第36話 喫茶店にて 2
よっ子は一輝の事が気になりながらも溜まりに溜まった食器を洗いながら厨房の中を見渡し『もっと整理整頓すれば良いのに』と思い丈治と話す陽輔の横顔を見ると、その時こっちを見ている一輝と目が合って思わず手元に目を向ける。
「ここに来てまでこき使われてやんの」
そう言いながら厨房の中に入ってきて、さりげなく横に立つ一輝の香りを嗅いだ。ふわりと匂う香りがいつもと違う。
「先輩、いつもの匂いと違いますね」
「ん?なんか匂うか、なにもつけてねえぞ」
腕を鼻先に持っていき袖の匂いを嗅いだ。
セーターの胸あたりも摘んで匂う、その些細な動きでさえよっ子はドキドキとした。
「なんの匂いだ?」
「なんだろう。レモンみたいな爽やかな香りがします」
高鳴る鼓動をかき消そうとするけれど、かき消そうとすればするほど胸は高鳴る。
「それって俺のかな?すごい臭覚だね。多分ヘアートニックだよ。そんなにつけてないんだけどな」
現代版ブラックジャックと呼ばれる男が微笑んで言った。
「ブラックジャックさんの匂いじゃないんだ」
特技のひとつ優れた臭覚、匂いフェチのよっ子だからわかる。丈治や陽輔も鼻をぴくぴくさせて香りを探るが全く匂わない。
「おい!よっ子、ブラックジャックってなんだ。お前……」
「えっ?陽輔さんがそういった」
「俺か……確かに言ったけど、それを口にすんなよ」
一輝がブラックジャックと呼ばれる男に、
「すいません、こいつなにも知らないもんで」
「えっ……駄目……なの先輩?」
思わず一輝の腕を掴みかけて伸ばす指先を折り曲げぎゅっと握って引っ込めた。
「構いませんよ。ブラックジャックって呼ばれるってすっごく光栄な事だし、ねえ、君とは初めましてだもんね」
一輝はよっ子の背後に移動し、よっ子の頭を押さえつけて下げさせた。
「すみません」
よくわからないまま謝った。眼鏡をかけて知的な面持ちは生真面目そうで誠実さが滲み出ている。
「お医者さんですか」
「以前ね。以前は医者でした。今はもう医療機関とは違う仕事してますけど」
ブラックジャックと呼ばれる男は少し遠くを見た。
「今は、なにをされてるんですか」
「おい、よっ子、お前いい加減にしろ!」
「えっ?」
背後にいる一輝に一喝され顔を見上げる。
「川越さん、構いませんよ。今の仕事の方がずっと合ってるし、医者は自分で辞めたんで後悔はしてませんから」
ブラックジャックと呼ばれる男に手招きされてカウンター越しではあるけれど目の前に立った。
「俺は蓮池学といいます。ドラビットっていう会社のね、経理担当兼社長室の
内ポケットから名刺入れを出して、名刺を取り出すその指先は細くて綺麗だった。
名刺を差し出されたよっ子は両手で名刺の端を摘んで受け取った。
「ありがとうございます。ドラビットってどんな会社なんですか」
「こちらと同業なの、不動産会社とか風俗店に属する業種をまとめてる会社で本社は大阪にあって経理業務に就いてるんだよ」
「同業者の方、見た目、銀行マンみたいに見えます。経理担当だからそうみえるんですね」
「銀行マンって、なんつう、子供ぽい発言なんだよ」と丈治は一輝を見やって顔を歪めた。
「子供ぽい?」
よっ子は恥ずかしそうに俯いた。
「いいんじゃない。純朴な感じはいいと思うな。今、いくつなの?」
「26歳です」
「その服装が少し大人っぽく見せてるけど、なんていうのかもう少し可愛いらしい服装にしたら、十代でも通るよね」
よっ子の人中がびよーんと伸びる。陽輔は思わずよっ子の人中を抑えた。
「鼻の下伸ばすっなって言ってんだろ!もろ、喜んでんのが、ばればれやん」
陽輔の指を摘んで避ける。
「だって、陽輔さん10代なのよ」
「26にもなって10代に見られるのがそんなに嬉しいか?ガキ!って言われてるのと同じだろ」
丈治が呆れた口調で言う。蓮池学は優しく微笑んで、
「うちには女子社員はいないから、紅一点って言うのも良いもんですね」
「女性社員はいないんですか?」
「うん、うちの社長は器用でね。なんでもこなす人なんだ」
綺麗な指先を自分の頭に向けて
「ここが違うの、なんて言うか秀才」
「蓮池さんもその口でしょうが」
と一輝が笑った。
「上司の結城もこれまたなんでもできる人で、なんとなく少人数で上手く回してますよ」
「蓮池さん、おたくが一番天才でしょうが」
陽輔が蓮池学の目を覗き込むような仕草で言った。
「それほどでも……」
「謙遜なんか必要ないっすよ。うちの舎弟頭が俺にそれ求めてくるんすけど、無理だつうの」
一輝は頭をかきながら言う。丈治と陽輔が同時に納得し二人は見合ってにやりと笑い頷いていると一輝はカウンター下の陽輔の片足を蹴っ飛ばした。
「痛っ!絶対お前には無理だろうよ!」
「あゝ、無理に決まってんだろ!だけど陽輔、お前に言われるとすげぇムカつくわ」
よく話が見えないよっ子は軽く会釈をして名刺を折らないようにトートバッグの内ポケットに仕舞って流しに戻ってスポンジを手に持った。
「先輩、そこにいたら服濡れちゃいます」
「おお、あっちに行くわ」
一輝は蓮池学の横の椅子に戻って座るとタバコを咥えて火をつけた。よっ子はひたすら食器を洗って拭いて棚にしまっての動作を繰り返す。
「私、こんなの好きかも知れない。ねえ、陽輔さん、私、喫茶店経営できるかしら」
と楽しげに陽輔の顔を覗き込むと、
「おお!お前、確か料理できるんだったよな。おい!一輝、この店さあ、よっ子に任せて俺、組に戻ることできねえかな。なあ、丈治、名案だろ!」
「あん?」
満面の笑みの陽輔を見て呆れる丈治、
「無理に決まってんだろ」
丈治はぶっきらぼうに一言呟いてバナナジュースを飲んだ。
「だってよぉ、元を正せば、俺が一輝と集金してたんだから、よっ子とチェンジしたって、なんら問題ねえだろ。この店を残すために足洗わされたんだから、この店を継ぐやついたらそれでいいんでねえか、なあ、一輝!」
なにやら先の見通しが定まったような顔をして一輝の目前で親指を立てた陽輔はよっ子を見て丈治を見て名案に全身を震わせた。
「おめえは馬鹿か!」
悪意ある嫌らしい言い方で大葉が言った。短くなったタバコを陽輔に向けて指先でぱつんと弾き飛ばす。飛んできたタバコから身を交わした陽輔は、
「危ねえな!」
と言って睨みつけた。
「一度、足洗った
陽輔は足元に落ちたタバコの吸い殻を拾って三角コーナーに投げ入れた。拳を握りしめるその手を見つめる。
『どうして社長の部下にこんな人がいるんだろう。下品だし輪を乱す感じが好きじゃない。先輩も丈治さんも渋い顔してる。むかついてるのに、なにも言わないんだ』
よっ子は
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