第9話 暗黒吸引力 SIDE B

「それでやなぁ、お前に頼みたいことがあんねん……」

 そこまで言ったときには、もう俺は元の暗黒部屋に戻されていた。

 彩子の意識が他の何かに集中すると、強烈な力で引き戻されるらしい。

 自分の意志ではどうにもならない。

 

「面倒な女に取り込まれてもうたなぁ」


 昨夜、自分がもう完全に死んだ、と分かってから、そのまま何時間も俺はあの場にいた。

 通行人は何人もいたが、俺は刺された後、路地に引き込まれたから、誰も死体には気づかなかった。


 直後は、すぐ俺を刺した奴の後を追いかけようと思ったが、俺の意識は死体から離れられなかった。

 綱のついた犬のように、もう一人の自分が、遺体の自分の側をグルグルと回り続けることしか事しかできない。

「こういうのは死んで初めて分かるもんやな」

 変な実感が湧いて来た。

 俺が今まで殺して来た奴らも、こうやってずっと死体の側に立って、俺の事を見ていたんだと思うと、手くらいその場で合わせておけば良かったと後悔した。

 体を失って魂だけになり、この先の事が何も分からなくて、何も出来ない、文字通りの絶望感。 

 散々今まで修羅場は経験して来たつもりだ。ぐるぐる巻きにされて、車のトランクに放り込まれてもう少しで海に捨てられそうになった時も、不安より怒りの方が強く、心が折れることはなかった。

 今は違う。もう何も出来ない事への底なしの虚無感と脱力。

 何時間もこうしているうちに、だんだんと意識が薄れていって、そのまま消えていくように思えて来た。


 そんな時に、あの女が通りかかった。

 とにかく、その女の周りだけすごく真っ暗で、周りの空間からへこんでいるような感じがした。

 女が近づいて来るにつれて、強烈な勢いで俺は引っ張られ、今まで一切動けなかった足元も引、きちぎられるように一気に女の中に吸い込まれていった。

 何が起こったか分からないまま、突然寒く暗い狭い部屋に無理やり押し込められた。

 死体から離れられたのは良いが、全然自由が利かない。

 自分を殺した相手を見つけて八つ裂きにしてやりたい、暴れまわってこの落とし前を付けさせてやりたい。

 でもその前に、無性に親分に会いたい、病院の親にも会いたい、大阪の女が浮気してないかも調べたい。俺しか知らない隠し口座や、秘密にしているシノギが沢山ある。思い残す事しかない。

 狭い部屋から何とか出ようと壁を思いっきり殴ったりけったりしたが、ビクともしない力で押さえつけられている。


「俺を取り込んだこの女、死神なのか」

 

 その後しばらく、全く動けなくなり閉じ込められた闇の中でうずくまっていた。何時間かたった頃、急に周りが明るくなり、また強引な力で外に引っ張りだされた。

 気が付くと俺は、見知らぬ女の部屋に立っていた。

 訳が分からない俺を引きずり出した女は、話も聞かず騒ぐだけ騒ぎ、あげくに警察を呼んだ。

 俺はどこかに隠れようと動いた時、またうまい具合に自分から女の体に戻る事が出来た。

 女と警察のやり取りから、女は死神ではなく、銀行勤めの一人暮らしの独身28歳で、名前は奥田彩子という事が分かった。

 今まで見たことも聞いたことも接点も全くない。どうしてそんな女が、あんな力で俺を取り込んで抑えつけているのか、理由が分からない。死んでからもこんな悩むことがあるなんて、思いもしなかった。

 何時間たっても、眠くも、空腹にもならない。ただ女の心の中にある狭い部屋に閉じ込められている。

 その状態に少しづつ慣れて来た慣れて来た俺は、徐々に奥田彩子が見聞きするモノや感情まで伝わるようになってきた。

 朝6時に起きて、8時前に出勤。その間ずっと、彩子はイライラとし続けていた。通勤電車の超満員がその原因かと思ったが、銀行についてからはさらに心がささくれ立って行く。

 彩子の仕事はぺーペーの窓口業務。そこに来る年寄りの相手や、間違っている書類の細かい直しや、数字の間違いなどを短い時間で見抜き、同時にパソコンに送られてくる確認も同時に進めている。超細かい仕事を同時進行させている。どんどん彩子の心の中の温度がどんどん上がってくる。

 その上、前方からはロビーで待つ客から「早くしろ」とプレッシャーをかけられ、後ろからは仕事内容不明の偉そうなスーツ姿の男たちが見張っている。昼休みも外に出られない。自分自身で判断して行動するような要素が一切ない、これがサラリーマンのデスクワークというものか、自分には絶対向いていない。

 座っていれば毎月給料がもらえる楽な仕事と今まで甘く見ていたサラリーマンの実態に驚いた。


 2度目に呼び出されたときは、急に閉じ込められている狭小空間が揺れて、壁が歪み突然消えた。その後、真っ赤な炎が足元から湧き上がって来た。これは奥田彩子の怒りの感情だ。そしてその炎は荒れ狂う嵐のように吹き荒れ、俺の体を一気に押し出した。

 明るい世界に押し出されたと思ったら、窓口で半グレの男と言い合いになっていた。

 ありきたりの偽造保険証と、戸籍を買ったパスポートの詐欺で騙そうとするバカな手口。窓口業務はこんなやつの相手もしないといけないのかと同情した。

 くそ素人の手口をいちいちあげつらってやったら、それがそのまま女の言葉になり、女の体を乗っ取っとるような形で動けることが分かった。

「こういう事も出来るのか」俺はちょっと希望を感じた。

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