#3 微睡の中で

 別れた彼女が、なぜ僕の自宅に居るのか理解できない。思い切って彼女に理由を尋ねた。


「アハハッ!——なんでって同棲してるんだから、わたしが居るのは当たり前でしょ?」


 同棲?彼女は寝ぼけているのだろうか。


「もーどうしたのさっきから?——疲れてるんじゃない?」


 頭が混乱している。彼女とは数か月前に別れたはずだ。彼女から別れを切り出した。にも関わらず、彼女は笑って目の前に居る。


「ココア淹れるから、座って待ってて」


 彼女にリビングのテーブルに連れていかれて座らされる。


「はーい、できたよ。熱いから気をつけてね」


 目の前に置かれたココアの入ったコップをおずおずと受け取った。


「××って、わたしの淹れたココア好きだよね」


 彼女は僕の味の好みを知っているのか、市販のココアやカフェで飲むのココアより、彼女が淹れたココアの方が美味しい。今日も美味しいよ、と彼女に言った。


「——そっか」


 彼女はニカッっと笑った。


「ごめんね——今日は…わたしから会いたいって連絡しておいて、遅れちゃって…」


 どこかで聞いたことのある言葉。いつのことだったか。


「大事な…話があるんだ…」


 彼女は俯きながら、消え入りそうな声で呟いた。


「わたしと…別れてほしい…」


 思い出した。彼女に別れを切りだされた日の会話だ。よりによって、人生最悪の日といっても過言ではない今日の出来事を夢で見ている。


「突然のことで混乱していると思うけど…何日も考えた結果なの…ごめんなさい」


 彼女は揺るぎない信念を持って見つめてきた。


 何とか声を絞り出して言葉を紡ぎ出して、どうして僕と別れたいのか、彼女を問いただした。


「どうして…か…。××のことが嫌いになったわけじゃない。ただ他に好きな人ができたの——それだけのこと」


 彼女は感情のない目で僕を見ている。冷淡なことを言う感情に軽く憤りを感じた。僕が言い返す前に、彼女が再び先に口を開いた。



 なぜか僕が口に出そうとしたことを彼女が先に話した。


「そう驚くことでもないでしょ?君も知っての通り、わたしは大学で心理学を専攻している。君の考えは手に取るように分かる」


 彼女はニィッと嗤った。いつから僕と別れたいと思っていたのかを彼女に訊いてみた。


「いつから?…わたしが——君以外を好きになった日かな?」


 彼女は何の躊躇もなく僕の心を傷つけていく。いや、むしろ…それを愉しんでいる。

 

 彼女は人の心を弄ぶような子じゃない。人に優しくできる子だ。


 彼女が別れを切り出した日に、こんな会話は存在していない。つまり僕の目の前にいる彼女は僕の空想の産物。彼女は偽物だ。


「いいえ、わたしは偽物じゃないわ」


 またしても彼女は先回りして、僕が口にしようとしていた言葉を発する。


「わたしは君の脳に刻まれた彼女の記憶の結晶が集まってできた集合体に過ぎない。——が、完全に空想の産物というわけでもないわ。わたしは君が彼女に抱いているイメージに強く影響を受ける」


 彼女の言っていることが、いまいち理解できずに困惑した。


「ハァ——おバカな君にも分かるように説明するわね——つまり君が彼女をどう思っているかによって、わたしの人格が決定する」


 それはつまり…。


「そう…わたしの口が悪いのも、性格が悪いのも、態度が悪いのも…全ては君の彼女に対するイメージ!」


 僕が彼女を憎んでいる…?ありえない、僕は愕然がくぜんとした。


「いいんじゃない別に——フった相手を憎むことなんて誰でもあるでしょ」


 頭がズキズキと痛みだす。舌がもつれて上手く言葉にならない。嫌だ、認めたくない。僕が彼女を憎んでいるなど…。


「口でどうこう言おうとも、あなたの本心は心は彼女のことを憎んでいる」


 嘲るように彼女は悪魔の囁きをする。


「認めちゃいなさい——僕は彼女を憎んでいますって」


 やめてくれ!僕を惑わせないでくれ、と叫ぶ。


「大丈夫だって!誰も怒らないって!君は良くやったよ、こんなにボロボロになっても…幻影のわたしにここまで酷く言われても彼女を愛そうとする——」


 どうしたらいいかわからず涙を流しながら、うずくまることしかできない。


「大丈夫——わたしは彼女だけど彼女じゃない。今度はわたしが守ってあげる。もう二度とあなたを離さない」


 彼女は僕を優しく抱きしめると、甘い声で僕をそそのかす。


「——だから…安心して…彼女を——し…さい」


 突然、抗えない睡魔に襲われて、僕は彼女に抱きしめられたまま深い眠りに就いた。


 *


 どれほどの時間が経ったのか、わからないが薄っすらと開いた目から周囲の様子を探ると、深刻そうな顔で頭を抱えている女医の姿があった。


「——ッ!——良かった!もう目を覚まさないんじゃないかと…」


 女医はベッドに駆け寄ると、そっと抱きしめてきた。どうやら心配をかけてしまったらしい、僕は素直に女医に謝罪した。


「いえ…わたしがもう少し冷静でいたのなら…ハァ…こんなんじゃ医師失格ね」


 女医は深くため息をついた。


 そんなことはない。まだ数日しか女医の治療を受けていないが、女医のおかげで久しぶりに睡眠というものを経験することができた。女医には感謝してもしきれない、と礼を言った。


「——あ、ありがとうございます!これからも精一杯治療させていただきます!」


 女医は涙ぐみながら、そう呟くと深々と頭を下げた。


「——どうでしょうか…今回はこのようなことになってしまったので…今日は泊まっていかれては?」


 泊まる?病院に泊まるということだろうか、それとも女医の家に?いや、アクシデントが起きたとはいえ、女医に迷惑をかけることはできないと丁重に断った。


「いえ…元はといえばわたしの不始末ですから…せめて何かお詫びさせてください…お願いします…」


 しかし女医は食い下がってきた、ここまで言われて断るのは、無粋というもの。ここは、ありがたく申し出を受け入れよう。もしかしたら、女医の家に泊まれるかもしれないという、邪な考えが脳裏をよぎったが、ひとまず今日は泊まることにする、と女医に話した。


 女医は花が咲いたような笑みを浮かべた。


































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