夜の向こう側

大塚

第1話

 見たこともない数字と英字がごちゃごちゃになった番号からの着信があった。全然気付かなかった。仕事中だったというのもある。スマホをスライドして時間を確認したら、六時間も前だった。今は二十四時、過ぎ。真夜中。。明日にしようかな。でも変に時間を空けた方が変な気持ちになるような気もするしな。

 それで、意を決して折り返した。

 コール一回で聞き慣れた声が鼓膜を揺らした。

「もしもし?」

『あ、久しぶり』

 名前も名乗らない。それでも相手が誰なのか、お互いにちゃんと分かっていた。俺たちはそういう感じの仲だった。いちばん初めは友だちの友だち。それからふつうの友だち。今では……何やろう? 親友? この年になってそういう表現するのもちょっとキモいかな。分からん。俺もあいつももういい年で、結婚してて、結婚はあいつの方が少し早くて、子どもがふたりいて、俺ん家はちょっと前に長女が生まれたところで、まあ、そんな感じ。

『忙しかった? 仕事してた?』

「うん、まあ、せやな」

『こないだ、なんかバス乗り継いで飯食うやつ出てたじゃん』

「見とったん? 恥ずかしいなぁ。俺ああいうの苦手やねん、なんや知らん、初めましての女の子とかおってさぁ」

 思わず本音がこぼれてしまい、あいつはアハハ! と少し甲高い声で笑う。普段の喋り声とは全然違う響き。俺以外の人が知ってるあいつは、なんていうか結構硬派で、笑うとしてもくちびるの端をちょっと歪めるみたいなニヒルな感じで、みんなで酒とか飲んで盛り上がってても途中でフラッと帰ってしまうみたいな、そういう一匹狼的なところがあって、でも先に帰る時は大抵カネを置いて行く。人数分。もしくはそれ以上。っていう、古き良き不良のアニキみたいな、そういう人なんだけどあいつは、でも俺の前だと全然違う。良く笑うし、良く喋る、俺の話も良く聞いてくれる。一度電話がかかってくると一時間や二時間は平気で溶けて、夜中に喋り始めたのに気付けば朝だったみたいな、喋り終えたその足で仕事に行くなんてこと俺はしょっちゅうで──

「で、今日はどないしたん」

『いやさ、今俺海にいるんだよね』

「海ぃ?」

 終電ももうない時間だ。いや、クルマがあるか、あいつには。

『来なよ〜』

 ほかの誰も聞いたことがない甘ったれた声が誘った。

「海にぃ?」

『海に!」

「今からぁ?」

『今しか無理なんだって!』

 念の為、どこの海か聞いた。俺が今いるロケ地からそう遠くない場所だった。歩いて三〇分、タクシーに乗れば一〇分もかからない。まあ、近くにいるとは思っていたけど。

 マネージャーに「ちょっと散歩してくるわ」とだけ言い置いて、宿を出た。えっ今から散歩ですかスグルさん、と驚かれたけど、平気平気と手をひらひら振って、絶対着いて来んなよ感を出しながら夜道を歩き始めた。


 三〇分後、辿り着いた浜辺に彼がいた。三神みかみ

「久々」

「一年ぶりや」

「もうそんなかぁ」

 くわえ煙草の三神が笑う。この匂いを俺は良く知っている。ほかの誰かが同じものを吸っていても、どこかに三神が立っているんじゃないかと思って辺りを見廻してしまうほど、魂とか、遺伝子とか、そういうものに刻まれてしまっているんじゃないかと思うほど、俺はこの匂いを知っている。

「今日もロケ?」

「せや」

「人気芸人は大変だな」

「もうそんな第一線てほどでもないで。若手に押されっぱなしや」

 三神は靴を履いていなかった。黒いスーツの上着を小脇に抱え、砂浜を踏み締めるようにぎゅっ、ぎゅっ、と裸足の指を動かしている。

「髪」

「ん?」

「伸びたなぁ」

「あ〜」

 去年会った時はほとんど坊主頭に近かった。それに髭も生えていた。今日は違う。烏の濡れ羽色の髪を海風に靡かせて、髭も綺麗に剃り上げたつるりとした顔で、月明かりの下、三神は俺の前に立っていた。

「スグル、この方が好きだろ」

「好きっていうか、初めて会うた時がそれやからな」

「懐かしいなぁ。20年ぐらい経つっけ?」

 煙草を海に向かって投げ捨てようとする手首を掴んで止める。

「海洋汚染」

「確かに」

 ふふっと笑った三神は指先で紙巻きの火をもみ消して、吸い殻をポケットにしまった。

「20年も経つのか」

 三神が呟く。友だちが友だちだと言って彼を連れてきた時、俺はまだ駆け出しの芸人で、いや芸人ですらなくて、三神はその時既に三神で、不良で、ハンサムで、そうすごくハンサムで、俺はこんな綺麗な顔をした男がいるのかと茫然として、いや、綺麗という言葉すら当時の俺の中にはなかった。三神はカッコ良かった。獰猛な野生動物のような眼をしていて、俺と三神を繋いだ友だちにすら本当はろくに心を開いていないような顔をしていて、あの時俺たちなんで一緒に飲んだんだっけ? いや、忘れてないよ、覚えている。俺の友だちが映画を撮ろうとしていて、俺はその出演者で、三神は共演で、でも手渡された脚本を見たら圧倒的に三神が主役で、だけど三神は「あの大阪弁が主演かよ」って思ったってずいぶん経ってから言ってて、お互い相手の役がめちゃくちゃカッコいいなって思ってて、それで、そう、あれから、20年。

 20年前も三神は俺を海に呼び出した。というか海に連れて行った。ほとんど誘拐みたいに。俺は芸人志望の芸人未満だったから時間はいくらでもあって、三神はその時俳優見習いをやりつつショップ店員だかなんだかをやってたんだっけ? 地元の先輩の紹介で。不良ってそういう横の繋がりがあるんだなって俺はちょっと驚いて、俺はどっちかっていうと不良とは縁遠い生き方をしていたから三神が語る三神の周りの色々が全部新鮮で、そう、海なんか全然遠い東京のど真ん中でその日の撮影を終えて、監督でもある友だちは一旦家に帰るって言ってて、俺は大阪から東京に来て友だちの家に泊めてもらったから一緒に帰ろうとしてたら三神が、俺の肩を掴んで、あれ、なんだっけあのクルマ。

「ハコスカ」

 新しい煙草に火を点けながら三神が擽ったそうに言う。

「それや、ハコスカ。おもろいクルマに乗っとんなぁって思って」

「俺あん時免許無くしてたんだよね〜」

「百回聞いたわ」

 それなのにハコスカに俺を積んで海まで爆走する三神は本当に楽しそうで、全開にした窓から入り込む風で彼の黒髪がむちゃくちゃに踊るのを俺は助手席でぽかんとしながら見ていて、海に着いて、誰もいないのをいいことにふたりで素っ裸になって飛び込んで、夜なのに暑さが全然引かへん妙な日やったな、アホみたいに水をかけ合って、疲れてハコスカに戻ってちょっと寝て、翌日の撮影開始時間に遅刻してすごい勢いで怒られて。

「三神」

「ん?」

「なんで死んだん」

「毎年訊くな、それ」

 三神は死んだ。5年前。心筋梗塞だったか心不全だったか、理由はもう忘れてしまった。とにかく突然、俺の人生から三神は姿を消した。5年前。俺はもう芸人として売れていた。結婚もしてた。テレビに番組も持ってた。三神の葬式に行けなかった。誰も俺を責めなかった。5年前。三神はもう俳優の仕事をしていなかった。結婚を機に自分の店を始めた。ジャズバーだった。三神がジャズを好きだなんて俺は知らなかった。開店祝いに花を送ってそれっきりで、俺は三神の店に足を運ばなかった。5年前。三神は毎月同じ日に俺に電話をくれた。通話の時間は年々短くなった。「もしもし? ごめんな、これから深夜ロケやねん。また折り返すわ」で終わることも増えていた。俺から折り返したことは一度もなかった。5年前。三神がいなくなってしまった。電話。三神からの着信履歴は、日々の生活に押し流されて消えた。スクショを撮るとかそういう習慣があれば良かった。三神はメールをくれなかった。いつも電話だった。俺の声を聞きたいのかと思っていたけど、いなくなって分かった。俺の声なんてテレビやラジオでいつでも聞ける。三神は俺に、三神の声を聞かせてくれていた。5年前。


 三神が死んで1年が経った、夏の日。スマホに非通知の着信があった。三神がいつも電話をくれていた日だった。通話ボタンを押した。

『スグル? 海に行こう』

 その時も俺はロケ中で、ロケ地からほど近い海に三神はいた。死んだ時と同じ髪型で、年齢もたぶん死んだ時と同じぐらいで、今日みたいに煙草を吸っていた。


 一昨年も会った。去年も会った。海で。そして今日も。


 三神は年々若返る。だから、今日でおしまいだろうなと思った。だって出会った時と同じ姿をしているから。

「三神」

「おう」

「葬式行けなくてごめんな」

「百回聞いたぜ。俺は気にしてない」

 言いたいことがたくさんある。おまえからの着信がなくて寂しい。おまえの声を忘れてしまいそうで怖い。おまえの匂いを嗅ぎたくて、煙草はもうやめたのに喫煙所に足を運んでしまう。俺は意気地がないからおまえの家族に「友だちなんです」って会いに行くことができない。おまえの奥さんのFacebookを何度も覗いてしまう、友だち申請もしてないのに。奥さんのTwitterはおまえが死んでから更新されなくなった。俺もTwitterやってるけど、何も書くことがない。寂しいよ。三神。俺が知ってる中でいちばん綺麗でカッコいい男。

「覚えてる?」

 三神が言った。

「20年前の今日、ハコスカで海行ったの」

「当たり前やろ、覚えとる」

 嘘だ。忘れてた。ざっくり夏だったなって思ってただけだ。俺は本当に不義理なやつだ。

「俺の命日も誕生日も忘れていいから、今日のことだけ覚えててくれよな」

 言いながら、大きな右手で額に落ちる黒髪をかき上げる──これは髪が長かった頃の三神の癖で、彼と額を突き合わせて喋っていると何度も何度も何度も同じ所作を見せつけられることになって、俺は、三神のこの癖が、好きで。

「あと」

 身を乗り出した三神が俺の肩に顎を乗せる。俺たちはふたりとも公称180センチってことになってるけど、三神の方がほんの少し小柄だ。

「俺の煙草」

 ぼそりと告げられた銘柄は、聞いたこともないものだった。

「は? マジ?」

「マジ。忘れてただろ」

「っていうか、違うやつやと思うてた……」

「あー。匂い似てる銘柄あるもんな」

 じゃあ、それも覚えててくれ、一生。三神はそう言って、きっとこの世で俺しか見たことがない、屈託のない、少年のような笑みを浮かべた。


 三神はハコスカで俺を宿まで送ってくれた。時計を見たらたった一時間しか経っていなかった。

「じゃあな」

「……おん」

 来年も会えるか、とは訊けなかった。ひらひらと手を振った三神は、あの頃みたいに長い髪を靡かせて去って行った。きっと、夜の向こう側まで。

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夜の向こう側 大塚 @bnnnnnz

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