第17話 忘却の恨みを夢が運ぶ

「恨みなさい。


 ただ、貴女は…、本当は分かっているはず。


 誰を恨むべきかを…」と


 多幸は四隅の暗闇に向かって静かに諭した。


 すると、多幸の首元の締め付けは和らいで行き、朦朧としていた意識も元に戻った。


 多幸は後ろで座り込んだ妻を起き上がらさせ、


「目を瞑り、心でお経を唱え続けてください。


 もう少しですから。」と激励した。


 そして、多幸は四隅の暗闇に話し掛けた。


「私は知りました。


 貴女の生き様を知りました。


 恨みなさい。


 貴女を『籠の中の鳥』として、貴女から自由を奪い、人間として全く扱おうとしなかった者達を恨むのです。」


 すると、四隅の暗闇から獣のような唸り声が消え、多幸の目の前に『黒髪の長い白い女』が現れた。


 多幸はその黒い瞳を見つめた。


 白い絵の具のような顔肌に白目は吸収され、漆黒の瞳が目から飛び出たように浮かび上がっていた。


 女は何も言わない。


 多幸は話し掛けを続ける。


「いいですか。


 神や運命を恨む事は貴女自身を恨む事と同じです。


 自分を恨んではいけません。」


 女は何も言わず、瞬き一つせず、多幸を見つめている。


 多幸は構わず話し掛ける。


「貴女を不幸の淵に陥れた者


 貴女はしっかりとお分かりのはずです。


 貴女は自由になろうと懇願した。


 それを許さなかった者


 貴女の夫


 そうでしょう?」


 すると、四隅の暗闇の女の表情が変化を始めた。


 白い絵の具のような顔肌が幾分か赤らみ、唇が現れ、瞳は茶色を帯び、綺麗な鼻筋が通った。


 多幸は見惚れてしまった。


「夫が憎いです。


 夫は私を人として扱ってくれませんでした。


 夫が憎い…」と


 女がか細い声で話し始めた。


 多幸は頷き、こう諭した。


「そうです。


 貴女は分かっているのです。


 貴女はずっと我慢して来たのです。


 虐げられ、無下にされ、押しつぶされ、


 家畜のように見下され…」と


 女は多幸の言葉を遮り、


「分かっているのです。


 私が病んだから…


 あんな男しか、近づいて来なかった…


 私が病んだから…」


 多幸は言った。


「いえ、違います。


 貴女は治ったのです。


 子供を産み、貴女は正気に戻ったのです。


 貴女は別れようとした。


 ご自身の意志で。


 貴女は自分らしく生きようとした。」


 女の瞳から一雫の涙が流れた。


「そうです…


 私は外に出たかった…


私を疎む親からも離れたかった。


 やっと出れたんです。


 しかし、また、捕まえられ、籠の中に入れられた…」


 多幸は女が一頻り泣くのを待ち、本題に導いた。


「運命は出生から始まり、死で終わります。

 

 その間が、人生です。


 人生は山と谷で出来ています。


 暗い谷底ばかりでは無いのです。


 暗闇で下を向くと全てが憎くなる。


 山に向かって登りなさい。


 陽を見ながら、恨みなさい。


 いいですか?


 全てを恨んではいけません。


 全てを恨むと、貴女の苦しみの念は無になってしまいます。


 全てを敵にしてしまいます。


 貴女はそれほど強くないのです。」


 女の目付きが強張り始め、


「私は弱くない!私は強い!」と急に怒号のような声を発した。


 多幸は急いだ。


「貴女は何処から来たの?


 貴女の念を元に戻してあげる。


 貴女は何処から来たの?」


 女の表情が次第に元の化け物に戻り始め、声も獣の唸り声となった。


「わ、わ、わたしは…、に、に、にし、から……」


「西から!」と多幸は更問いすると、


 女はゆっくりと頷いた。


 多幸は懐から杭棒を取り出すと、お経を唱えながら、押入れ四隅の西の一角を見遣った。


 女は震えだし、怒号を放った。


「な、な、な、なにを….、す、す、する…、や、め、ろ」と


 多幸は構わず四隅西にお札を杭棒で突き刺した。


 その瞬間、


 四隅北に鎮座していた女は、


「うぅー、うぅー、うぅー」と吠え出し、


 女の姿は、まるで氷が溶けるように徐々に消え出した。


「小野さん、頑張って!


 最後よ!


 お経を唱えて!」と多幸が妻を叱咤激励した。


 妻は目を開いた。


「うっ!」と妻は息を飲んだ。


 ぐちゃぐちゃに消え失せる中、女の顔は吠えるように妻を睨んでいた。


 妻は南無阿弥陀を大声で連呼した。


 多幸は塩を撒きながら、女に最後の諭しを言い渡す。


「貴女は西に帰るのです。


 此処は貴女のいる場所ではないのです。


 恨みの念を西に向けなさい!」と


 女は言葉にならないように吠えながら、


「し、あ、わ、せ…、


 に、く、い…」と


 改心することなく讒言を残し、消えて行った。


 多幸は妻に言った。


「終わりました。


 四隅西の杭は決して抜かないでください!」


「黒髪の白い女は一体何だったんですか?」


 多幸は言った。


「恨みの念の塊です。


 死んだ者か、生き延びている者か、分かりません。


 ただ、普通の人間の念でした。」


「普通のって?普通の人があんな怨霊になるのですか?」


「偶然の悪戯…、必然の定め…、


 それは分かりませんでしたが、


 一つ言えるのは、単なる個人の憎しみが、突然、運ばれて、浮遊し、蔓延び、増幅する。


 その蔓延る先として、この社宅のこの北部屋が全てに適していたのです。」


「憎しみが運ばれる?


 何に運ばれるのですか?」


「夢です。


 人が見る夢です。


 人は1日全ての生き様を覚えていません。


 忘れ去られた事


 その忘却が、1日、また、1日と産まれ、積み重なり、それが夢となるのです。

 

 知らない間に嫌われ、疎まれ、恨まれる事とは、その忘却に事が根ざしているのです。


 夢が答えです。


『白い若い女の夢』…


 そこが始まりでした。


 この部屋、そして、此処で暮らす貴女方


 何の因果も無ければいいのですが…」




 


 


 


 

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