私は仮想(バーチャル)の身体(アバター)を持ちて
細茅ゆき
第1話 骨となる病
私は筋ジストロフィーという病気に冒されている。
身体の筋肉が徐々に失われ、四肢を自分で動かすこともできなくなる病気だ。
この病気は遺伝する。私の父も、筋ジストロフィーだった。
そして父は、この病気に心臓を蝕まれ40歳になった年に死んでしまった。
私、
すでに、筋肉は壊死ははじまり、腕や脚は骨にそのまま皮がついているかのように見えるほど、細くなった。
こんな姿でも、自力で歩ける。だから都内で一人で暮らすことができた。
もっとも、父は死に、母も病床に倒れ、弟は母の面倒を見なければならなかったので、私は一人で生きるしかなかった。
弟は帰郷を促したが、父が死んだ時に家を弟に相続させるように言ったのは私だ。つまり、実家は弟のものだ。弟の厄介になるのは気が引けたので、私は北区のアパートに住み続ける選択をした。
もっとも、住み続けるとは言っても、私はもはや家の外には一歩も出ない生活を送っていたのだが。
ちょっとだけ、昔話を聞いてほしい。
病気が発症する前の私は、あるゲーム会社に籍を置いていた。そこでメインプランナーとしてシューティングやアクションゲームの開発に携わっていた。
自分でもゲームの腕はそれなりに高いと思っていた。なのでデバッグやレビューの担当も任されていた。
でも、病気が私からゲームを取り上げた。
それでも同僚たちはプランナーとしての実力を買って、会社に残るように言ってくれた。
しかしワンマンで知られる社長が「うちに障害者はいらん」と言い放ち、どういうわけか自己都合で退職させられることになった。
理由は病気のためらしい。
社長をよく思ってない同僚たちは労基署に訴え争うことを勧めたが、急速に進む病を前に絶望していた私は、社長の言葉を唯々諾々と受け入れてしまった。
それからの私の生活は、ともかく無意味なものだった。
生理的欲求と入浴しか満たさない生活は、部屋をゴミで埋め尽くすようなゴミ山へと変貌させた。
区に生活支援の要請を行ったが、障害者年金と生活保護を勧められるだけだった。
この国の福祉は、どうやら若い人にはあまり親切ではないらしい。
ヘルパーも、結局は自分で福祉事業者と契約して派遣してもらうしかない。
なので、自分の生活を維持するためにも、私はこの身体で稼がなくてはならなかった。
しかし、仕事なんて見つかるわけがなかった。
障害者にできる仕事なんてない。仕事ができるわけがないと思う経営者が、この日本にはごまんといた。それが証拠に、古巣のゲーム会社の社長だって同類だ。
バリアフリーとかノーマライゼーションなんて言うけど、そんなことは美辞麗句に過ぎない。この日本社会には、厳然と障害者に対する差別蔑視が固着していたのだ。
そんな生活が2年ほど続いた。
2年目は驚くほどの国保料に苦しんだ。失業保険の受給は終わってしまい、保険と年金のために貯金を削りながら生活をしていくしかなかった。
この頃はまだ障害者年金の審査時で、ほとんど収入がなかったのだ。
そして結局仕事は見つからず、求職活動に虚無を感じて仕事を探すのをやめた。
「世の中に必要とされないまま、私は死ぬんだろうな~」
なんて、天井の木目を数えながらつぶやくのが日課となりつつあった。
無為な日々を送る私の転機となったのは、新型感染症の蔓延だった。
世界中で何百万人と殺したこの流行病は当然のように日本でも猛威を振るい、日本人の生活様式を一変させた。
その最たる物が、テイクアウトとデリバリーの普遍化、そしてテレワークの導入だ。
どちらも以前からあるものであったが、感染拡大を防ぐために、人との接触を遠ざける政策がとられることで、社会は人々が触れあわない仕様へと凄まじい速度で変形していった。
これは、私にとっては転機となった。
そう。家から出ることなく食事を行い、仕事をすることができるようになったのだ。
日用品などは元よりネット通販があるし、なんなら近所のスーパーだってネットで頼めば持ってきてくれる。
通常の買い物は、これで十分。
そして私には、まだ室内を歩き回れる程度の筋力は残されていたし、顔の筋肉もまだ残されていた。
これで生活ができる。
活路が見えた私は、その日からフル・テレワーク可の仕事を探しはじめた。
幸運な事に、仕事はすぐに見つかった。
新しい会社は、都内の大手IT企業だった。
そこの障害者採用枠にて採用され、映像コンテンツ配信の部署に配属された。
部署の人は、もちろん私が障害者だと知っている。
障害者採用枠は、障害者雇用促進法という法律で、企業は44人雇ったら1人は障害者を雇わないといけないと定められている。
その代わり、採用された障害者が自分が障害者である事を明かさなければならない。私は姿を見せたくないだけで、別に障害を恥とは思っていない。だから自分が筋ジストロフィーと部署の人たちに明かした。
このIT企業は、社長が一時期流行った「ALSアイスバケツチャレンジ」に参加したこともあり、障害者には寛容な社風の会社だった。
なので同情されることはありはすれど、蔑まれるような事は(表向きだけかもしれないが)なかった。
でも、やはり骨のような身体を見られるには抵抗があったので、映像を伴う会議の時は、ハイネックのインナーにボリューム袖のアウターを着て、顔以外の部分を隠すようなコーデにしていた。
多分、誰も私の身体なんて気にしないはずなのに。
私の担当は、映像作品を見て、その感想やオススメポイントを書く仕事だった。
動画のメタ情報と言われるものを入力したり、オウンドメディアに記事を書くのが主な業務だ。
なぜこの担当となったかといえば、採用面接(これもオンラインで行われた)時に提出した企画書の文章が評価されたためだ。
これも、毎日のようにゲームの企画書を書き続けた賜物だろう。
なんて書けばすごい仕事のように見えるけど、実際にはただ一日アニメやドラマを見て、その感想を書くだけだった。
とはいえ、身体への負担も少なく、作品があくびが止まらなくなるほど退屈なものでもなければ、仕事中に人気のドラマや話題のアニメが見放題という、天国のような仕事だった。
ゲーム会社時代が激務だったせいで、大河ドラマ以外テレビを見る文化がなかった私。映像作品を浴びるように見続けられるこの環境は、私に新しい世界を見せてくれたも同然だった。
仕事をはじめて一ヶ月が過ぎたころ。
「
ワーキングコラボツール「
送り主は、
この子は、恐ろしくパーソナルスペースが狭い。私の中にもズケズケと入り込んで、「名前が同じ季節だねー」といきなり
ついでに敬語も禁止されてしまったのだ。
「ないよ。存在は知っているけど…」
「そうなんだ。ゲーム会社にいたのにね」
ついでにまなつは、直接的であまり他人の感情を
だからなぜ、私がゲーム開発者なのに実況動画を見ないのか、というところまで考えが至らないのだ。
ゲーム実況というコンテンツの存在は、もちろん知っていた。
ゲーム実況が日本のドメスティック動画プラットーフォーム「ヌルヌル動画」で少しずつ広まりを見せてた黎明期には、自分たちが作ったゲームの実況をこっそり見に行っていたりもした。
そういえばディレクターがミソクソにけなす実況の動画に文句を言って罵り合いになったこともあったっけ。
でも、病気を理由に退職した頃からは、ゲーム実況動画を一切見なくなった。
神プレイ動画を見れば動かない身体への歯がゆさがわきたち、下手なプレイを見れば「今の自分はこの人より下手なのか」と落ち込んでしまうから。
私の失意と反比例するようにゲーム実況動画は私がふてくされていた二年の間に盛り上がりを見せ、今ではあらゆる動画プラットフォームで配信される花形コンテンツになりつつあった…そうだ。
「私さー、すごいハマってる推しの実況者がいるんだよね!」
「推し…? その実況者はアイドルなの?」
「まさかwwwwwwwww」
めちゃくちゃ草を生やされてしまった。
「ふつーの個人配信者だよ。配信者というか、VTuber?」
「なに? VTuberって」
「見れば分かるよ! だから見て! 私の推しだから! 絶対面白いから!」
などと言い、まなつは一方的にURLを送ってきた。
ドメインを見ると、それは世界一有名な動画プラットフォーム「UTube」のものだった。
「今仕事中だからさ。仕事終わったらみるよ」
「絶対MITENE☆」
謎のワードセンスを醸し出しつつ、まなつとのチャットは終わりを迎えた。
(つづく)
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