第12話  新居にて

 スマホのアラームがよっ子の指示通り鳴ってよっ子を起こす。曲はスマホに入っているシルク、クラシック音楽を聴いてのお目覚めである。頭上のスマホを手で探してアラーム音を止めた。


「おはよう、ん、ここどこ」


 初めて見上げる天井、古めかしい木の板の古めかしい傘付き蛍光灯ではなく、真っ白なクロスが貼られた天井にシーリング照明器具を眺めながらこめかみを抑えて起き上がると、


「お目覚めか」


 目の前に哲也が立っている。


「どうしてここに?」


「カギ」


「鍵?」


 哲也は顔の前で鍵をぶらぶらと揺らして見せた。


「カギをかけないわけにはいかないからな。俺が昨夜と言っても午前2時、カギを閉めて部屋に戻り、いま開けて入ってきたところだ」


 よっ子スマホを手に取って時刻を確認した。


「4時間前?」


 鍵をちゃぶ台の上に置いた。


「すみません。私、どうやって帰ってきたか記憶がないんですけど、なにかしでかしましたか」


「かなり酒を飲んで、酔っ払い、丈君と俺とで連れて帰ってきた」


 よっ子はパジャマの、胸元を握りしめた。


「安心しろ、自分で服を脱いでそれに着替えた。丈君も俺も着替えてるところは目を閉じたから」


「えっー!すみません」


 よっ子は布団の上に正座して布団に頭を擦り付けた。


「他に、なにかしましたか」


 突っ伏したまま訊いた。


「別になにも、今日は休んでここを片付けろと、組長命令だ」


「組長命令、わかりました」


「二日酔いになってないのか」


 恥ずかしそうに顔を上げた。


「二日酔い?大丈夫です」


「大丈夫なのか、酷かったら連絡してこい、なにか買ってきてやるから、悪いけど、冷蔵庫開けさせてもらった。なにも入っていないな、まあ、越してきた早々に昼食食いに行って、夜、飲みに行ってたりしてたら買いに行く暇なんてないよな」


「後から、行ってきます」


「そうだな。行く時は気をつけて行ってこい」


「はい、あれ?出勤時間じゃないですよね」


「ランニング」


「ランニング?」


「ああ、飲んだ翌日はひとっ走りすると決めてるんだ。じゃあな」


 哲也は部屋から出かけて振り向いた。


「カギ閉めろ」


「はい!」


 立ち上がって哲也の後について行き玄関先で見送ると鍵を閉めて辺りをじっくり見渡した。


「ああ、またやっちゃった。どうして、お酒飲んだんだっけ?たしか、ママと恋の話をしてて……それから」


 記憶が飛んで思い出せずため息をついた。


 コートクローク、シューズクロークの扉を開けた。いっぱいになる程の靴は持ってない、コートは一枚ぽっきりだ。


「今度からカッパ干せるね。ああそうだ。カッパはもう着なくていいんだった」


 廊下の板に触れてみた。


「廊下、今までなかったね。贅沢な空間」


 廊下に足を乗せると顔が綻ぶ。最初の右手側のドアを開けるとアパートのひとつの部屋より広い部屋、窓を開けてみる。外は通路側になるけれど部屋の中が見えない様に目隠しフェンスがしてある。


「といっても奥の部屋が哲也さんでエレベーター側が丈治さんの部屋、誰も覗かない」


 エアコンが付いている。


「ありがたい」


 窓の反対側には一畳程のウォークインクローゼットがある。


「お洒落」


 廊下を踏み締めながら歩く、左の扉を開くとトイレ。


「綺麗だな」


 よっ子は床に座って眺めている。立ち上がって反対側の引き戸を開ける。洗面台、今までキッチンの流しで洗顔と歯磨きをしていたから、今日からはここでお化粧もできる。鏡の中の自分がお姫様に見えた。


「こんな鏡、今までなかったもんね」


 洗濯機置き場、


「洗濯機買わなきゃ、電気屋さんに行ってこよ」


 アパートで使っていたものはあまりに古くて廃棄する事にした。お風呂も都市ガスのボワって音のする湯沸かし器じゃなく追い焚き付きで自動にお湯が溜まるお風呂。


「すごい!」


 そして広いキッチン、


「料理をするのが楽しくなる。食べさせてあげる人いないけど」


 こうなると冷蔵庫まで新しいのが欲しくなると思いながら、よっ子は冷蔵庫を愛おしいそうに撫でた。

 

 この冷蔵庫は幸二が真紀子に初めてプレゼントしてくれた物だ。よっ子の22歳の誕生日に初めて幸二をアパートに招待した。その時幸二は台所の型の古い冷蔵庫を見て、いきなり真紀子を抱きしめて泣き出した。最初笑ってた真紀子も一緒に泣きだして、よっ子はあの時、真紀子の涙を初めて見た。頑張ってる母の我慢強さを肌で感じたのである。


 どんなに仕事を頑張っても日々の生活に追われ冷蔵庫を新調するなんてできなっかた。

何もかも我慢の生活、頑張ってもその程度の生活しかできない現実はいつか人を屈折させる。屈折したらそこで終わってしまうから前を向いて歩く努力を真紀子と二人でしてきた。


 この人なら母さんは肩の力を抜いて、生きられる。楽にしてくれるはず、幸二なら幸せにしてくれる。そう確信した事を思い出した。


 そして、ニ日後にいきなり冷蔵庫が届いたのである。だからこの冷蔵庫は壊れるまで使い続ける。そう決めている。


 流し台に触れて感動する。


「綺麗すぎるー」


 全身を身震いさせた。そして十二畳のリビングダイニング、ここだけで、暮らしていたアパートふた部屋分である。その横に五畳の洋間に、ディーブクローク、よっ子はこんな所に住まわしてもらえることに感謝しても仕切れないと思った。


「こんなマンションに、本当に住んでいいのかな。こんな至れり尽くせりで、私、急に裕福な気分、仕事で返さなきゃ、いや、この命で返す……。命をかけて守るか」


 急に胸が熱くなってきた。鼻の奥がツンとした。


「私、ひとつ気づいた事があるんだ。貧乏はね。人を強くする。誰かを恨めば耐えらるかも、なんて考えてた事もあったんだ。母さんが頑張っていたから悪い事をしない、迷惑をかけない、そうして生きてきたけど、綺麗な心でずっと生きてきたわけじゃないんだよ。今なら、それが言葉に出せる。母さん、ごめんね。私はきっといい子じゃない。心が綺麗な人間じゃない『屈折しないで生きるの』母さんの言葉を独り言をいつも聞いてた。だから、きっとそう思うようにしてたんだ。母さん、わたし女だけど、普通の女の子の生き方なんてできない気がするの」


 昨日、この部屋をちゃんと見物できなかった。今朝はリッチな気分でリビングの掃き出し窓を開けて外を眺めてみる。そこに広がる大きな家々の屋根が一望できた。


 ここはそういった人々が暮らす地域だ。そのためルールが厳しい、このマンションも本来富裕層の住まいなのかも知れない上も下も幹部が入室している。


「そうだ!昨日の失敗を誤りに行かなきゃ、幸ちゃんのケーキ、大人の男に似合うケーキ買って行こう。そうしよう」


 ここは上から見下ろす世界かもしれない。

いつもあの屋根の見えない道を、世間知らずの私はなにも知らずに歩いていただけだ。


「わたし、どんな事をしても上を目指すよ。母さん、いろんな事学んで、頑張るから」


 やっとやる気が出てきて部屋に戻り積まれた段ボール箱をみる。


「よっしゃ!これ全部、やっつけるぞ」


 箱の中身をリビングに全て広げた。風呂セットは風呂場に、トイレットペーパーは玄関前の収納庫に、キッチン用品を全てキッチンに、服は全て最初に見た部屋のウォークインクローゼットに収めた。


 年季の入ったちゃぶ台は気に入ってるから持ってきた。ちょっと不釣り合いだけど気にしない事にした。段ボールを潰して部屋の隅に重ねて置いた。


「お腹すいた」


 よっ子は身支度を整えながら考える。せっかくの休日を有意義に使おうと溌剌とした気分でマンションを出て自転車に乗って北町商店街へ向かった。

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