魔術師は魔法を使えない。
くもりぞら
僕と夢と母と
僕は何を見ている。
雲がいくつかあるぐらいの晴れた空。地面を隠すぐらいに咲き乱れている黄色い花。そして一人の女性。
灰を被った赤い薔薇ような長髪は風に揺れ、瞼はこの絶景を前にしても静かに閉じられている。
頭がボーっとしている。だがそのことが今、僕が置かれている状況の確信を持たせる──僕は夢を見ている。
明晰夢というものなのだろう……でなければこんな美女に膝枕されながら、頭を撫でられているわけがない。
「……落ち着く」
言葉は自然と吐露していた。
僕の目が開いたことに気づくと彼女は表情を緩めた。
(──ッ!)
人間離れした容姿から見せられるその笑みに否が応でも魅了されてしまう。
「ゆきと」
ゆきと──僕の名前だ。なぜ彼女が僕の名前を知っているかなんて疑問は二の次だった。
それぐらい……
「ゆきと」
なんだか彼女に名前を呼ばれると……
「ゆきと」
心が暖かくて、暖かくて。
どうしてこんなに彼女のことが懐かしいんだ。なんで僕は彼女のことを知っているんだ。
「あなたは──」
「ゆき──」
僕は再び目を開く。
意識はさっきよりはっきりしている。一番に目に入るのは晴れた空ではなくただの天井。周りにあるのは花ではなく小説が並んでいる本棚。夢との共通点といえば女性に膝枕されているということだろう。
しかし今回は灰被りの赤ではなく深紅という感じの髪色だった。
「おはよう。ゆきと君」
「ん……おはよう」
寝ぼけ眼を擦りつつベッドから上体を起こす。アイドルと紹介されても違和感なく信じてしまうであろう端正な顔立ち、それを否定するようにシャツの胸部が程よいふくらみを深い色のエプロンで隠している。彼女──
「……って、母さん!? なんでいるの!!」
「なんでと言われても……分からないかい? 君を起こしに来んだよ」
「じゃあ、なんで僕の頭が母さんの膝の上にあるの!」
「なんでだろうね」
彼女は基本的に完璧な人だ。少年が生まれて早くに亡くなった父と共に営んでいた下の花屋で長年働き、この歳まで少年を女手一つで育ててくれた。この世界で少年が最も尊敬している人。
(この一面さえなければ……)
「もう高校生だから膝枕はやめてって言ったよね!? しかも昨日!!」
「そうだったかな?」
「そうだよ!!」
少しニヤリとイタズラな表情を浮かべる確信犯。そう少年が悩む一面とは──彼女が少年のことを好きすぎるところだ。
そのレベルはというと未だに「お風呂一緒に入ろうか」などと言い出している始末。さらにそれをきっぱり断ると露骨にガッカリしたりもする。
残念
「母さん! 何度も言ってるけど──」
「お怒りのところ悪いけど大切なことを忘れてないかい? 私は君を
彼女は目線を少年から外し、ゆっくり右上を持っていく。それにつられて少年も目線を右上、時計のある場所を見る。針が指す数字は8と4。4時40分なら全く問題ないのだが、現実はそんなに甘くない。8時20分──学校の始業時間まで残り10分である。
「えぇえええええええええええええええ!?す、すぐ行かなきゃ!! 遅刻するっ!?」
「待って。ゆきと君」
急ごうとする少年を一瞬で制止した彼女はなぜか満足気に胸を張っている。
「自分の格好を見てごらん」
「見てってそんなよゆ…う……」
(えっ……。なんで制服着てるの?)
言われた通り自分の格好を見てみると後で着ようと思っていた制服を既に身にまとっていた。
「ゆきと君をより長く膝枕していたかったからね。既に君の朝食以外の準備は全て終えているよ」
彼女から学校用のカバンを手渡される。遅刻しそうだというのに彼は非常にゆっくりとカバンを開ける。その中身は案の定、完璧に、ひとつも欠けることなく、用意がセットされていた。
近くにある鏡で自分の顔を垣間見る。そこには寝癖のひとつもない綺麗に整えられたとても淡い赤色の髪があった。
口の中も心無しか爽やかな気が……。
「───」
「まぁ……それでも急がなければならないのは変わらない。お腹が空いているなら、キッチンにある特製ハニートーストを食べて行くといい。一口サイズに切ってあるから食べやすいよ」
全ての行動がさも当然のように語る彼女を見て、軽く恐怖を覚えていた。
「母さん。怖い……」
「えぇっ!!」
銃にでも撃たれたかのように倒れ込み、ベッドの上で延びてしまっている。最近よく見るようになった、彼女が一番ショックを受けた時の状態だ。
これを見るとどこからか罪悪感なんてものが湧いてきてしまう。
「……けど、ありがとう」
「ゆきとくーーーん」
息を吹き返した。ついでに抱きしめに来た。
「母さん! 急ぐから離してよ!」
「じゃあもう行くね」
お店の裏口前で自転車に跨る。いつもは徒歩なのだが残り時間6分と少し、余裕を噛ましている暇はない。
「ちょっと待った」
本日二度目の制止が入る。
裏口の扉が開き、彼女が出てくる。その手にはなにか握られていた。
「ゆきと君。ほら
そう渡されたのは指輪にチェーンがついたネックレス。少し頼りない見た目の少年には全く相応しくない、少年が最も大切にしているもの。
「急いでで忘れるところだった」
「油断した。私が全てと言っておきながら、気が緩んでいたみたいだ。今後こんなことがないようにするから、許してくれ。ゆきと君」
とても大袈裟に謝られる。
しかし、彼女の中ではそうでも無いらしい。ひと目で後悔の念が見て取れる程に今の表情は曇っている……。
(母さんってこんな完璧主義だったかな?)
「別に気にしてないよ。結局のところ、こんな時間まで寝過ごしたぼくが悪いから」
「……そうか」
若干の気まずさが二人の間を漂う。しかし、遅刻しそうという大義名分があるおかげで僕はその空気を長く味合わずに済んだ。
「それじゃ行ってくるね」
「あぁ、行ってらっしゃい!」
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