第6話 突然何かキタ

 男はカバンの中を探って、ヨレヨレの小さな紙を取り出した。

「あった、これで文句ないだろ」

 差し出したのは健康保険証だった。しかも紙で出来た。

 現在健康保険証は、ほぼカードに切り替わっているはずだが、まだ残っていたのか。

 彩子は保険証の名前と住所、生年月日をパスポートと見比べる。

「はやくしろボケ」さらに男は勝ち誇ったような顔になっていた。

「少々お待ちください」

 彩子は紙の保険証の確認などしたことがない。

 課長に確認してもらいたい、と振り返るが、席に戻って来たはずの、課長は今度は長電話をして彩子に背を向けている。普段なら窓口の効率の悪さに文句を言うために、細かく見ているはずがこういうトラブルがあると逃げる癖がある。

 ふざけやがって、彩子は客と課長両方にイライラしてきた。

「お客様、ちょっとこの保険証は確認種類としては不適当でして、やはり他の証明書を……」

 彩子は機械的に客に言った。

「ふざけんな!」男はカウンターを両手で叩いた。「どうしてダメなんだ。ここに書いてあるだろう。客を馬鹿にしてるな!」乱暴な口調で男はまくし立てた。

 行内にいた一般客も皆何事かとこちらを見た。隣のカウンターにいた、常連の不動産屋の八代さんも、彩子に目線を送って首を振っている。地元で長年切った張ったしているから、男のタチの悪さを感じているのだろう。

 気まずい空気も関係なく、男は一歩も引かない。

 ここはまぁ、一応パスポートと健康保険証はあるのだから、口座を作っても一応ルールに沿ったことにはなる。

 仕方ないなぁ、と彩子が折れそうになった。

 その様子を弱気と感じたのか、「お前みたいなペーペーに話しても無駄だ、店長だせ」男はさらに調子に乗って脅して来た。

 あぁ、本当むかつくこいつ。

 ムカムカした怒りが湧き上がってきた。

 一瞬、彩子の目の前が真っ暗になった。

「断れ、これはやばい金だ」

 頭の中で突然声がした。

 背中に寒気と全身の力が抜けた。

 彩子の体はダラリと椅子の背もたれにもたれかかるようになり、頭は前にダラリとなった。

 次に電流が走ったような感覚があり、彩子は立ち上がった。自分の意志とは関係なく。

「おい、お前な、いい気になんなよ」

 彩子の口から突然、関西弁が出た。

「分かってんねんぞ、この保険証偽造やろ、今時、こんな紙の保険証使って口座開けるわけないやろ、いつの時代の詐欺や、えぇ」

 まくし立てる彩子の口調に、男はあっけにとられた。

 それ以上に、行内にいる全員が彩子の豹変に驚いた。

「……なんだと」男は気後れしながらも言い返す。「客に向かってなんて事を言うんだ、テレビ局に訴えるぞ」

「客、お前なんか銀行の客やない。こっちこそお断りや、テレビ局でも新聞でも勝手に行きさらせ」

 意識の中で彩子は言葉を止めようとするが、言うことを聞かない。止められない。

 彩子は操り人形のように、カウンターの上のパスポートを手に取ると振りかざした。「あと、このパスポートも偽造やろ」

 男は顔を真っ赤にしている。

「てめー……ふざけんな」

「ここ見てみ、発行日付が今週、できたてのホヤホヤやないか。どうせホームレスの戸籍とか使って作ってんやろうけど、日付でバレるんや。お前のケツモチはあほやの」

 指摘が図星であったと見えて、男は狼狽えながら口ごもっている

「これを、刑事に問い合わせとけ」

 そう彩子は言うと、パスポートを後ろの席で呆然とする由奈に投げつけた。

「ふ、ふざけんな、お、お前んとこは、客を犯罪者に、す、すんのか」

 男は怒りで大声を出したが、言葉がどもり始めた。

 客も行員も彩子と男を交互に見ている。

「犯罪者かどうか確かめようやないか、おっお前、確認取れるまで、そこで待っとれ」

 彩子は待合ソファーに指さした。

 ずっと見ていた一般客は、完全に追い込まれた男の出方を見た。

 男は立ちすくんでいた。

「ふざけんな……何なんだお前……ちくしょう」と捨てゼリフを言うと、置いていた現金をカバン放り込み、素早く店を出ていった。

 行内が静まり返った。

 皆な一体何が起こったのか良くわからなかったみたいだ。 

 彩子はまた全身脱力した。目の前が暗くなった。

 バタンと椅子に座り込み、背もたれに寄っかかった。

 

 突然、拍手が聞こえた。隣のカウンターにいた不動産屋の八代さんだ。 

「すごいよ、奥田さん、あんた度胸あるよ」

 その声に合わせるように、銀行内のお客さんが一斉に拍手した。

「見事」「すごい」「よくやった」

 口々に褒め称え始めた。

「先輩ありがとうございます」

 由奈が泣きそうな顔をして何度もお礼をしている。

「奥田さんマジすごいわ。尊敬」休憩から戻った亜香里も目を丸くしている。


 皆が注目する肝心の彩子は、椅子にもたれ掛かっかったまま、今自分に起こったことが現実とは思えなかった。

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