第15話  皆 疲労困憊

 帰宅時間は午前2時20分。風呂に入って布団に入るのは3時30分頃、最近の目覚ましアラームは10時30分に設定している。鳥の鳴き声にも慣れたせいか、クラッシック音楽が鳴りだすまで目覚めることもなく、ぐっすりと眠れる。


 生活は昼夜逆転したけれど、なにひとつ困ることはない。サイレンスマンションに引っ越して三ヶ月が過ぎようとしているけれど心配するほどの事もなく、幹部と顔を合わすこともない、真紀子と幸二はマンションに来たがっているが、なるべくよっ子の方から顔を出してなんだかんだ理由をつけては先延ばしにしている。ある日、よっ子は閃いた。


「赤ちゃんが生まれてからの方がいい気がする」


 と真紀子に言って見ると意外と二人はすんなり納得した。


 喫茶店コカドの古門陽輔からの情報、最重要案件は今のところ何も生じてない。大介は気を抜くことなく組長の警護を怠らず、常に豪腕の哲也と丈治が共に行動している。


 泰と裕介は組長の子息の嫁が経営する店で、店員の姿に扮して動物を愛する普通の男たちの様だ。しかし、そこには真由子や社員3名が事情を聞かされるいなやまるでSPのように目を光らせ店長の警備をする様になった。


 一方、妻である祥子の弁護士事務所には、金太郎と吾郎が警護にあたっているが、祥子によって刑罰を免れたものや短期刑となった他所の組員たちが噂を聞きつけ、頼んでもいないのに遠巻きに警護をしてくれている。


 これでは一体、誰が怪しいのか分かったもんじゃないと金太郎は頭を悩ます。


 見兼ねた吾郎は敵か味方か短時に判断するため、写真を集めて資料を作り最新技術を駆使して判別するようにした。


 祥子の助手の波川ゆかりは恐怖のあまり体調を壊してしまった。急遽、明那が祥子の助手を務める事になり、金太郎の横を堂々と歩き、家来を従えた烈士アンジェリーナジョリーのようだ。


 組長の子息の護衛を命じられた一輝は直情径行にあり組長交え話し合いがもたれ、時貞直々の命により単独行動をしないと約束させらた。


 その護衛は子息自身には知らされてはいない。本人に申し出れば拒絶される事がわかっているからだ。


 大介は不識でなくなることが危険から身を守る事につながると考え、子息の友人であるサンジに事情を話し警戒心を持ってもらう事にした。


 自分で自分を守れ、気を抜くな誰がどこで見ているかわからない『とにかく気をつけろ』とよっ子は大介に再度下命された。


 大介は先を見通し誰一人として危害を被らない事を案じ気を配り、卓絶な男は抜かりなく準備万端にその時に備える。


 朝というより、まもなく正午である。

 

 目覚めた瞬間に天井を見上げて、「気を引き締めろ、よっ子」と呟くとすぐに起き上がるとそのまま、腹筋、背筋、腕立て伏せをするのがルーティンになった。よっ子の気合いは十分だ。


 以前15回程しか出来なかった腹筋と腕立て伏せは今や優に100回は越えるようになり腕には筋肉がついて日々回数は増え続けている。


 真紀子と暮らしていた時は勤務時間を考慮してもらっていたが、サイレントに越してから大きく変わって、拘束時間は約12時間となりほとんどを本社事務所で過ごしている。


 事務所前でよっ子を下ろすと哲也と丈治はそのまま組長宅へ迎えに行った。時貞の出勤はその日によって違うため二人の出勤時間は毎日変動する。そのため疲労もかなり溜まっているようだ。


「おっす」と背後から声がしてよっ子は振り返った。一輝と龍也が戻ってきた。3人は揃って車が見えなくなるまで見送り、ビルの中に入ると龍也は先にエレベーターのボタンを押して待っている。


「先輩、息子さんは」


「さっき昼休憩で自宅に戻った。泰と裕介がついてるから、俺たちは今から仮眠」


「お疲れ様です。だけど本当に襲ってくるんですか?あれから三ヶ月経ったけど、なにも起きないし、このままなにもないんじゃないですか」


「よっ子さん」


「なに?龍也君」


「栃島の子分の須賀は必ず来ますよ。よっ子さん、あのクソやろーの実態知らねえからわからないんでしょうけど、間違いなく来るから、気をつけてくださいよ。油断なんてしないでください。こういう事って忘れた頃にやってくるんす。舎弟頭はすげー心配されてますから」


「……ごめんなさい」


 警戒心の希薄、生命に関わる危難を知らないよっ子には今のこの状況は今ひとつ実感できない事だった。それに比べ組員達は普段通り過ごしているようでも目に見えない緊迫感を秘めている。


 よっ子が鍵を開けると一輝が先に入って、そのまま畳の間に入っていった。


 よっ子は防犯カメラのモニターをオンにするとポットに水を入れお湯を沸かしてる間に組長に出すお茶の準備をする。


 急須や茶碗、お茶っ葉を用意してから社長室の清掃を始める。パソコンの電源を入れて事務所と畳間の掃き掃除、バケツに雑巾を入れ固く絞って机の上を拭く、この頃は畳の雑巾掛けはしない。みなが仮眠するため、この時間はモニターの監視をするようになった。


 地下のモニターに映り込む社長専用車レクサスが入庫するとよっ子はすぐに控え室のドアをノックして静かにドアを開けた。


「先輩、龍也君、組長到着しました」


 眠そうに二人は起き上がる。どこでも眠りすぐに目覚めて起き上がれることには、感心させられる。


 二人は立ち上がると頬を叩いて気合いを入れてエレベーターまで迎えに行った。


 よっ子はその間、熱湯を茶碗にお湯を入れて冷ましている間に急須に茶葉をいれる。茶碗のお湯を急須に入れて60秒、再び茶碗に注ぎ入れると程よい温度で美味しいお茶になると真紀子に教わった。


 よっ子はお盆をもって組長室の扉の所で待っている。


「おはよう」


 時貞はいつもと変わらず優しく声をかけてくれる。


「おはよう御座います」


 ソファに座る姿はやはり心労が伺える。よっ子はさりげなくいつも通りにローテーブルにお茶を出した。すぐに茶碗を手に取りゆっくり啜り飲む。


「ほおー」


 お茶を飲み一息つくと、


「よっ子の茶は旨いのう」と呟くと目を閉じた。よっ子は事務所に戻って、みんなの飲む珈琲の準備を始める。時貞はなによりも家族のことを案じている。


 息子とその嫁の事が気掛かりで仕方ない。三年前に起きた事件は今でも忘れることはなく、時々伏せてしまいがちだ。


 しかし時貞は弱さを見せるわけにもいかず、常に気を張っている。精神的な疲労は増すばかりでそばにいる大介はそんな時貞を気遣って離れることをしない。


 情報を得た日から、次郎丸時貞の自宅にずっと身を寄せている。


「お前らも少し休め」


「はい」


 大介は次郎丸の丸い背中を見て胸を痛める。本心を誰にも語らない語ることをしないからこそ神経を張り巡らせ少しでも時貞に寄り添っていたいと思う。それは哲也も丈治も同じ気持ちだった。大介は組長室から出て扉をそっと閉めた。


 三人は顔を見合わせるとため息をついた。大介がソファに座るとよっ子は大介の前に新聞を置いた。


 哲也は金庫の鍵を開けて集金袋をよっ子の机の上に置いたあと控え室に入って行った。丈治は携帯を出して廊下に出て行った。一輝と龍也は既に畳間で寝ている。


 よっ子は大介に珈琲を淹れテーブルの上に置いた。


「お前は大丈夫か」


「はい!私、この間、これ買ったんです」


 よっ子はリクルートバッグから取り出したそれを握って手を振り翳して「シュパン!」と伸ばした警棒を見せた。


「お前、それ」


「これで、やり上げますんで」


「そっ、そうか、まあ護身には必要だな」


 大介は苦笑した。新聞を見ようとして手に取ったもののすぐにローテーブルに戻した。

 

 目を細めこめかみを押さえる。目頭をぎゅっとつまんで右手を左肩にのせると肩を揉む仕草をした。相当疲れている様子だ。よっ子は背後に回って両肩に手を乗せると、


「揉みますね。随分凝ってらっしゃる」


 と微笑む。


「お前、肩揉み上手いもんだな」


「母さんの揉んでましたからね。私、整体師になれるかな」


「どうだかな」


 よっ子はしばらく肩を揉み続けていると丈治が事務所に戻ってきた。


「丈治さん、珈琲」


 丈治は手のひらをよっ子に見せ「自分で淹れる」と言って給湯室に入って行った。


 大介は目を閉じ、うとうとと船を漕ぎ始め寝息のような呼吸に変わった。次第に眠りに落ちる様子を感じてよっ子は大介の顔を覗き込み静かに手を止めた。


 大介の目が充血している事を知った。足音を立てないように離れ自分の机の引き出しの中から買ってきていた疲れ目に効く目薬を大介の前に置くと、よっ子は椅子に座って集計を始める。集計をしながら癖になりつつあるモニターに目を向けチェックする。


「丈治さん」


 よっ子は給湯室の方を見て声をかける。


「どうした」と給湯室から顔を覗かせた。


「モニターに誰か映ってます」


 すると丈治はモニターに走り寄り目に力を入れて見ると素早く引き戸に走り寄って鍵を閉めた。その音で大介がハッと目を覚ます。


 よっ子はモニターを切り替えて訪問者を確認している。


「顔を見せないようにしてるのか」


 大介の言葉でよっ子は控え室に駆け込んだ。


「起きてください!誰か来ました」


 哲也は目を開き素早く身体を起こし、よっ子を部屋の奥の方に押した。


「よっ子はここにいろ!」


 一輝もよっ子の肩を掴んで、小上がりの畳間に座らせた。事務所では緊張が高まる。


「龍也、そこの木刀持っとけ」


「はい!兄貴」


 龍也の十代は毎日のように街で喧嘩をしていた。恐れ知らずの若者はある日、通りすがりの一輝に喧嘩を売った。やり合う前から結果は見えていたが敢えて一輝は相手をしてやり瞬殺で龍也をダウンさせた。


 その一輝に懐き、時貞の計らいで清水学園に入学させ卒業後組に入門させたものの、ある事件をきっかけに闘争心を失い危機に対し自分を守る防御さえもままならなくなった。

 

 大介はこのまま龍也を放り出す事も出来ず顧慮した上で、一輝と共に行動するように命じた。







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