毒親育ちのわたしが送りたかった、そうひどくない高校生活。

瀬々良木 清

プロローグ

 20☓☓年、東京。

 

 わたし、菅原美幸は、すべてに絶望していた。


 と、言ってしまえば簡単だが、よく考えたら、わたしは社会人になるずっと前から、すべてに絶望していたのかもしれない。記憶に残っていない三歳の頃に親が離婚し、ずっと母親と二人暮らし。大学を出て、社会人になってやっと母親の呪縛から解放されると思ったら、キャリア官僚という生き方には、わたしが持つ体力と知力を遥かに越えるものが必要だった。

 気持ちだけならそう簡単に折れなかった。辛い事があっても、人生そういうものだから、と割り切って生きていた。

 しかし、激務のキャリア官僚という生き方にはついていけなかった。連日、朝から深夜までの労働。上司からの、「、」を「,」にしろ、などの意味のない叱咤。やっている事が国のために必要な事であっても、それを見失うのは簡単な環境だった。

 就職三年目にして、わたしの身体は限界を迎えていた。

 食事ができなかった。食欲が湧かない訳ではないが、胃がしくしくして、ものが喉を通らなくなっていた。仕方なくゼリー系飲料だけで数週間生きた。

 そんな生活をしたら壊れてしまうと、誰でもわかるはずだ。しかし仕事に追われていると、まともな思考力も残らない。わたしが仕事意外のことを考えるのは、せいぜい帰りの地下鉄で音楽を聞く時くらいだった。

 

 ある日のこと――何月何日なのかは覚えていない。日付が重要だとも思えない。

 地下鉄のホームでワイヤレスイヤホンを取り出した時、指からぽろり、と片方のイヤホンがこぼれ落ちてしまった。

 イヤホンは二本の線路の間に転がった。一瞬、拾うためにホームから降りようかと思ったが、どう考えても危険なので、やめた。

 ホーム上でしゃがんで、落ちてしまったイヤホンのかけらを眺めた。

 どうしよう。駅員さんに言ったら拾ってくれるだろうか。でも駅員さんが来るより、次の電車が来る方が先だろうな。


「ちょっと、あなた、大丈夫?」


 かなり高齢のおばあさんに、背後から声をかけられた。わたしがしゃがんでいるから、体調が悪いと勘違いされたのだろう。


「ああ、すみません、イヤホン落としちゃっ……」


 わたしは線路上のイヤホンを指さして、状況を説明しようとした。

 その瞬間、自分の目を疑った。

 線路を指さしている自分の右手が、真っ赤な血に染まっていた。


「ちょっと! 血吐いてるじゃない! 救急車! 救急車!」


 高齢のおばあさんが、パニックになって叫ぶ。

 自分でも、吐血していることが信じられなかった。わたしは呼吸をするように、口から血を流していた。よく見るとホームのすぐ下に真っ黒な血溜まりができていた。

 

ああ。ついに限界か。


何の病気なのかは知らない。多分胃潰瘍か何かだろう。ストレスから来るやつ。

何でもよかった。大病をして、これ以上働けない身になったら、もう何もしなくていいだろう。

わたし、やっと解放されたんだ。

そう思うと、

体中の力が抜けて、わたしは線路の上に転落してしまった。


 キャーーーーッ


 おばあさんの、カラスのような絶叫が地下鉄の駅に響きわたる。

 ゴーッ、という音が線路から響いている。

 電車が、やってくる。

 警笛が鳴る。

 非常ブレーキのきしむ音が悲鳴のように――


* * *


『まったく。最近の若者はろくな死に方しないな』


 意識が戻った時、わたしはよくわからない世界にいた。

 真っ白だった。視界に白いものが写っている、という風でもない。意識だけがはっきりと存在しているものの、周りで何が起こっているのかはわからない。

 ちょうど、夢を見ているようだった。

 誰かの声が聞こえたものの、夢のような心地が気持ちよかったので、わたしは何もしなかった。このまま。気持ちいいままでいたかった。


『おい、若いの。聞こえんのか。わしは、神じゃ』


 おじいさんの声が聞こえる。自分を神、なんて呼ぶ人は初めてだったから、わたしは思わず笑ってしまった。


『信じないのか。お前はひどい胃潰瘍で吐血したうえ、電車に敷かれて死んだ。いまから、次はどんな世界で、どういう風に生きるか、わしが決めるんじゃ』

「ふざけないでください。神様なんているわけないでしょう」

『何じゃと?』

「だって、神様が本当にいるのなら、わたしがあんなにみじめで、辛くて、何の救いもない人生を送る訳ないじゃないですか」


 神様と名乗ったおじいさんの声は、しばらく何も答えなかった。表情は見えなかったけど、何かを考えている、と雰囲気でわかった。


『うーむ。相当ひどい人生を送ってきたようじゃな』

「そうですね。ひどい人生。それが一番、しっくりきます」

『だったら、次の世界では、そうひどくない人生……最高に幸せとは言わんが、中の上くらいの生活をしてみるか』

「なんですか、それ。想像できません」

『早く決めてもらわんと。次の行き先を決めるのがわしの仕事なんじゃて。生前のお前の望み、大体かなうようにサービスしてやるから』

「じゃあ、それでいいですよ」

『よしきた』


 次の瞬間、今まで存在しなかった重力が、急にわたしを地面に向かって引っ張りはじめたように、わたしの意識はどこかへ落ちていった。

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