から自由になり、縛られた生活から自由になろうと努めた。また世の中の既成概念や常識とも無縁な世界を僕は渇望していた。それは言うまでもなく短絡的なものである、たった苦節数年の人生の中で生み出した思想を、日進月歩で、実証を伴い発展していった世の中の既成概念や常識と対立させるのは明らかに分不相応である。それは清々しい程悲劇的であった。

 もう誰も、僕がどれだけ堕落しようと気にも留めなかった。僕はそれでも人生の自由を取り戻そうと、工学の専門学校を卒業しまた別の高校に入りなおした。しかしそこでも日々落ち着かなかった。何をしても心は満たされず、誰にも認められなかった。僕が当時書いた論文をネットにのせると、「妄想書いてるだけ」だの「意外性はない」だのと酷評された。しかし当時僕が10代にして完成させた一大理論は二度目の高校に入学して猛烈に哲学を勉強していく中で僕がなんとか完成させた最後のプライドだった。僕は誰にも自分の仕事を理解されなかった。僕はIQ175だがしばらくの間、それに見合う栄光は僕にはなかった。統合失調症により勉強も出来なくなった。全員僕の悪口を言い、僕を馬鹿にしていた。二度目の高校に入る前に僕は精神科を訪れていて統合失調症だと言われた。医師からは哲学だけじゃなく、統合失調症の事も勉強した方が良いと言われた。僕は自分自身を分析していく中で、遂に今度の研究対象をフロイトに移すことにした。1か月程度の独学の中で僕が研究したのはカントの認識論だった。僕は高校生の内に、様々な論文を読んだ。脳機能に障害はありながらも哲学の研究だけは出来た。高校の同級生にはよく僕は嫉妬されていた。何もしていないのに女子にモテていたからだ。

僕のアートは余りにも先駆的、革新的過ぎて審美眼のない生徒には下手くそ呼ばわりをされていた。しかし僕は気にしなかった。彼らにとって悔しかったのは僕が彼らの僕の人生を狂わせようとする意図に反してそういった刺激を鋼鉄の如く無視していた事であろう。僕は不能の中、活力の絶縁の中から常識を気にせず、ただ独自の道を突っ走る事を覚えるようになった。頻繁に僕に対する罵詈雑言が聴こえていたが、そういったものは全て幻聴だと思うようにした。僕の中学校の頃の相棒はお前は全く悪口を言われている訳じゃないと思う、と批判的であった。その事は僕をイラつかせたが、それも相棒の嫉妬からくるものだと僕は判断した。僕が悪口を言われるに値する理由などは一切見当たらなかったからだ。思春期にありがちな被害妄想が相棒の中にもあって、その認識を肯定する為に彼は僕の被害妄想を現実のものも含まれているとしたのである。

僕は孤独だった。友達はいなかった。女子生徒からは挨拶されたりしていたが、向精神薬のせいでろれつが回らない時もあった。また少し体重も増えた。僕は代謝の良い重大なら向精神薬の肥満化はないだろうと思っていたが、案外そうでもないようだった。僕は休日に運動と趣味を兼ねて登山をしていた。登山は良かった。醜い人間社会から自分を遠ざける格好の現実逃避の為の小径だった。僕は近所の山から電車で1時間以上かかる遠方の山に登ったりもした。無論、日帰りは無理だから、外泊の手続きも自分でした。勉強は出来ない、コミュニケーションは出来ないと言いながらもそのような手続きや運動は出来たのだから、ある程度気の持ちようが疾病に影響を与える事もあるのではないだろうか。

統合失調症の勉強も僕は進めた。フロイトやユングの理論も僕は勉強した。僕は学校教育の枠に当てはまらない天才であるようだった。周囲の生徒はそれを薄々感じながらも自身のプライドを保持する為に僕を凡人扱いしていた。実際クラスであまりしゃべらない人間を特別扱いするのはどこか抵抗感があったのだろう。僕はクラスのオタクのような人物からも嫌われており、お前は馬鹿だなんて毒づかれた事もあったのだが、弱い犬程良く吠えるとはよく言ったものだと思いながらあまり気に留めなかった。凡人は僕にとって競争の対象ではなかった。彼らと僕とでは土俵が違う。気が付くと僕の天才もいつの間にか相当なものになっていた。

僕は大学に入る前に統合失調症を再発した。絶望感や無気力感は拭えないものの、僕は日々の努力のおかげで統合失調症を治しつつあった。しかし精神医療の陰謀説から僕は精神医学会と製薬業界を蛇蝎の如く敵視しだした。それからというもの、向精神薬を飲まなくなったのだ。禁断症状や離脱症状があるというのは聞いていた。向精神薬はその点覚醒剤か何かのようであった。僕は負けじと生きていたが、眠れない日々が続き、とうとう今までになかったような激しい幻聴が聴こえて来た。また他人の全く自分に関係のない話の中にも僕を馬鹿にしているように聞こえたりした。本当に生きづらかった。その事を医師に話すと「どういう事ですか?」と言われ、「このまま薬を飲み続けないと君の人生は終わり、大学にも行けなくなるよ」と言われた。僕はそこで僕の賢明さというものが働き、自分の愚かな行いを恥じた。僕に事を最も良く理解していた主治医さえ僕は妄想癖で信じられなくなっていた事を心底悲しく思った。

僕と主治医は文学の趣味があった。彼はドストエフスキーの罪と罰を読めば良いと言った。僕はそれを読んだことがあったのだが、再度読んでみた。中々面白い話だと改めて感動した。カラマーゾフの兄弟は意味不明で面白くはなかった。僕は日本の文豪たちの小説も貪り読んで、主治医と共有した。このディテールが良くて、構成も素晴らしいなどと、僕は国語の成績が偏差値22であるにも関わらず、一人の批評家のように振舞っていた。それは僕の変身願望のあらわれであった。よくトランスジェンダーの人間が女装をして街を闊歩したりゲイバーに通ったりするのと同じように僕にも彼らと共通する変身願望というものがあったのである。

僕は芥川龍之介が何故自殺したか、精神科医である主治医に聞いた。彼によれば芥川は統合失調症であるらしい。頭脳は明晰な統合失調症であるらしい。その点、芥川は君に似ていると彼は言った。君は勉強こそ出来ないが、頭が良く、早熟だ、海外に行った方が良い、何なら私が君の母親に言って無理やり行かせる、と彼は僕に言った事がある。海外というのはそれ程までに人間の可能性の裾野を拡張させるものなのだろうか。僕は海外というと差別や偏見が跋扈する、治安の悪いものを想像するのだが、そのような場所で心身が鍛えられたり、将来の展望が明瞭になったりするのだろうか、僕は甚だ疑問であった。

僕の高校時代の本当の理解者はまさに僕の足繁く通う精神科の主治医だった。当時から僕は段々と発達障害のようになり始め、多くの人からこいつは発達障害ではないかと思われていたのだが、そのことを診察で話すと、君は発達障害じゃない、発達障害はもっと変だよ、それに成育歴を聞けばあまり君は発達障害のようではない、と彼は言った。僕はそれを根拠に自分の新たに付け加わった僕の性格的特性は発達障害ではなく、天才肌なのだと確信するようになった。僕は診察では一人の頭脳明晰な人間を演じていた。僕はこうすれば頭が良く見えるだとか、こう言えば頭の良い印象を与えられるだろうと思った事をそのまま精神科で演じた。それは僕の中のもう一つの変身願望の顕現であった。僕は学校では誰にも注目されなくなっていた。当然だ、入学当初と比べて僕の幻聴や被害妄想の症状、暗い性格が表面化しているのを見て近寄りたがる人間がいるとは思えない。男だろうが女だろうが、マドンナだろうが子旦那だろうが、バッタだろうが雪駄だろうが、誰も僕に愛想を持って振舞う事はなかった。僕の学校生活は陰鬱なものであった。学校の勉強には無関心で全く身が入らず、授業中も僕は上の空だった。

僕は通学の電車の中で暇つぶしとしてルービックキューブをしていた。そしてある日、ノーヒントで僕はそのキューブを揃える事が出来た。その事を嬉々として学校で話すと、そこから次第に僕を天才扱いする人物が出て来たらしい。勿論表立って天才だと褒める人物はいなかったが、ネット上や僕のいない場所で僕の事を大天才だと言う人物も多くなっていったという。しかしスクールカウンセラーは僕の事を普通の人だと言った。見る目がなさすぎる、カウンセラーの癖に。彼女は書籍を出版したらしいが、あのような低能の本が売れるはずがない。彼女の言動は日頃から相当知的障害に近かった、あのような人間が大学の心理学部で勉強したり研究したり出来るのだから日本の研究もある程度自由なものなのだろう。その自由が日本をより良いものにするのか、それとも日本の凋落の一端となるのか、それは神のみぞ知るものである。

高校時代前期には、まだ今現在のように178㎝になっておらず、チビだった僕よりチビなオタクの男がいた。身長は165㎝なのだが、彼は見栄を張って160後半だなんて言っていた。まあ四捨五入は出来るのだからあながち大嘘でもなかったのだが。彼は不細工であった。しかしながら多くの人から慕われていた。彼は休憩時間にラノベを読んでいた。ある程度の羞恥心があったのか、ラノベにはブックカバーをつけて読んでいた。なんらかのキャラクターに影響されたのか、日ごろから彼はどこか気取った男だった。

 彼は文化祭で気取って、ナレーションのようなものもしていた。彼はイラストの専門学校に進学し、またネットでアニメチックなイラストを投稿していた。しかしそれは僕の絵未満の出来栄えであった。その事に苛立ったのか、彼は僕のSNSでの投稿に対抗するようになっていった。僕は当時、彼を嫌ってはいなかった。仲良くなりたかったのかどうかは僕には分からない。僕は彼に話しかけた事があるが、会話は発展しなかった。似たような事は他の生徒との間でも起こった。僕は親密になろうと他人と話すのだが、長い間培われてきたコミュ障のような気質のせいで僕には碌に友人も出来なかった。しかし僕は人を求めているのか、牽制しているのか、怪しい心境にも陥っていたので、一概にあの時は寂しくて人を求めていたのだ、と断言する事は出来ない。僕は愚鈍な人間と関わりたくはなかった。僕の電車通学で一緒の同じ高校の男子生徒は僕にいちいち関わってきた。彼は女子生徒を不細工だとか口に出していたりもした。僕も他人を不細工だと思う事はあったが、口に出す事はしなかったし、そのような事は悪だと考えていた。僕はその事で彼を難詰した。また無言の僕を見て、「山田写真集、赤字」などのような、ブラックユーモアとしてもレベルの低い、洗練されていない下らない事を言った。あのような下らない人間を見るのは良い経験だった。僕の創作の中では鋭敏な頭脳を持つ人間だけではなく、カスやクズのような人間が必要だったからだ。彼の存在は今の僕の創作を一際輝かせる材料になっている。それは丁度芥川龍之介が今昔物語や中国の古典から題材を得て、小説を量産したのと同じようなものである。

 僕は現在創作をしているが高校時代の僕は気力的にも華々しさの上でも絶縁体のような状態で、そこには、少なくとも主観的には満足感などはなかった。僕は当時、自分を最大級の不幸な人種で、どのような喜びとも無縁で、絶望的な廃人だと評していた。まあ今思えばそれは非常な思い込みであった。少し喜びや活発さには愚鈍になったとは言え、やはりその頃も人生の素晴らしさは存在していた。しかし当時の僕はナルシシズムが脳内を埋め尽くしており、自分を悲劇の存在とする事で自分を俳優だと思い込むようになっていた。

 僕の塾の教師は僕に対し「小説家になれ」と言った。僕は彼が何故そんなことを言ったか分からない。僕は文学青年を演じてはいたものの、国語の成績は頗る悪かった。またSNSの投稿にも文学的な巧みさはまるでなく、自分自身のフラストレーションを発散させる目的の上でなされていた。小説家、小説家。今でこそ僕は小説を書いているが、小説を書くなんて途方もない苦労の蓄積だと考えていた。それは僕が短期間の内でつくる事の出来るSNS上の超短文章になれていたからかも知れない。僕は将来の進路を哲学者にしていたが、塾の教師はたかが受験や試験の勉強で四苦八苦しているようじゃ、大学教授になんてなれないと言った。それは厳然たる事実であった。僕は絶縁体の中にあっても自分の夢見がちな性質を実存させていたのだ。僕は哲学者になり、多くの論文を書き、日本の学問の、特に哲学における白眉を目指していた。僕は塾の教師のその言葉を受けてもまだ夢を諦めなかった。諦めないのも才能の内だと当時の僕は考えていた。

「何だか太郎、目が小さくなったね」僕の姉は僕に対しそう言った。それは僕が成長したからか、向精神薬で太ったからか、定かではなかった。僕の家族は178㎝で大体標準くらいの身長の僕とは違ってチビばかりであった。いずれも平均身長からかけ離れていた。僕は彼らをチビで魅力のない連中だとみなした。僕は家で死にたい、とか幻聴が聴こえる、などと言っているのを彼らはよせば良いのに毒づいたり、さらに追い打ちをかけるような事を言った。「そんなことは心底どうでも良い」と。僕は彼らの存在もまた僕にとってどうでも良いものであったが、彼らのその心無い言葉に僕は傷ついた。僕は少年時代に彼らをいじめていた事があった。それはまさに現実社会において僕が黒人だのと馬鹿にされていたからだ。僕は八つ当たりをすることで、周囲の狭義の社会性を僕自身におとしこみ、溜飲を下げる目的があった。しかしそのような事を僕の兄弟が知る事もなく、彼らはただ僕の心ない言葉に傷ついていた。僕はそのような彼らを見て、僕に対していじめをしていたいじめっこの心境を疑似体験する事に成功していた。馬鹿げた話である。そのようなものは今から振り返ってもナンセンスで、本質から自分の身を遠ざけるものであった。しかしその当時の僕はそれこそが正義だ。弱肉強食、優勝劣敗こそが真理だと考えていたのだ。

 僕は愚かな夢ばかり見ていた。そしてその夢への適切な努力もしていなかった。僕が数年前に書いた論文が最近日本の学界において注目され始めているらしい、絶対的認識論という僕の思想だ。それはカントなどから影響を受け、思索を深めた僕の最後の境地であった。僕はあの頃、無我夢中で研究を行っていた。工学の学校ではずっと無能扱いされており、気持ち悪いアニオタからは僕の事をまるでアニメのキャラクターのように扱っていた。虚構と現実の区別がつかないのはアニオタの常であり、それだけ僕の目から彼らは哀れに見えた。とにかく僕は自分の存在をかけて自分の論文を書いていた。それは今思えば若さに満ちたものであった。しかしそれだけの僕の才能は光輝いていた。パスカルやガロアは10代の内に一大理論を築きあげたと聞く、僕は彼らに対抗できるような業績を成し遂げたかった。僕もまた歴史的な早熟の天才として認められたかったのだ。いじめや迫害の記憶は今でも僕を苦しめる、あの時の絶望感と言えば形容しがたい激甚の不快である。しかしそれは若年の内になされた経験であったため、どこか神秘的なイメージも今の僕には持てる。多くの若者は人生の過渡期に程度の差こそあれ、悩み苦しむものだ。僕はあの頃自分が不幸な人間だと思っていたが、不幸を知らない人間が世界にどれだけいるだろう、そして彼らの言葉に真実性があるのか、いや、ないのである。苦しんできたからこそ、人間の言葉には重みがあり、祖の理論にも重みがある。温室育ちのお坊ちゃんがどのような人生観を持っていようとも、それは童貞のようなものであり、彼らのそういった人生観は恥ずかしさの象徴とも言える

ものなのだ。不幸は悲しみを伴う、悲しみがないと物語は無味乾燥である。物語には感情の爆発があり、けつまつがあり、起承転結がある、虚構と現実は得てして違うものだが僕はある意味物語的な世界を生きているように思える。僕は虚構と現実の区別がつかない理工科学校の冴えないアニオタたちを馬鹿にしていたが、僕もまた彼らとベクトルは違えど彼らと似たところがあるのかも知れない。人は社会的動物である、彼らもまたそれを理解していた。その前提の上で僕と彼らなりに仲良くしようとしてくれていたのだ。それを思えば堪らない、僕は決して心底不幸な存在でもなければ孤独でもなかった。ただ僕自身の思い込みが少年時代後期を彩っていたという至極簡単な現実の大海原が僕の眼前に超然と広がっており、そして今もなお広がっているのである。

 いつの間にか僕は大学生になった。関西の無名大学に進学した。勉強は出来なかったので無名大学も致し方ない。それでも卒業すれば大卒である。僕は大卒の資格を得て、哲学の大学教授となる事を夢見て大学に進学した。学歴社会では良い大学に入れば良いという風潮があるが統合失調症を抱えたまま高学歴にもなる事は僕にはまず不可能である。僕には勉学の才能がない。

 僕は大学入学を期に関西の精神科デイケアに通うようになった。デイケアでは皆が年上だった。僕はデイケアで最も若かった。彼らと音楽の話をする事もあったが僕は楽器が弾けないので演奏には関われなかった。また僕は演奏には興味がなく、単に鑑賞する事に熱量のある青年であった。デイケアには東大卒の男がいた。彼は哲学を学生時代に専攻していたという。彼の関わった教授の中には現代日本の哲学界の最高峰の人物もいたという。彼はシェリングを学んだらしい。また近くの有名大学の大学院に彼は通っていた。彼は日頃からデイケアで語学の勉強をしたり、大学院の課題に追われていたりした。一方僕はあまり模範的な学生ではなかった。僕は普段から幻聴や被害妄想に苦しんでいて自殺騒動を起こす事もあった。僕は太宰治のような脆弱なメンタルを持っていたのだ。そして内心そういった事をする自分に酔っていたのかも知れない。しかし今思えば、それは荒唐無稽な代物だった。

 デイケアの人間に、僕は自分の好きなコメディであるモンティパイソンを勧めたりしたのだが、彼らの趣味嗜好には合わなかったようである。僕はその頃、様々な音楽を聴いた。現実世界は依然として心地よいものではなく、僕の快活さを阻害するような存在であったが、音楽を聴くときだけは、僕は一切の雑事を忘れる事が出来た。

当時僕はデブだった。大学生活を始めて一人暮らしも始めると僕は暴飲暴食の生活を始めた。ストレスや寂しさからそういった行動に走っていたのだ。飲食店では多く注文した

のに全てを食べる事無く店を後にしたりもした。店側からすれば良い迷惑である。僕は精神に異常をきたし、実家に帰った事もある。しかし実家でも僕の悪い生活習慣は改まらなかった。僕は自分の容貌、デブの容貌や統合失調症を抱える精神的実情にほとほと嫌になっていた。もう僕は死にたかった。現実の色彩は僕にとっては最悪のものに映っていた。

僕は何とかしてダイエットをして、精神病院に入院して、そこから自分の人生を取り戻す事が出来た。 この頃から日本社会にはなよなよした小柄で華奢な男が増えて来た。僕は筋肉のある、ローマ人のような顔面のイケメンであった。彼らは体重も軽く、美容液をつけたり、化粧をしたりするのだという、芸能人の中にもそのような、見るに堪えない弱弱しい男どもが増えだした。僕は世も末だなと思っていた。それは僕の明確な嫉妬であったのかも知れない、僕は精神病で苦しみ、外見どころではなくなった自分の立場から世の中で持て囃されるイケメンなどを見ると、途端に起源が悪くなった。僕は未来永劫、女性には縁のない人生を送るのだと思い込んでいた。中学時代あたりには彼女もいたのだが、その頃の僕はコミュニケーションには致命的な障害が生じていた。対人恐怖もあったのかも知れない。僕は通りを歩いていると明らかに僕より大きい男を見て落ち込んでいた。180㎝前後の男が街には多かった。僕は178㎝で間違いなくチビではなかったが190㎝くらいは欲しかった。しかし、そんなに長身になってスポーツでもしたかった訳でもない。僕は男は長身であればある程、女性からモテて、優越感も味わえると思っていた。

当時の僕の希望だったのはネット上の動画投稿主であった。彼は中年男性で、僕と同じ統合失調症を持っていた。僕は彼の動画を見て元気の一助としていた。その頃、僕の書いた論文が社会学や心理学に応用されているらしいことを僕は大学の教授から聞かされていた。しかし当時の僕は精神的にも落ち込んでいて大学を辞めようかと考えていた。大学教授は僕の話を聞いて、僕を弱者だとした。また人生は40になってもまだまだ取り戻す事が出来ると言っていた。僕からすればそんな訳ないだろと思ったのだが、有能な大学教授だ、最終学歴も有名な大学だったので僕は彼の言葉を信じた。僕は大学では多くの人に劣等感を感じていた、自分の、痩せてイケメンに戻ったルックスでも他人の方が遥かに自分よりイケメンに感じた、また僕は昔あれだけ低能だの、カスだのと言って他人を見下していた自分が如何に厚顔無恥だったかを思い知らされた。僕は得意だった英語でさえ、意思疎通も出来なかった。活字も全く読めなかった。普通精神病院で安静にすれば、その後は人生も好転するものだと当時の僕は思っていたのだが、僕は病院を退院した事で劣等感をよく感じるようになった。

僕は自殺したかった、しかし僕は過去に自殺未遂をしたことがあった。同じことをするのは馬鹿のする事だ。世の中の連中が僕を馬鹿にしているように僕は感じた。また僕の悪口を皆が言っていると思っていた。精神病院では落ち着いた時間を過ごしていたのだが、病院を出た事で、さらに世知辛さを感じるようになった。もう誰の事も僕は信用できなかった。その事を精神科の主治医に相談したのだが、彼は多くを語らず、向精神薬を処方した。しかし薬は過去にもそうだったのだが、僕の精神的な障害を改善する事もなかった。僕はデイケアにもあまり通わなくなって、滅多に他人と交流する事もなくなっていた。僕はまた内にこもるようになっていた。これは紛れもなく、統合失調症の再発であった。それは専門家でない僕にも理解できた。統合失調症は病識がないのが特徴なのだが、僕はほぼ最初の内から自分が精神的な疾患を持っている事を確信して精神科を訪れた。しかし病識のある僕にとっても再発は客観的に俯瞰できるものではなく、魑魅魍魎そのものに思えた。

もう、一人は僕にとって嫌だった。でもそれでいて僕は人間不信だった。これは健常者ならどうだか分からないが統合失調症の僕にとって自殺の一因になりえる程大きな悩みであった。僕は主治医にさえ見下されているような気がした。カルテには僕に対する痛烈な文言が書かれているのだと僕は思っていた。冷静に考えてみて、当時の僕は間違いなく弱者であった。教授の言う通りだ。僕は弱者だった。それでいて寂しくて、孤独であった。天才の多くは孤独で寂しさを感じているものだが、僕はそのような自分の宿命を呪っていた。また大学の友達に知的なグレーゾーンの男がいたのだが、僕は彼にさえ見下されていた。自分より格下の相手に見下されるのは気分が悪かった。また僕は彼に似たところもあった。その事がさらに僕を苛立たせる事になっていった。

 死にたい、死にたい、死にたい。そのような声の大合唱が常に僕の脳髄でおこなわれていた。馬鹿げている事だということは僕にも分かっていた。世の中はあながち嫌なものではない。アドラーの言うように世の中を複雑にしているのは人間そのものなのだ。確かに僕は世の中を複雑にしていた。のみならず世の中が僕を自殺に誘っているように思えた。僕は些細な事で傷つき、自殺を考えるようになっていた。未来の事だの考えられなかった。僕は

いつも自暴自棄になっていた。

 僕の精神は死に向かっていた。それは僕には少年期中期までの生に包まれた生活、昼の生活からの解放に思えた。僕は様々な哲学書に救いを求めた。哲学の勉強は大学教授の助力もありながらかなり進んだ。自分のブログでは哲学的雑感を私小説風につづったりしていた。僕はあの頃、自分が生きた証を残したかった。自分の命はもうないけれど、自分の情熱を何にも昇華しないまま終わるのは自分としては許せなかった。

 僕はアルバイトもした。アルバイトでも、僕は死ぬことばかりを考えていて業務に集中できなかった。僕は自分が社会不適合者であり、弱者で、無能に思えた。同僚の人間も僕の事を能無し呼ばわりしていた。休憩室ではよく自分の悪口が言われていた。僕はイケメンであったので、女性からはモテた。しかし僕の悪口を言う野郎どもはそれを許せなかったのだろう。僕のアルバイトは深夜帯にも及ぶこともしばしばあった。僕は休日にはずっと酒を飲んでいた。酔わないとやっていけなかったのだ。もう自分の存在は感じたくなかった。自分の生きた証を残したいという活力と、早く死にたいというデストルドーが僕の中で支配的になっていた。アンビバレントな感情も僕には嫌に思えた。もはや人生も、世の中もどうでも良い、僕は昔そう感じたようにその頃もよくそう感じていた。僕の友達は僕に優しかった。彼らの一人は僕の論文を読んで、そこに僕の才能を読み取って僕の事を認めていたのだが、もうこの死に魅入られた期間の僕にとって、そんなものはどうでもよく感じた。僕は殺されるべきだ。人生は過酷で、統合失調症も過酷だ。僕なんて生きるに値しない。僕は自分を愛し、信じてい暮れている家族の事もどうでもよいと思うようになっていた。覚醒剤にも手を出そうとしたこともある。しかし怖くてそれは出来なかった。何が怖かったのだろう。僕にとって何よりもホラーだったのは僕を迫害し、阻害する現実余地も僕という存在そのものであった。僕はその事小説も書いていたが、僕の書く小説には残酷な描写が多く含まれていた、言語表現も十分なものではなく、ネットに僕の書いた小説を投稿した事もあったのだが、ネットの連中は僕を酷評していた。僕もまた自分を酷評していた。ネットで顔を出していた時は不細工なんて悪口を書かれたりもした。しかし鏡を見ても不細工ではなかった。僕の両親も僕は不細工ではないと言った。ネット上にはそのような悪口を言う連中が跋扈しているのでネットをしない方が良いと僕の両親は僕に言った。

 そうして悩んでいたとある日、僕は僕の友人から一緒に死なないかと言われた。僕は彼が死ぬのなら僕も死にたいと思った。そしていつ頃に死ぬかをラインで話し合った。冬に死にたいと僕は言った。彼は何故冬に死にたいのかと僕に尋ねた。夏は僕にとって生命の象徴であり、僕の誕生日にあたる。半面冬は死の象徴で、終わりゆく魂には冬が似合うと言った。また僕は彼にぼんやりとした、ただぼんやりとした不安を感じると言った。この不安を自分の敵にしてしまえばその大義名分で僕は死へと向かう事が出来る。ぼんやりとした統合失調症の苦しみよりもこういったただぼんやりとした不安を死の口実にしてしまえば僕は潔く、人間らしく死ねると思ったのだ。当時書いた僕の小説は焦燥、不安、憤怒、憎悪、などをテーマにした暗いものであった。僕はこの世を去る前に世の中を批判したり、世の中へと問題提起する事にした。社会が僕を殺したのだと思わせたかった。しかし原因は社会よりも自分自身の中にある事は一目瞭然であるように僕には思えた。大人になってもまだ自分の問題を社会のせいにするのは不良少年のような精神構造であった。僕は不良の少年であったのだ。それは未熟で、大した事のない人間の姿だった。しかし不良少年の肩書や印象を背負って死んでゆくのは僕にとってどこか喜劇的に思えた。

 僕は友達と死ぬ為に、練炭自殺を図った。その自殺は彼の車の中で行われる予定だった。僕は友達の絶望しきった顔が今でも脳裡に浮かぶ。そして自殺しようとした時、人生が走馬灯のように縦横無尽に僕の脳を駆け巡った。幼い頃、僕の母親は僕に優しくしてくれた、僕の母親だけではない、僕の祖母や祖父も、そして僕の父親も僕を喜ばせようと、昔出張の際に、お土産を買ってきてくれた。僕はそれを思い出し、号泣した、なんでこんな風になっちゃったんだろう。彼らは僕の死を望んでいない。親よりも先に死ぬのは駄目だ。僕は過去の僕に対して向けられた純粋な優しさや期待を感じた。そしてその時に気づいた。この苦しみに満ちた現実は、幻想だったのだ。全てミスリードで、真実ではなかった。或いは真実であってもそれは現実の一部に過ぎなかったのだ。僕に向けられた優しさを僕は思い出し、大人になっても僕はまだ彼らに愛されていた事を思い出した。男らしくない情けない嗚咽を漏らし、涙で顔を濡らした。駄目だ、出来ない。僕はそう言って車外へと飛び出し、友人の事を考えず自宅に戻った。


第3部 超電導

 僕は家に帰って、泣き続けた。食事をする事も、睡眠をとる事もなかった。僕の生命は泣くことによってその実感を沸々と燃え上がらせていた。家族のくれた自分への純粋な優しさ、我が子を想う家族の感情、それを想えば堪らない、何故僕はあの愛を捨てて死のうとしたのか、馬鹿馬鹿しい。僕の友達からラインが来た。読んでみると、自分も死ぬのが嫌になったと言う、シングルマザーであった母親の事を想えば死ぬのが嫌になったらしい。その点は僕と同じであった。僕たちは一人ではなかった。勝手に一人になって、懊悩し、そして愛を無視していただけなのだ。それが如何に自分勝手か、如何にエゴイズムにまみれた馬鹿な行為か、僕たちはメールで議論しあった。いや、議論と言うよりは完全に単なる罪の独白であった。僕たちは一緒に語り合った。

その頃、僕の高校生の時に書いた哲学の論文を持って、僕を歴史的な人物だとみなす人物が多く世間で現れていた。日本社会は出る杭を打とうとし、特別な存在は排斥するのが常である。しかし統合失調症の僕の業績は、多くの人間が哀れと思ったのか、最初の内は革新的過ぎて痛烈に批判されていたものの、通例程日本人の大部分に批判される事は少なくなっていた。 

 精神科の診察で僕は正直に、友達と自殺未遂をしたことを話した。しかし向精神薬による治療はその時の僕には風前の灯火というよりも明らかに逆効果だと思ったので僕は、「今は死ぬことを全く考えていません。僕は一人ではないからです。僕をそうさせたのは思弁的な理性ではありません、人間的な感情でした。僕は死の直前、走馬灯のようなものを見ました。その際、僕もまた多くの家族に愛されて、大切に思われていた事が分かったのです。僕はこれから先、苦難もあるだろうけど、次第に僕の業績が認められ始めていますし、もう統合失調症には負けません。辛気臭い顔をした連中とは関わりません。僕はポジティブになるのです。そうする為にはこれまでのような人間関係では駄目です。僕は明るい人と積極的にかかわっていきたいです。これから先は運動を心がけようと思っています。一人で自分は社会不適合者だと煩悶するのではなく、自分が如何に社会に適合出来なくても、めげずに、陰隠滅滅とせずに生きていきたいです」精神科の主治医は「悟ったな」と言い、微笑を浮かべた。「君はもう大丈夫、そう考えられるようになった時点で不滅の希望の光は君の中にある。君は何にでもなれる。生きる事は夏目漱石の言うように恥を積み重ねるようなものだけど、恥ずかしくても、惨めでも、人間は生きるしかないんだ。君はその命の答えにたどり着いた。現代人は心が病んでいて、人生が倒錯している人間が多いけれど、君はもう大丈夫だ。立派に生きられる」医者は晴れやかだった。そして言うまでもなく僕も晴れやかだった。もう大丈夫、僕は根拠もなくそう思った。生きる事自体は無謀さを孕んでいるものだ、それは僕も例外ではなかった。

  今僕は25歳だ。僕は闘病期間の中で得られたものは多かった。今はあのような苦しい経験もしてよかったと思っている。もうチビではないし、中背でもない。僕の姉は僕の事を「山田家にしてはあきらかにずば抜けた長身」と言ったが、僕は実は少年時代初期から自分が178㎝の長身だった気もしていた。僕の精神もまた巨人のような発達を遂げた。僕には彼女も出来た。彼女は僕の好みの顔面の女性だ。そして性格も良く、十分に自立している女性だ。身長は高く175㎝あったが僕は長身女子に抵抗がなかったので別に気にしなかった。僕の恋愛対象は、僕に優しくて、美人な人であった。彼女はその条件を満たしていた。僕は一人ではない事をまるで神が示したように僕の運命は好転した。休日には僕たちはデートに言ったりした。デート先は映画館とか、観光地とか、温泉とか、博物館とかであった。彼女は演劇を愛する人物で、高校時代は背が高いので男役をやっていたという。相当な演技力の高さから演劇部のエースとも周囲から呼ばれていたようだ。彼女の兄弟にも統合失調症の人物がいるらしく彼女はこの病気に対してスティグマやバイアスはなかった。また彼女のみならず、近年世界のいたるところで統合失調症への理解と対処法が人口に膾炙しているようだ。有名な精神科医や聡い当事者が一丸となって、世の中で日々精励に、活動をしていたらしく、現状はその奏功かも知れないと僕は思った。

 高校生で精神病になっている少年少女もその事には大いに助かっているようである。この歴史の流れは必然なのか、しかし聞くところによると僕のブログや論文がその風潮の震源地になっているようである、僕はそんな事を意図していなかったが自分が社会に対して良い効果を生む事に悪い気分はしない。

 僕は23歳の頃から就労移行支援を受ける事になった。大学を留年も休学もせずに卒業してからは自分の自宅の付近の職場に就職したのだが、そこの職場の仕事内容や人間関係が僕には合わなかった。しかしすぐに僕は辞めてしまった。僕は自分に合った仕事をする事が重要だと思った。僕は社会不適合者ではない、と就労移行支援の職員に言われた事がある。その施設の職員は障害に理解のある人間が多かった。僕が通ったのは精神障害者の通う就労移行支援だった。そこで僕はクリエイターの訓練をしていて、今現在のイラストレーターとしての仕事も辞めずに続いている。就職後も就労移行支援の職員がサポートしてくれていて僕にとって至れり尽くせりだった。それ以前に就職した職場は表面的には障害者に優しい職場を謳っていたが、その実情は僕に嫉妬するチビの僕に対しての当たりがきつかった。同僚の人間はあんな上司は初めて見たと言っていた。僕の身長が丁度良く、顔面もイケメンであったから嫉妬で狂ってしまったのだろう。普段は他の人に良い仮面を使ってはいるが、僕に対しての反発心は隠せなかったのだ。

 この世はクソみたいな事も多いが、僕は美しいものを礼賛し、生きていきたいと思っている。それは僕の芸術家としての当然の心持であった。同業者も同じことを言っている。この世界で理不尽や不条理を耐え抜くためには独自の哲学や価値観が重要である。しかし数年前の僕はその原理が全く誤った方向に働いており、自殺未遂も何度かした。愚劣至極の自分史である。当時の盲目的な理性は若さゆえのものだったのだろう。今は死のうなんて思わない。僕には大切な人もいるし、僕の功績も認められている。嫉妬で僕に冷たくする劣等人間、カスどももいるがそんな人間は無視したり、深刻に受け止め過ぎない事だ。彼らは人間ではない、彼らは類人猿だ。低能なのだ。僕はそのように傲慢で他者を見下す態度が消失した訳ではない。しかしこれは生き抜くための癖なのだ。これは燃料のようなものであり、これをなくしてはおそらく淀みや、鈍さを伴った人生になるものだろう。

 僕は天才だと言う連中がいる。彼らは僕を若者世代の希望であり、世界の希望であるとした。実際僕の哲学の論文は哲学的な転回をもたらしたらしい。あの頃の煮えたぎる情熱と獅子奮迅たる活力が評価された証拠だ。今の僕にはあの頃のような不器用さは少なくなってきた。僕は今、器用に生きられている。

 僕は今も昔の思い込みが激しい男で、情熱的な男である。これは就労支援以降の職員からも指摘された、そして圧倒的な集中力がある事も僕の特徴の一つであった。就労移行支援の職員と障害者用のハローワークの職員は連携をして一定期間、僕に支援をしていた僕はその事が心強かった。健常者であればこのようなものはない、したがって強靭でスルースキルの高い人間だけがこの世の中で強く生きているのである。

 精神科の職員は僕が診察に来た時、驚くようになった。「偉人が来た」だなんて言う者もいた。また僕は悪口の幻聴は実際にありえる筈がない、という母親の意見を基本に自分の幻聴を識別できるようになった。確かにそうである、世の中の人間が大人であれ、子供であれ、表立って悪口を言う筈がない。そんなことは、一般人ならすぐに理解できるだろう。しかし内向的で病気の症状の影響下にあった僕にとってはこの真理に至るまで長い期間を要した。それでも僕はやっと統合失調症と共存していく事が出来るようになった。無理をしないように自分の精神をマネージメントする事ももはや慣れてきた。

 世の中には弱者の権利を踏みにじる人間が多い。彼らの家族や彼らの被害を被った事柄を死人には口なしと言わんばかりの態度で臨むのである。それは近年起こったK事件にまつわる情報である、あえてその事件名と実情をこれ以上語る事を僕はしないが。どのような被害を社会にもたらしたからと言って精神疾患や発達障害を持っている人間を糾弾しようとするのは優しさがない。人間の美しさは優しさにこそあり、神秘性もまた優しさにこそある。僕を死の淵から空く出したメシアも優しさであった。死肉を啄み、彼らを面白おかしくエンタメにするのは僕は感心しない。しかし芸術というものは自由であるべきだし、作者もそういった批判を覚悟で創作を行っているのだろうから仕方のない事である。

 僕の祖父母は僕を年に一度の食事会で褒めた。それも劇賞である。僕のような人間が我々から出てくるのは時代的な影響力を考慮しても奇跡的で、お前は間違いなく天才だと僕の祖父が言った。僕は高校時代、彼らにドライブに連れて行ってもらって当時から僕はよく彼らとコンタクトを取っていた。僕は前向きであったし、朗報も続いた。それは際限のない幸福であったし、現在の朗報のない時においても僕は少年時代初期を凌駕する程の快活さを持っている。

僕の人生は必ずしも抱腹絶倒という訳ではない。しかし僕は自分の人生に愉快さを感じている。僕は今、どのような吉凶禍福も、異端邪教も恐れる事はない。

「本当に、あの頃はどうなることかと思ったよ。お互いに悲観的になってさ。車内で練炭自殺なんて。俺は将来に希望を持ってなさそうなお前だから当時自殺に誘ったんだぜ?」

「あれは100年前だっけ?」

「何言ってんだよ」僕と過去に一緒に自殺をしようとした僕の友達はお互いに笑いあった。

「僕は今では元気だよ。良い恋人もいるし、友達もいる。僕の恋人の麗香は美人なのに長身過ぎてモテなかったらしくて、今もあまり男は寄ってこないんだって。まあ麗香は僕にだけモテていれば良いんだよ。僕も彼女が男にモテるのを想像すると嫉妬の感情が湧き起こっちゃうよ」

「お前は顔も端整で、俳優みたいだよな。178㎝もイケメンの身長だし。高すぎる事もなければ低すぎるような事もない。まあでも自殺は俺も今は無縁だよ。若い頃は多感で、山田みたいに統合失調症じゃなくても人生に悲観して自殺したくなるんだよ。それに俺はやはり精神科は信用していなくて、どんな辛い時にも行こうとは思わないかな」

「まあ精神医学はまだ歴史も浅いし、精神的な問題もまだ大部分は解明されていないからね。まだ精神医学は氷山の一角だよ。僕は16歳の時に精神科を訪れてそこから薬漬けだよ。もしかすると脳も委縮しているかも知れないね」

「委縮はあり得ないだろ。お前は客観的に見ても頭脳明晰な天才だよ」

「君も世間の評価を真に受けちゃった?」

「真に受けたとかじゃなく、俺は最初からお前の才能にはある程度見込みがあると思っていたよ、でもお前も良く悩んで、幻聴も被害妄想もあったみたいできつそうだったね。今はどうなの?幻聴とかはある?」

「まああるけど、僕の精神は強靭だからね、無視も出来ているし、あまり褒められたものじゃないけど僕は世間の人間の99パーセントは低能だと思っている。彼らは自分で考える事をしないんだ。昔の僕もそう思っていたけど、最近本当にその事を確信しているよ。人を見下すのは良い事だとは思えないけど、それでも僕は心の中に毒を持つ事で何とか今健常者と遜色のないレベルまで生活できているよ。多分君とそこまで変わらないよ」

「俺はお前の事、統合失調症なんて思った事ないよ。大体精神科はおかしい。何でも商売にして、資本主義の奴隷で。DSMなんて評価基準もゆるゆるらしいじゃない」

「僕は下らない愚民の百鬼夜行なんて気にしなくなったなあ。まさに泰然自若って感じかな、これが大人になったってことなのかな。大人になるまで、ちょっと時間がかかり過ぎた気もするけど。まあその偏は故個人差だよね」

「最近よく統合失調症に関して、良い世の中になったそうじゃないか。精神医学も病める日本人にとっては死活問題だからな。俺も精神科に行かなきゃならない体調の時はあったけど、やっぱり精神科には行きたくはないかな」

「そうなんだ」

「お前は才能があって良かったじゃないか。幻聴や被害妄想、抑うつ、脳機能障害がある上で世間で持て囃されるには才能が必要だ。偉大なる才能によって創造される世界、それこそがユートピアだ」

「まあ最近僕はよく褒められるようになったね、確かに、天才って。でもそれは結果論だよ。結果を出すまで人は天才と呼ばれるべきじゃない。それは至極当然の論理だ」

「哲学を学んでいたのは高校生の時から?10代の時に書いたお前の論文は今世の中の役に立っているじゃないか」

「そうだね、恐縮だけど。哲学を学んだのは10代からだよ。僕の事を哲学界のガロアだなんて呼ぶ人もいるよ」

「麗香の事はどう思っている?」

「僕の守るべき人だよ。僕の愛する人だ。絶対に彼女を傷つける人間は許さない。彼女は長身で大人びて見られる事の多い美人だけど、内面はすごくか弱いんだ。笑う顔も可愛いし、普通の女性のようだよ」

 僕たちは語り合った。そこは居酒屋だった。僕は彼女の事を熱弁していた。僕は恋愛に対し自分がここまで熱くなれるとは思わなかった。そして僕の名声についても僕は余念なく話した。

「最近読んでいる本は何か?」

「ドストエフスキーの罪と罰を再読したりしているよ。昔は面白いと感じなかったトルストイの戦争と平和も読み返しているんだけどすごく面白いよ。また日本の文豪である坂口安吾なども読んでいるよ。あの時代の日本は活気にあふれていた。現代の日本人は流されるまま、集団や和を必要以上に重んじる国民性を持っているよ。どうしてつまらない音楽を聴いて、Kポップなんてつまらない音楽を聴いたり、程度の低い邦楽を好ん聴くいているのか。いい加減に目を覚ました方が良い。何をするのが正しいか、何と関わって行けば良いか。また自分の才能を開花させ、磨くものはなにか、を気にした方が良い。この人生は修行で、人間は修行僧なんだ。もっと強くなれ」

「それは君の個人的な感想だろ?そんなに日本人を一般化しちゃ駄目だよ。日本人にも様々な人がいるし、日本人の中にも強い人間はいる。お前のように独自の哲学を持っている人間もいるんだ。そんな人間を度外視して物事を語っちゃ駄目だよ。世の中は君の思っている以上に広大無辺なんだ。森羅万象を数学の言語で統一する事が困難なように、人間社会を文字の言語で一般化する事も困難なんだよ」

「確かにそうだね、ごめん、酒が回ってちょっと気分が良くなって、極端な事を言っちゃってた。でもそんな事よくあることだよね、僕を責めないでね」

「責めたりなんかしないさ。お前は素晴らしいと俺は思うよ。もう歴史上の偉人じゃないか。歴史の年表にのる程の偉人だよ。才能にあふれている。哲学だけじゃなくて小説の才能もあるらしいじゃないか、素晴らしいね」

「そうだね、小説は大体20歳から始めて45作品以上は書いたかな。ここまで書けたのは少年時代からの読書量があったからだよ。当時は人間関係を疎かにして、人間を嫌悪し、人間に慄然とする中で読書に邁進していた。結果的にそれは未来に当たる現在に生きた。そりゃ当時は寂しかったし辛かったよ、でもその苦しみの期間が結実したのは運命なのかもしれないな。僕が散々苦悩した事も運命、統合失調症になったのも運命さ。僕はガキの頃少年野球チームに入っていた事があって、それをきっかけに人間に対し嫌気が差していて、高校生頃になってその感覚が爆発したんだよ」

「哲学の論文は16歳の時に書いたらしいね。俺もお前の書いた論文読んだけど、知識が多すぎるし、語彙も多すぎる、そして論理展開も見事なら、発想も天才的だった。お前は間違いなく哲学の才能があると俺は思ったよ。哲学との邂逅は、やっぱり悩みからきたものなのかい?」

「そうだね、僕は直接的なコミュニケーションを好まず、本という静かで刺激の少ない対話の中で自己を発見し、啓蒙させられていた。本は僕の救いにはならなかったけど、本を読むことで僕はまだあの時も社会から取り残されるような事はなかった。社会的動物から社会を取れば精神のバランスを崩す事は不可避だからな、僕はそれをこれからも気を付けないといけない。これから先も色々な苦難もあるだろうけど、ここまで来れた僕なら大丈夫だと思うよ。それは根拠のない自信ではない。僕の経験に、成功経験に裏打ちされた根拠のある自信なんだ。中学高校の同級生は僕を崇めているらしい、ざまあみろだ。あんなに僕を軽視していた彼らが手のひらを返して今度は僕を天才だと言っている、笑えるよ、その節操のなさは爆笑ものだ」

「お前を黒人とか言っていじめた連中も単にカスだったんだよ。お前は工学の学校時代に教師に頭を叩かれたようだが、その叩いた人物もめちゃくちゃ悔しそうにしてお前の功績を認めまいとしているよ。お前をいじめたやつも」

「彼らからすれば悔しいんだろう。彼らの一部は僕の悪口を言っているらしいよ。でもそんな声は黙殺および糾弾をされている、皮肉な事にね。自分より格下だと思って迫害してきた、障害者扱いしてきた人物が、自分も、歴史上の人物も超越して舞い戻ってきたのだから、そりゃ悔しいだろう。あはは、ばーか。お前らなんて単なる低能のカスだったんだよ。それが今僕に負けた。もう覆しようのない敗北だ。見たか!見たか、僕の完全な勝利だ。あはははははは」僕は気分が良くなって爆笑した。それは心の底から巻き起こった爆笑だった。勝利の笑いはこれほどまでに良いものなのか、僕は知らなかった。僕は自分の才能を自分の個性だと思っている。才能が個性。僕は他の追随を許さない存在であるし、これからもその地位を維持したまま生きる。今度は文豪として認められようか。純文学とエンターテインメントを結合して新たなタイプの小説を作ろうか、僕はそう思った。

「僕は新たなタイプの小説を書くことが出来ないかと思っているんだ。多くの小説家の本を読んでいく内に、時代の流れに即した小説があっても良いんじゃないかと思ってさ。SFよりも、抜本的に文学を改革し、人間の発想や枠組みそのものを変える程の文学が世界には必要だと思う。若者は本を読まないなんて言われるけど、それは違う、若者の心を揺さぶるに値する本がないだけだ。また電子書籍なんかも普及して読書という概念もかなり変化したよね。人間の科学技術の進歩によって様々な事が可能になった。携帯なんてものを原始人が見たらきっと驚くだろうよ。人間社会は戦争を経て、飢饉を経て、差別を経て、事件を経て、ここまで変わった。しかし人間そのものは変わらない。変わったのは科学技術の表面だけの事だ。それでも、僕の思想が世の中に対して、或いは学問に対して大きな役割を果たせレば良いなと僕は思うよ。科学技術とは無縁に思える発想も、文明に結びついたりするからね。もうこれからは以前までのような常識が通用しない激動の時代だ」

僕は友達と居酒屋で語り合いながら夜を過ごした。それは愉快な夜であった。僕は朝方家に帰ると、同棲中の麗香にただいまと言った。彼女は僕に抱きつき、「馬鹿。帰りが遅かったから心配したのよ。友達とはどうだった?」

「良い話が出来たよ」

「女の匂いはしない、浮気ではないみたいね」

「当たり前だよ、僕の恋愛は広くなくとも深くだ。あまり恋愛経験を積むことに魅力は感じないし、僕には君だけだ。君こそが特別だ」麗香は頬を染めた。こういう言葉はあまり言われ慣れていないからだ。

 僕と麗香は同じ年齢だった。僕たちはとある会合で出会った。そこで僕たちは趣味の話で意気投合した。僕は実は人を笑わせる事に才能があったらしく、散々彼女を笑わせて楽しませた。しかしそれは見返りを意識しない行動だった。僕は少しでも彼女と一緒にいれば良いと思っていた。僕は彼女といる時間が楽しくて仕方なかった。麗香は175㎝の長身美人である、その女王然とした外見から、憧れつつも近づこうとする無謀な人間はいなかった。しかし僕は彼女と出会って、どうしても彼女と仲よくしようという気持ちを抑えられなかった。僕は面白い話が出来るだけにとどまらず知識も頗る豊かである。それは長年の読書週間の賜物であった。僕は一般の同年齢の人間より遥かに博識であった。彼女に対して僕は知識をひけらかそうとは思わなかった。彼女を喜ばせる為なら何でもしようと思った。そして僕は自分の好意を抑えきれず彼女に告白をした。彼女の方も奇跡的に僕を好きであったらしく僕たちはカップルになった。

 彼女はスポーツが苦手なようだった。何でもスポーツに熱中している人間にいじめられたり、自分を不当に扱われた過去があるらしい。彼女は自分より背が高くて、イケメンで、面白いと僕の事を評価した。そしてその事は彼女にとってタイプの男性の基準を十二分に満たすものであったらしいことを彼女は後に僕に語った。

 僕は彼女を性的にも勿論愛していた。巨大な臀部に、くびれ、女性らしさを十分に感じさせる丸みを帯びた体つき、僕は彼女を守り、彼女と添い遂げようとしていた。それは今も変わらない。僕は彼女以外と恋愛をする気はさらさらなかった。彼女は足が長かった。僕も足が長いので彼女とスタイルで対決をした。単純な長さ的には僕の方が長かったのだが、全体のバランスとしては彼女の方が理想的であった。僕は不思議とその事に悔しさは感じなかった。男は見た目よりも中身である。どれだけ頼れるか、どれだけ強いかで勝負をするのが男の世界だ。

 僕は彼女を笑わせるのが得意だった。しかし僕は昔から発達障害のように他人の感情の機微や空気というものが理解できず、不謹慎なジョークを言う事も多かった。僕はその事を気を付けようとするのだが、あまりにそれを意識しすぎると今度は良いジョークもユーモアも浮かばなくなる。これは非常に困った。したがって僕は内心で閃いたジョークを温め、果たしてこのジョークを言う環境は、状況は今なのだろうかと存分に吟味してからジョークを言うようになった。こう心がけていくと自然と僕は常識人扱いをされるようになったし、空気のような漠然とした概念をあたかも理解できている人間、という扱いを受けるようになった。これは思わぬ副産物であった。僕はその業績から天才だと認められてはいたものの、決して常識はずれな人間という典型的な天才にありがちな評価を受ける事はなかった。それは僕の成長であった。僕は昔から自己を演出して、如何に周囲から自分を頭の良い人間だと思わせるか、如何に周囲から自分を天才と思わせるかに苦心惨憺していた。僕はそのような下らない思考を遮二無二行う人間だったのだ。IQ175とは言うが、そのような人間であってもここまで通俗的なのだ。

 まだまだ統合失調症への理解は十分ではない。僕はこれから統合失調症という病気を芸術を通して多くの人間に教えていきたいと思っている。僕はネット上でも一時期情報発信をしていたが、今は辞めている。その代わりに別の事、芸術の事に励んでいる。自分で小説のプロットやディテールを練ったりしている。そしてこのアイデアは小説を面白くするかということに焦点をあてて考えている。面白くなくなりそうであれば僕は書かない。僕は名作を量産できる小説家よりも、個性の横溢した、パンチの利いた小説家を目指していっている。今は多くの活字を小説に限らず読んでいっている。語彙には自信があるし、知識にも自信があるが、僕は文章表現において、何かが欠けていると思っている。であるから、読書経験をしていくのかでそれを改善しようと努める事は非常に理にかなったやり方である。僕は自分の理にかなった行動が好きだ。それは人間そのものを前進させるものであるし、それをきっかけに学術論文を執筆したりもした。この電気抵抗のない領域、超電導は僕が至るべくして至った境地なのである。僕は電磁人としてやっと大成したのだ。



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電磁人 赤川凌我 @ryogam85

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