ファイブ・デイズ・グレイス -レンタル屋の天使 2-

水円 岳

第一章 一日目:堰が切れる

第1話 青天の霹靂

「うーん……困ったなあ」


 レンタルショップハッピーの入っている雑居ビルの三階。事務所というにはあまりに殺風景な一室で、無精髭だらけの顔がむさい中里店長と向かい合って座っている。非常事態なので、バイトに出てきて早々店長に相談を持ちかけたんだけど。口をついて出てくる言葉は「困ったなあ」だけ。はあ……本当に困った。


 事務室は、レンタルカレシのマッチングとスタッフ打ち合わせにしか使われない。どけちの店長は体裁を全く気にしないから、ぼろっぼろのソファーとか錆の浮いた事務机とかは私が最初に来た時と何も変わっていない。

 この事務室みたいにモノは変わらずあり続けることができるけど、私のようなニンゲンはそうは行かない。日々変化していくし、変化の全てが望ましいわけでもない。で、歓迎できない変化にぶち当たってしまった私は、ずっぷり悩んでいたわけだ。


 いつもはソファーにだらしなく体を投げ出し、はすに構えてタバコをふかしている店長が、今日はしゃきっと背筋を伸ばして腕を組み、困ったなーポーズを取っている。もっとも、店長が私と同じ仕草をしてるのは単に面白がってるだけだろう。ちぇ。店長のキャラだからしょうがないけどさ。


 それにしても本当に困ってしまった。何万回困ったと言い続けたところで事態が好転しないのはわかってるけど、展開があまりに急過ぎてどう対処していいのかわからない。


「はあ……」


 ウイッグをぽんと外して一休さんの真似をしてみても、ちっともいいアイデアが浮かばない。顔をしかめた店長に、きっちり突っ込まれてしまった。


「ルイ。それぇ絶対に下でやらんといてな」

「どうしてですか?」

「女性客が逃げる」

「ううー」


 店長が私を『天使』呼ばわりするもんだから、最近はすっかり私の天使キャラが定着してしまい、鬱陶しいことこの上ない。いっそ天使じゃなくてお坊様キャラに転向しようか。だけど、それでゲイの人たちを呼び寄せてしまうと私が困る。

 ウイッグを被り直して、もう一度腕を組む。


「困ったー。どうしよう」


◇ ◇ ◇


 ことの起こりは、三月中旬。それまではすごくいい流れに乗ってたんだ。今後の対応を考える前に、流れを振り返っておこう。


 私、小賀野おがのるいには性がない。戸籍上は男性だけど、そもそも性器がないから男というのはあくまで名目だけ。私のような特性を持つ人の絶対数は少ない……というかDSD性分化疾患の中でも両性器揃って完全欠損している私みたいなタイプはとても珍しいんだそうな。

 性徴発現に伴う体の発達が不十分だから、ひょろっと細くてでこぼこが少ない宇宙人体型だ。図らずも天使呼ばわりされてしまうのは、性別が見分けにくい外見とのほんとした話し口調のせいだろう。


 男と女の中間的な見てくれは、世間一般には中性的と評される。でも私は男でも女でも、その中間でもない。中性ではなく、無性むせいという存在だと自負している。男と女のどちらかになりたいと思ったことは一度もないんだ。無性の私は唯一無二の存在。だから私の一人称は僕でも俺でもわたしでもわちきでもなく、英語の『I』と同義で性概念のない『私』だ。

 つまり。私自身は自分の在り方になんの疑問も不満も持っていない。振り回されているのはいつも私の周囲なんだよね。で、私はいつもその周囲の勝手なアクションに翻弄され続けてきた。


 奇形フリークス生みやがってと激怒した父に捨てられた母は、傷心の反動で私に全依存してしまった。私がいじめられることを極度に警戒し、学校に行かせてくれなかった。いや、それ以前に家から出してもらえなかった。私は、成人するまでほとんど自宅軟禁されていたんだ。

 私が発狂しなかったのは、臨床心理士である義父の植田さんが親身にサポートしてくれたことと、私と立場がよく似ている超絶ひっきーの前沢先生がつきっきりで家庭教師をしてくれたからだ。


 実家という名の鶏小屋で飼われていた私だけど、そのままでいいとは全く思っていなくて。むしろ、一刻も早く外に出たかった。対人恐怖症持ちの前沢先生と違って、私の性格は決して内向的でも偏屈でもないもの。

 パソコンという窓が外に向かって開いていたから、世の中がどのように成り立っているのかという『知識』だけは備わっていて、その知識をうまく組み立てれば鶏小屋を畳める……最初はそんな風に楽観してたんだけど。甘くはなかった。


 植田さんが私と母との間に挟まっちゃったんだ。私を庇護することで自我をキープしていた母は、私が家を出ると自我崩壊しかねない。かと言って、母の束縛をこれからもずっと受け続けると私が保たない。植田さんはすごく悩んだと思う。

 で、植田さんは私の卒業を先送りしようとしたんだ。もちろん、そのアクションには絶対に付き合えない。形だけ男性に似せる局部形成手術を受け、手術を受けたことをたてに取って社会馴化の名目で外出権をゲットした。その足でレンタルカレシに登録。第三者との接点を確保して、限られた人としかコミュニケートできなかったハンデを解消しようとしたわけ。


 決して順調ではなかったけど経験値は積み増しできたし、なによりこれまで皆無だった新たな人脈をゲットできた。レンタルカレシからの撤退にあたって若干トラブルがあったものの、そのごたごたを逆手にとって家を脱出できたのは幸運以外の何物でもない。

 中里店長の計らいでレンタルショップハッピーのアルバイト店員として働けるようになったのも幸運だった。経済的自立は、家を離れるためにどうしても必要だったからね。社会経験ゼロの私にできる仕事はごく限られるわけで、雇ってくれた店長には感謝しかない。


 もう一つ、極上の幸運があった。実家を出たあと前沢先生と共同生活できたことだ。生活リズムはそれぞれ独立していて、相互干渉はミニマム。家賃は折半で済むし、勉強もサポートしてもらえる。付き合いが長いから、互いに気を使わなくて済むし。

 で、その上げ潮のまま受験に臨んだ。私は働きながら通えるD大二部で良かったんだけど、植田さんが学費を出すから昼間部にしろと言い張った。学力的にどうかなと迷った時に、先生がアドバイスしてくれたんだ。私大受験なら、受験の形式がいろいろ選べる。ルイくんの得意分野を活かす方法があるから大丈夫だよと。

 植田さんの顔も立てなきゃだめかなーと思って方針を変え、経済学部に合格出来た。ここまでは怖いくらい順調だったんだ。


 ただ……合格はしたものの、大学生活をちゃんとこなせるかどうかが全く見通せなかった。いかに私の基本線が楽観で出来ていると言っても、これまでの経緯が経緯だから不安を払拭しきれない。私の浮かない顔を見て、先生が励ましてくれた。

 いろんな経歴の子が集まるのが大学というところだし、ルイくんだってその一人に過ぎないよってね。


「わたしもそうだったけど。何かのはずみで学校に行けなくなるとか、行きたくなくなる子はすごく増えてる。そういう子たちを支える行政プログラムも増えてるし、教育機会も確保されてる。わたしもサポートを受けたし」

「知らなかったなあ」

「だから、大学でこれまでのネガを全部ちゃらにしようって考える学生は結構多いと思うんだ。大学はそれまでの教育と違って、『個』の要素がすごく強いから」


 なるほどなと思った。集団に自分を帰属させることに抵抗があったり戸惑いがあったり。そういう人は、『個』を保ちやすい大学の自由な空気が肌に合うんだろう。でも……私はちょっと違うからなあ。


 私の場合、心情的に行きたくないとか心身に問題を抱えてて行けなかったとかではなく、行かせてもらえなかったんだ。母に悪意があったわけじゃなく、あくまでも心配ゆえの庇護だったことは理解できる。でも、母が私にしたことはほとんど虐待に近い。

 学校に行く選択肢を選ばせてくれるところまで時間を巻き戻せるなら、躊躇なくそうしたい。でも、それは無理な相談なんだよね。だから、大学にいる間は『個』の優先よりコミュニケーション拡大を重視したい。ごく普通に友人を作ってキャンパスライフを謳歌したい。今、店でトムと普通にやり取りしてるみたいに。


 もちろん、先生は私の背景をよく理解してくれてると思う。先生が『個』の話を持ち出したのは、むしろ警告なんだろう。これからは、異端者の私に向けられる差別や迫害の視線と自力で戦わなければならないよ、と。

 うん。それは覚悟してる。ただ、少しだけ慣れるまでの猶予期間が欲しいなと思ってた。


 でも。予期せぬ変化がいきなりどかんと降ってきた。合格を決めてほっとしていた三月中旬に、先生が突然とんでもないことを言い出したんだ。


「ねえ、ルイくん。わたし、ここを今月いっぱいで引き払うことにする。ごめんね」


 なんじゃとてーっ? 寝耳に水もいいところだった。


「ど、どどど、どうして?」

「同棲することにしたの。うまく行きそうなら……そのまま結婚になると思う」


 があ……ん。こてこての対人恐怖症でひっきー歴が半端なく長く、実家から追い出されたから仕方なく私との共同生活に踏み切った先生。半年たらずの間にカレシ見つけて同棲、そのあと結婚するかも、だって?


「すすすすすすみません、センセイ。何がどういうことなのか、説明してもらえます?」


 ものすごーく非難めいた言い方になってしまったのが我ながら情けない。本当なら、先生すごいですねっ! おめでとうございます! と全力で祝福しないとならないのに。私は激しく動転していたんだろう。


「うん。ごめんね。あのね……」


 俯いてしまった先生は、ぼそぼそとこれまでの経緯を話し始めた。


◇ ◇ ◇


 私が自分に降りかかる変化をこなすのに精一杯だったように、先生も実家から追い出されたあとは変化の連続だった。実家を頼れなくなったから、一人前の社会人になることは自立の必須条件。世の中の向かい風をまともに受けたことのない先生には、すんなり仕事がこなせないんじゃないかと心配してたんだけど。仕事が終わって帰ってきた先生の口から職場や仕事の愚痴が出たことはほとんどなかった。

 そんなのありえないよ。私は、勤め先に先生を惹きつける何か大きな存在があることに、もっと早く気づかなければならなかったんだ。


 共同生活を始めたばかりの頃、先生がぼやいていたことを思い出す。


『わたしも恋活がんばらなきゃ」

『このままじゃ、不毛な二十代で終わっちゃう』


 年齢のこともあって、先生は早くから恋活に前向きだったんだろう。そして仕事から来るプレッシャーが大きくなければ、恋活に意識を向ける余裕ができる。私だけじゃなく、先生も上げ潮に乗ったんだ。


 カレシは同い年の同僚だそうな。先生同様にひっきー歴がある物静かな人。仕事なんか出来ないようと後ろ向きだった先生に辛抱強く段取りを教えてくれた先輩社員で、容姿は平凡だし無口で前に出ない性格だからカノジョができたことは一度もないらしい。でも、なんでも自力でさくさくこなすし、じっくり話を聞いてくれる。乾いた感じだけど、先生が大の苦手にしている押し付けがましさや俺様要素がない。

 ぴぴっと来て、腰の重い先生にしては珍しく自分からアプローチしたんだとか。うーん、先生もやる時はやるなあ。


 最初はごめんなさい一辺倒だった先生が、カレシの話にいれ込んでどんどんのろけ始めた。ううー、自立の尻を叩いたのは私だから仕方ないんだけど、がっくり。


 ひとしきりのろけたあとで、先生が核心に迫った。


「でね。彼が一緒に暮らしたいって言うの。わたしも彼ももうそろそろっていう年だし、ルイくんとの同居にも嫉妬してるみたいで」

「私の事情は説明したんですか?」

「うん。安心させないとならないから」

「そうですか……」


 仕方がない……というか、先生を今の共同生活に巻き込んだのは私なんだ。私のわがままをこれ以上先生に押し付けることはできない。受験勉強を親身に手伝ってくれた先生には感謝しかないし、私はいずれ独り立ちしなければならないんだから、先生の離脱は自立ステップの一つなんだろう。

 ただ、もうちょい早くに知りたかったな。そうすれば次の一手を落ち着いて考えることが出来たのに。いや、それは無理か。先生を衝き動かしているのはパッションだ。その瞬発力を利用しないと、先生はまた世の中に背を向けて丸まりかねない。


「よかったじゃないですか。春が来ましたねー」


 気持ちを切り替えて笑顔を向けたら、私になじられるかとびくびくしていた先生がほっとしたように頷いた。


「ごめんね。ここの契約は今月いっぱいまでだから、来年度の分はルイくんにしてもらわないとならない」


 ううー、それは無理だ。今のバイト代で払える家賃は今でぎりぎり。倍になったらやっていけない。でも、新規物件を探すにしてもタイミングが最悪。学生がどどっと動くこの時期は、一日単位で優良物件がはけていくって聞いてる。三月後半というタイミングでアパートを探しても、手頃な物件が残っていない可能性が高い。


「ぐえー、どうしよう……」

「ごめんねえ」


 それが昨日の夜。そのあと『困った』の海にどぼーんと落ち込んでしまったわけだ。


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