壊性記

みやま

壊性記

「ごめん、彼女がいるんだ」


 彼は気まずそうに頭をかいた。


 これで何度目だろうか。


 勘違いしないでほしい。大学で仲良くなった男友達をご飯に誘っただけだ。

 以前にもそういうことがあった。大学で知り合った男友達と少し遊びに出かけたら、その彼女が私を罵ってきた。おまけにビッチと広められた始末だ。


 私は、ただ友達になりたいだけだ。

 一緒にご飯を食べて、一緒にどこかへ行って、一緒に楽しいことを経験したい。

 同性なら何の問題もなくできることが、なぜ異性になると途端に厄介なことになるのだろうか。


 私は嘆息を漏らした。



 ある日、私はサークルの同期と2人で飲んでいた。

 彼はそういう愚痴をちゃんと聞いてくれたし、私の想いについても共感してくれた。そういうことならぜひ友達になって欲しい、そうまで言ってくれた。

 私は心の底から嬉しかった。


 かなり盛り上がって終電を逃してしまったので、彼の家に泊めてもらうことにした。ここまでは何も問題なかった。


 出されたお茶を飲んで暫くすると、急に眠気が襲ってきた。

 やられた、と気付いた時には遅かった。その後は好き放題にされた。

 ああ、私を人として見ていないのだなとよくわかった。


「バラしたらこの写真――わかってるよな?」


 その時、彼の瞳の奥では黒い渦が踊っていた。



 私はマンションの屋上の欄干から少し身を乗り出し、地面を眺めていた。


 この身体は穢れてしまった。それはまだいい。この世界に私の欲するものは存在しない、それを見せつけられたことが何よりも耐え難かった。

 私の想いを見透かしたうえで、「お前は馬鹿なヤツだ」と世界が嘲笑っている。


 ビル風が強い。身体がふわっと前に押し出される。風まで私を急かすようだ。


 私はスニーカーを脱ぎ、右手に丁寧に揃えた。


 三途の川に手を掛ける。



「それでいいのかい?」


 背中から声がした。

 振り向くと、黒い人影が立っていた。私より少し大きいくらいか。私のスニーカーをじっと見つめているように見えるが、暗くて表情は読み取れない。


「話を聞くよ」


 包み込むような、優しく甘い味のする声だ。


 また、これか。

 もう期待なんてしていない。どうにでもなればいい。


「私は――」


 空の拳を握りしめた。


 ただ、友人が欲しい。

 性別を気にすることなく、お互いを尊重できる友人が欲しい。

 私が罵られるのも、道具のように扱われるのも、すべては性別のせいだ。

 性別なんてものがなければ、私は私の生きたいように生きられる。きっとそうだ。


 だから、私は――


「性別が憎いの」


 その声は、静かに、そしてゆっくりと震えながら、少しだけ怒っていた。





 数ヶ月後。


 爽やかな春風が吹く昼下がり、私と彼は公園のベンチで横に並んでいた。

 空を見上げると、真っ白な綿雲が1つ、忘れ去られたように浮かんでいる。


 私は彼を横目に口を開いた。


「あなたって、不思議な人ね」


 透き通った顔立ちの彼は、いつものように柔らかく微笑んだまま、不思議そうに小首をかしげた。


「なぜ、そう思うんだい?」


 相変わらず彼はニコニコしている。

 

 私は少し考えた。

 どう表現したらいいのだろうか。いまいち気の利いた言葉が浮かばない。


「好きにならないんだね、私のこと」


 今まで関わってきた男性は皆、私のことを異性として見ていた。

 異性だから良くしてもらったこともあるし、異性だから避けられたこともあるし、異性だから蝕まれたこともある。


 ところが、ここ数ヶ月を過ごして気付いたのだが、彼はまるで私を異性として見ていない。

 なぜかはわからないが、しかしはっきりとそう感じるのだ。


 彼は私のことを好きではないのか。

 だが、それにしては私のことを色々と知りたがるし、私と一緒に居たがる。

 彼はどのような気持ちで私と接しているのだろうか。ずっとそれが謎だった。



 しかし、彼の口から出た答えは意外なものだった。


「いや、好きだよ」


 刹那、私は彼の瞳を見つめた。

 彼は相変わらず表情を崩していない。いつも通りの細い笑顔だ。


 あまりにも平然と言うものだから、私が変なことを尋ねたかのような雰囲気になってしまった。


 異性として見られていないというのは、ただの思い込みだったのだろうか。


「――なんで今まで言わなかったの?」


「だって、当たり前のことだから」


「当たり前?」


「うん。人が人を好きになるのって、当たり前でしょ?」


「それは――そうね」


「じゃあそれでいいじゃん」


「そうだけど、それだと一緒になれないよ」


「もう一緒だよ」


「付き合うってことよ」


「付き合ったら何か変わるの?」


「それは――特別な存在になるのよ」


「特別? 特別ってなんだい? どこからが特別なの?」


「……」


 私は黙り込んでしまった。


 なるほど、たしかに彼は他の男とは違った。

 誘ったらどこにでも付いてくるし、彼もまた私をどこにでも連れて行った。よく食事もした。久しぶりに心から楽しいと思った瞬間もあった。

 そして、彼は隣でいつも透明な柔らかい笑顔を浮かべていた。

 この数ヶ月、彼は私が望んでいたことを1つずつ叶えてくれているようだった。


 しかし、彼には彼女がいなかった。

 ゆえに、時間をかけて私を懐柔しようと企んでいても不思議ではない。


 いずれこの至福の時間も崩れ去ってしまうのではないか――そう思うと拭いきれない不安の渦が私の腹で散らかっていた。



 そんな心中を見透かしてだろうか、


「性別が憎い、だったね」


 彼が柔らかく尋ねてきた。


 まあ要はそういうことだ。私は軽く頷いた。 





 すると、彼はベンチからすっくと立ちあがり、青いキャンバスに滲む白い木目を見つめながら、今までで一番低い声で呟いた。


「じゃあ、性別をなくそう」

 

 何を言ってるんだ。そんなことできるわけないじゃないか。


「ありがとう」


 私はぶっきらぼうに礼を述べた。彼の気遣いは嬉しいが、慰めはいらない。


「いや、本気だよ」


 しかし、彼の目は至って真剣だった。


「世界に性別という概念を忘れさせるんだ。僕はその方法を知っている」


 たしかに、彼は嘘をついたことがなかった。

 嘘だけでなく、あまりにも間違ったことを言わないものだから、この世界の真理すら知っているのではないかと思わされるほどだった。


 ここはひとまず乗ってみよう。私は彼の方に向き直った。


「仮に性別をなくせたとして、その場合はどうやって子孫を残すの?」


「残せないよ。だから人類は滅びるんだ」


「ちょっとまって」


 理解が追いつかない。


「つまり、性別をなくすことはできるけど、その代償として人類が滅びるってこと?」


「そうだね」


 彼はいつものように楽しそうに微笑んだ。


 彼は自分が何を言っているのかわかっているのだろうか。

 彼の言っていることが本当だとしたら、彼は狂っている。


「どうやってそんなことができるの?」


「ききたい?」


「うん、ききたい」


「えーどうしよっかなぁ」


「もったいぶらないでよ」


 彼は無邪気に綻びた。

 どこか不思議な雰囲気の拭えない彼だが、こういうところはあどけない。それが更に彼という人間の魅力を引き立てていた。


「じゃあいいよ、教えてあげる」


 彼は私の瞳を見つめてきた。彼の瞳の黒は吸い込まれそうなほどに深い。


「君と僕でセックスするんだ」


「え?」


「それもただのセックスじゃない。負のセックスだよ」


 全く、彼には驚かされてばかりだ。


「それはどういうものなの?」


「そうだね……それはその時に話すよ」


「それで、それをするとどうなるの?」


「性別がなくなるんだよ」


 なるほど、全然わからない。

 彼の話には全く繋がりが見えない。話がぶっ飛びすぎている。訊けば訊くほどわからなくなる一方だ。


 彼は話を続けた。


「それをするには、お互いが深く愛し合わなければならないんだ。しかも、そこには恋愛感情が介在してはならない。真に純粋な愛が必要なんだ」


 彼はそう言うと、再び私の瞳を覗き込んできた。

 顔が近い。吐息がかかりそうな距離に、思わず顔を背けた。耳が火照り出すのを感じた。

 彼はその様子を見て、ゆっくりと首を横に振った。


「今の君では駄目だ」


 すべて見透かされているようだ。私はがっくりと俯いた。

 しかし、本当にそんなことができるのだろうか。それに――


「あなたは世界が滅びてもいいの?」


「かまわないよ。僕は君の望む世界を望むから」


 なるほど、やはり彼は普通ではなかった。


 彼の言うことが本当だとすると、彼のことを恋愛感情なしに深く愛せば世界から性別がなくなるらしい。

 どうやら世界も滅びるようだが、それはまあいいだろう。どうせ一度は捨てようとした世界だ。


 私は彼に向かって軽く頷いた。


 彼はまた、楽しそうに微笑んだ。


「その時が来たら、君はきっと躊躇うことになるよ」


 そんなわけないじゃん。


 世界から性別が消滅し、おまけに彼を愛すために彼と一緒にいられる時間が増えるのだ。これほど願ったり叶ったりな話はない。


 この時は、心の底からそう思っていた。









 自宅にて。

 彼がソファで気持ちよさそうにうたた寝をしている。


 あれからどれくらいの月日が経っただろうか。私は大学を卒業し、すでに社会人としてキャリアを積んでいた。


 あれからというもの、私は彼を男として見ないように努め、心から愛すように励み、彼という人間を理解しようとした。そして、『負のセックス』を今か今かと待ちわびた。

 それでも、彼は「まだ」の一点張りである。今度こそはと尋ねるのだが、何度やっても結果は同じだった。

 そうしているうちに、私も半ば諦めかけ始めたのか、尋ねる頻度は次第に減っていった。

 

 彼と過ごす日々は、それはもう楽しいものだった。

 一緒にご飯を食べて、一緒に色々なところに行って、一緒に楽しいことをたくさん経験した。

 もちろん、彼は一度だって私を女として見ることはなかった。それがたまらなく居心地良かった。


 彼と一緒にいると、本当の私をさらけ出すことができる。

 言いたいことを言い、やりたいことをやり、自然体でいることができる。

 彼との日常が今ここにあるだけで、もう何もいらないとさえ思ってしまう。


 私は、すっかり彼に心を奪われてしまっていた。



 だから――


「やっぱり性別なんてどうでもいいわ」


 そう、はじめから私が間違っていたのだ。

 性別が邪魔をする、たしかにそういうこともある。いや、ほとんどはそうなのかもしれない。しかし、彼のような人間が存在することもまた事実である。

 彼との思い出は、私の宝だ。



 ――刹那、彼がソファから勢いよく飛び起きたかと思うと、すごい速さで私に近づいてきて、私の瞳を覗き込んできた。


 顔が近い。吐息がかかりそうな距離だ。

 私は少しはにかんだ。


 彼は猫背に目を丸くしながら私をまじまじと観察して、暫くそうした後、ゆっくりと首を縦に振った。


 そして、おもむろに立ち上がると、台所の方に歩いていった。

 そこでなにやらゴソゴソとひと仕切り漁ったかと思うと――


 右手に出刃包丁を握り、ゆっくりと私に近づいてきたのだ。


「な、なに」


 私は慌てて後退りした。彼は顔色ひとつ変えず、いつものように微笑んでいる。


「これで僕の胸を刺すんだ」


「え?」


「忘れたの? 負のセックスだよ」


 彼は今までで初めて、少しだけ不機嫌そうに顔を崩した。


「それの……どこがセックスなの?」


「君が刺して、僕がそれを受け止める。立派なセックスだよ」


「……」


「君は性別なんてどうでもいいと言った。それは君が僕を愛しているからだよ」


 それは――


「前戯は終わったんだ。僕らの愛は、世界を変えられる領域まで達したんだよ」


 わからない。


「そして、僕らがこの世界で最後の男と女――アダムとイヴの対になる存在だよ」


 わかりたくない。


「さあ、それで僕を刺すんだ。殺意ではなく、真に純粋な愛でね」


 わかってはいけない。わかるべきではない。ここで私が納得してしまったら――


「大丈夫だよ。すぐに一緒になれるさ」


 大丈夫なわけがない。離れたくない。


 私が魂を抜かれたように呆然と座り込んでいると、彼が私の右手にそれを握らせ、いつものように微笑んだ。

 彼の手はとても暖かかった。


 彼は両腕を大きく広げ、床の上に横たわった。


「さあ」


 彼は狂っている。

 ずっと前からわかっていた。

 なにかこう、人として重要な要素が欠如しているのだ。


 しかし、私はそんな彼のことをどうしようもなく好きになってしまった。

 彼とずっと一緒にいたい。永遠に結ばれて、無限に愛し合っていたい。

 愛して、愛して、心から愛している。



 ――ああそうか、私もとっくに狂っていたんだ。


 なぜなら、彼の身体はこの世界のものでしかない。


 世界は、生みたいときに命を与え、消したいときに命を奪う。


 彼がこの世界に居続ける限り、この世界が彼を独占し続ける。


 彼が私のものになることはない。


 私が彼のものになることもない。


 この世界にいる限り、私と彼は一生結ばれることはないのだから。



「――――――――――」


 私は、彼の胸をめがけてそれを突き刺した。


「ああっ」


 そして、すぐに抜く。また刺す。抜く。刺す。抜く。刺す。


「あっ……ああっ……んっああっ……」


 刺して抜く度に、彼の胸から赤黒い愛液が滲み出る。

 彼は恍惚とした表情を浮かべている。


 ああ、やはりこれはセックスなのだ。私は一心不乱に彼を犯し続けた。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 思ったより……やる方も……疲れるんだ……



「――あっっ、ああっ! あっあっああぁあああぁ!!」


 彼はいった 。



 

 私は玄関から転げ落ちるように飛び出し、裸足のまま大通りまで駆けた。

 そして、通りすがりの人をじっと観察した。


 ――ない。#$がない。

 髪は短く、喉仏がない。◯は肉付きがよく、◇は胸の膨らみがあるはずだ。そういうものが全然ない。

 余計なものがすべて削ぎ落とされた、平らな人間しかいない。


 道端に咲く花々も、何かが違う。デザインがシンプルすぎるのだ。

 もっとなにか、花火のような激しさが花びらの中に包まれていたような気がする。


 見たこともない異様な光景の数々に、私は息を呑んだ。


 元々は当たり前に存在していた重要な何かが、誰かの手によって恣意的に書き換えられている――そんな感覚だ。

 そして、みんなはそのことに気付いていない。当たり前の日常を、当たり前に歩いている。

 この世界で唯一、私だけがその犯人を知っている――



「すみません」


 私は通りすがりの◇#に声を掛けた。


「失礼ですが、あなたの#$を教えて下さい」


 通りすがりの◇#は、不思議そうに首を傾げた。

 少しだけ考える素振りを見せた後、申し訳なさそうな顔で私に尋ねてきた。



「#$ってなんだい?」


 世界は、確実に滅んでいた。


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壊性記 みやま @miyama25

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