第31話  背中

 十二月三十日、朝から部屋の掃除をし、掃き出し窓のガラスを拭きながら次郎丸時貞の自宅を想像している。


 事務所に置かれている全てが高価な物だった。きっと自宅も相当なものだろうと妄想に励むよっ子。


「どんな料理が食べれるんだろう。まさか、シェフとか居たりして、まさか、花火打ち上げたりして、まさか、目の前でお寿司を握る職人居たりして、お寿司食べたーい」


 よっ子は尻振りダンスをしながら、せっせと窓拭きをする。


「社長宅に泊まるんだからお酒飲んでも……駄目ね。眠ったら駄目なんだもんね。飲んだら寝ちゃうから飲めない、でも、飲みたいじゃないねぇ〜よっ子さん」


 既に気持ちは時貞宅での年越しイベントの事で頭がいっぱいだ。


 お正月には幸二宅にて過ごす予定になっていたけれど、気持ちはすっかり時貞宅に飛んでいる。


「会社の行事に参加しないわけにはいかないからね」


 と自分を肯定する。しかし表向き楽しんでいるようでも、ちらほらと顔を覗かせる不安があった。


 気にしないようにしているつもりでも頭の中に浮かぶそれに気持ちが向いてしまう。

 二ヶ月後には赤ちゃんが生まれてくることは嬉しいはずなのに心は立ち止まってしまう。


 真紀子はいつまでもどんな時も自分の母親であることに間違いはない、自分だけの母親ではなくなることがこんなにも寂しいなんて思いもしなかった。


「取り敢えずメールを送っておこう」


※実は、年末年始会社の行事で社長宅にて忘新年会、年明けを一緒に過ごすみたいなので予定していた母さん宅での新年は迎えることができないの、ごめん※


 真紀子にメールを送ったら、直ぐに既読がついて、


※だったら今日はうちに泊まりに来なさいね。ちゃんとお泊まりセット用意してくるのよ。わかった!※


 と返事がきたから、


※はい※


 とだけ返信した。


 トートバッグでは入りきらないお泊まりセット、よっ子は少し大きめのボストンバックにパジャマと下着と靴下、歯磨きセット、化粧品一式を詰めた。


「一泊なのに、この準備は面倒くさいな」


 この広いリビングに存在感を示す小さいはずのボストンバッグはよっ子の心を陣取っている。よっ子はファスナーを開けて中身を全部取り出した。


「別に余分な物なんて入ってないのにね」


 自転車の荷台にくくりつけて走る姿を頭に浮かべると恥ずかしさしかない。


 この大きさでは前カゴの中には入らない。そんな事を考えていたら呼び鈴が鳴った。


「誰だろう。哲也さんは社長宅に行ってるし丈治さんは陽輔さんちに行くって言って……たから、岡部さんかな」


「はーい」


 よっ子はリビングの壁のモニターを見た。


「……先輩」


 玄関に走り出て鍵を開け玄関扉を押した。


「よっ!」


 と手を挙げて満面の笑みだ。


「先輩ひとりですか、龍也は一緒じゃないんですね」


 と背後を見た。


「休みの日まで一緒はねえだろ。入っていいか?」


「どうぞ」


「掃除は済んだのか?」


 脱ぎっぱなしの靴は部屋の方は向いたままだ。よっ子は靴を置き直した。


「はい、さっき終わったところです。先輩は、掃除……するわけないですよね」


「あん?したぞ。年末だけはちゃんとする。ちゃんとってほどでもねえか。軽くパッパッとな、掃除機をかけることくらいできるからな」


「どうせ、ルンバにやらせたんでしょ」


「あいつ賢いぞ!龍也より使える」


「同感!で、する事なくてここへ来たんだ」


 少しテンションが上がったよっ子は急に立ち止まった一輝の背中に顔面をぶつけた。


「痛っ」


「お前、前見て歩けよ、石頭だな。背中……痛え」


 と顔を歪め振り向くと、顔を覆って本気で痛がっているよっ子の頬を両手で挟んで顔を自分の方に向けた。


「大丈夫か!」


 よっ子は突然大きな手に両頬を挟まれドキッリとして思考が止まる。まるで想像でしかした事がない壁ドンのみたいとその男らしいさに見惚れた。


 たとえ相手が一輝であろうがこれが世に言う『恋する瞬間、それに、なんだかこれってキスシーンみたい』と目をウルウルさせた。


「お前、鼻ぺちゃだな。それとも今ので潰れたのか?可哀想な鼻だな」


 と指で鼻を弾かれる。一輝は振り返ってリビングに目をやるとボストンバッグの横に並べられる宿泊セットが目に入った。


「お前、どこか出かけるの?」


「母さんのところ、大晦日、社長宅での行事の事メールしたら、今夜、泊まりに来なさいって」


「どうした、その言い方、行きたくねえ感じだな」


 よっ子は荷物のそばに腰を下ろしバックの中に荷物を詰め始めた。


「行きたくないわけではないんですけど」


「どうした?」


「先輩、お母さんが自分だけのお母さんでなくなる感じってわかります」


 不貞腐れ気味に言うよっ子を見下ろしていた一輝は掃き出し窓に近づいて外を眺めた。


「母親か……そうだな。俺が物心ついた頃にはもういなくなってたからな。母親ってもんがどんなんだかわからねぇから、だから、ちょっとわかんねえな。お前のそれに応えてやれねぇわ」


 よっ子は思わず、


「ごめんなさい」


 と持っていた服に顔を埋めた。


「別にたいしたことじゃねえし」


 顔を上げるとジーンズのポケットに手を突っ込み少し顎を上げた横顔がどこか遠くを眺めてる。その眼差しは今まで見たことのない。


「おい……」


 背後から一輝を抱きしめてお腹の前で自分の手を握った。


「おい、よっ子……」


 大きな背中に顔を埋めた。一輝は腹の前で組まれているよっ子の手を握りかけて目を閉じた。一度ため息をついてそっと目を開け優しく笑む一輝、


「お前、なんもかんも我慢し過ぎじゃねえのか」


 誰にも言えない想いを一輝は気づいている。


 真紀子と幸二の交際が始まった時、幸せになって欲しいと思う反面、とても寂しさを感じた。

 

 二人の仲睦まじい姿は嬉しかったけど、自分の居場所が無くなった気がした。


 真紀子の妊娠報告は自分だけの母親ではなくなる事を思って悲しくなって泣いた。


 心にぽっかり穴が空いた。


 その穴が埋まることはない。ずっとそこから目を背けていたのに一輝の言葉で堪えていたタカが外れる。


 背中で啜り泣きながらしゃくりあげ鼻水を吸い込んだ。


「お前、鼻水つけんなよ」


 よっ子は背中で何度も頷いた。声を出して応えようとしても声にならない。

 一輝はためらいながらも優しくよっ子の手を握った。






















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