第22話 爆声の淵に沈む十字架

 女は車の中から男が喫茶店を出るのを待ち続けた。


 陽光がオレンジ色に変わる頃、男が喫茶店から姿を現し、滝の方へと向かって行った。


 女も車から降り男の後に続いた。


 男の背中を見遣る女の目付きは冷たく険しくなっていた。


「違うの…、必ず理由があるの…、愛のない結婚なんて…、選ぶはずはないの…」


 女はそう思いながら男の後ろを歩いていた。


 男が滝壺に辿り着くと、女は小脇の大木の裏に身を潜めた。


 男はゆっくりと滝壺へと歩んで行った。


 女はそれを見て、心の中で叫ぶ。


「捨てないで!ネックレスを捨てないで!」と


 そんな願いも男には当然届かない。


 男はズボンのポケットからネックレスを取り出し、上に傘して見遣った。


「十字架…」


 女は思わず叫んだ。


 ネックレスの先には銀色の十字架が付いていた。


「お願い捨てないで!」


 女は叫んだ!


 滝の爆声が女の叫びを阻止する。


 男は遂に無造作に、何の躊躇いもなく、十字架のネックレスを滝壺の奥へと投げ捨てた。


 その瞬間、女は男を鬼神の如く睨んだ!


「あの男には、何の思いやりもない!


 夫と同じだ。


 無用の邪魔者を葬り去った、それだけの想いしかない!」


 女はこの見ず知らずの男にそう感じてしまった。


 そして、女は大木の裏にしゃがみ込み、泣き崩れた。


「どうして…、どうして捨てたの…」


 女は声にならない震えた叫びを言い続けた。


 男は投げ捨てた滝壺を振り返ることなく、清清した表情を浮かべ、大木の前を通り過ぎて行った。


 女は滝から遠ざかる男の背中を睨んだ。


 女は、今、この世で生きる価値の無くなった無用者としての我が身と、あの男が投げ捨てた十字架のネックレスとが重なって思えた。


 滝壺の辺りが夕暮れとなり、更に宵闇が近づく頃も、女は大木の裏で泣いていた。


 宵闇が闇夜に変わった瞬間、滝壺の爆声は静寂さにより、若干、弱まったように女には感じられた。


 女はやっと泣き止み、立ち上がり、滝壺の方を呆然と見遣った。


 滝の上には、月が現れていた。


 女は月明かりを頼り、滝壺にゆっくりと近づき、水色から群青色に変身した滝壺を恨めしそうに見つめた。


 滝の爆声は女には最早聴こえていない。


 女に聴こえるのは、


「お前は俺の寄生虫だ!」


「女は金と名誉で結婚するんだ!」と


 女に宣った男どもの戯言だけであった。


「あのネックレスも一緒…、何も悪くないのよ…、愛の証として存在したかったのに…、どうして捨てるの…


 私も同じ…


 愛のある結婚がしたかった…


 そして、愛のある家族と暮らしたかった。


 どうして、私にはそれを叶えてくれなかったのですか?


 そんなに贅沢な事ですか?


 平凡な生活がしてみたかった。


 厄介者、邪魔者、夫の娼婦、家政婦、そして、寄生虫…


普通の人間、女として生きたかった…」


 女は天頂の月に向かって、そう訴え終わると、


 滝壺の手摺を跨ぎ、足から群青色の爆声の淵に飛び込んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る