死花外伝-初恋-〜相原藤司〜

市丸あや

初恋

…それは、偶然やった。


偶然、いつもと違う道通って学校向かう途中やった。


長屋の窓辺で、布団干しとったキレイな女の人に、ワシは…心奪われた…



「相原君!相原君てばっ!!」


「!」


名前を呼ばれて、窓の外を見ていた彼…相原は瞬く。


声のした方を見つめると、クラス委員長の桶本(おけもと)がいた。


「なんね委員長。そないがならんでも、聞こえとるわ。」


「じゃあ、さっさと進路調査票…出してよ。相原君だけよ?もう出してないの。先生に早くしろって言われるの私なんだから、迷惑なの!早く!!」


「進路調査…なぁ〜」


呟き、机の中でくしゃくしゃになっていたそれを見つめる。


「高校2年の冬なのよ。隣のクラスの楢山さんなんて、もう大学入ってからの勉強までしてるのよ?そんなに悠長に構えてて良い時期じゃないのよ?相原君、楢山さんと1、2を争う学年トップじゃない。なにをそんなに迷ってるのよ…」


「別にぃ?こないなつまらん世界の成績なんて、社会出ても何も役立たんわ。せやったら、もっと楽しことして、短い10代、謳歌したいわ。」


言って、相原は席を立ち、カバンを取って教室を後にする。


「ちょっ、相原君!まだ授業…」


「腹痛いから早退。進路調査は、明日まで待っとって。ほな。」


「相原君!!」


止める桶本を振り切り、相原は教室を後にする。


「また相原早退?最近多いよね。午後のこの時間。」


「余裕だよなぁ。あれで生徒会長の楢山と並ぶ学年首位クラスだぜ?羨ましいったらありゃしない。」


「先生達も相原には甘いし、やっぱ頭良い奴は特別扱いかよ。面白くねーの。」


「委員長、たまにはビシッと言ってやってくれよー。」


「あ…うん…」


クラスメイト達の言葉に頷きながら、桶本は手にしていた進路調査票を、キュッと握り締めた。



「つまらん日常や…せやけど…この時間だけは、特別や。」


バスを降り、駅前の商店街に真っ直ぐ向かうと、直ぐそこの八百屋の前で彼女の姿を見つけたので、相原は頬を上気させ駆け寄る。


「絢音さん!!」


「あら、藤司(とうじ)君じゃない。こんにちは。もう学校終わる時間?」


「うん!試験期間やから、早いねん。今日もすごい荷物やね。持つわ!!」


「良いわよ!軽いものじゃないんだから…」


「遠慮しなや!ワシらの仲やろ?ほら、貸して!!」


言って、相原…藤司は絢音から荷物を引ったくり、両手に抱える。


毎日、彼女…絢音を初めてみた長屋辺りをウロウロして掴んだ情報。

3日に一回の割合で、15時頃になると、彼女が商店街に買い物に行く事を知った藤司は、偶然を装い、絢音に接触。


以来、様々な理由をつけてはこの時間に商店街へ行き、憧れの…初めて好きと思えた彼女に、会いに行っていた。


「絢音さんて、ホンマに料理好きなんやな。得意料理とか、あらへんの?」


商店街からの帰り道。


荷物の中身が殆ど食材だったので聞いてみると、絢音は首を傾げ思案した後応える。


「そうね…強いて言うなら、唐揚げかしら。よく食べてくれるから。」


「へぇ。唐揚げ。ええなぁ〜。ワシのウチ父子家庭やさかい、飯いつもコンビニやから、手作りとか、めっちゃ憧れる。」


「まあそうなの?お母様は?」


問う絢音に、藤司は複雑そうに笑う。


「4年前に、ひき逃げに合うて、死んでしまいました。せやけど、担当してくれた刑事さんや…誰やったかな。その上の人が、裁判でしっかり働いてくれて、相応の償いしてもろたから、ワシも親父も、その人に感謝しとんや。」


「そうなの…ごめんなさいね。辛いこと聞いちゃって…」


「ええんや。さっきも言うたけど、裁判で偉い人が、しっかり罪認めて反省せいて、キツう言うてくれて、徹底的に追求してもらったから、ホンマに、すっきりしたんや。ケンサツカン?やったかな?その人。ワシもあーゆー仕事したい思てんけど、なり方とか、よう分からんし…」


「あら…それって検察官?それなら丁度、ウチに良いものあるわよ?」


「えっ!?」


瞬く藤司に、絢音はニコリと笑ってみせる。


「荷物持ってくれたお礼、ウチいらっしゃい。見せてあげる。」


「う、うん…」


何故彼女が…そんな疑問を抱きながらも、初めて絢音の家に上がれると言う嬉しさが勝り、彼女と肩を並べて、家路についた。



「わあ…」


押し入れの本棚にびっしり詰められた、法律関係や刑法、民法、はたまた洋書の論文書など、様々な専門書に、藤司は感嘆の声を上げる。


「確かこの辺の棚に………あった!!」


「?」


不思議そうに小首をひねる藤司に、絢音は古ぼけて付箋まみれの一冊の本を、彼の前に示す。


「検察官のなり方?」


「うん。もう20年以上前のものだから、参考になるかは分からないけど…私のものじゃないからあげれないから、ここでゆっくり、読んでみて良いわよ?」


「う、うん…」


「本棚の本も、元の位置に返してくれれば、自由に読んでいいからね。今、お茶淹れるから…」


言って、絢音は藤司を見やると、彼は既に本の世界に入っており、その顔に愛しいもう1人のトウジを重ねて、小さく笑って、台所に向かった。



「………色々調べてみたけど、大学行って司法試験?これ受けるんが一番近道か…確か楢山も、そないな名前の試験、大学行ったら受ける言うてたし、ちょお、聞いてみようかな…試験内容とか、気になるし…大学も、アイツ確かK大推薦言うてたな。ワシの成績でも狙えるはずやし、先生にも聞いてみるか…」


呟き、壁掛け時計を見ると、既に18時を回っており、部屋中に香ばしい匂いが立ち込めていて、藤司の腹が僅かに鳴る。


「あら。終わった?随分熱心だったわね。どう?なれそう?」


新しいお茶どうぞと湯呑みを渡されたので、それを啜りながら、藤司は口を開く。


「うん。いけそう。本棚の法律の本も、なんとなく分かるし…隣のクラスに、多分やけど、おんなじ試験受けよう言う娘がおるみたいやから、聞いてみる!」


「そう。良かった。頑張ってね。応援する。」


そう言ってにっこり花のように笑う絢音に、藤司はドキドキと胸を高鳴らせる。


「あの…絢音さんて、彼氏とか、いるん?」


「えっ?!」


瞬く絢音に、藤司はグッと迫る。


「ワシ…司法試験受けて検察官なる!せやから、それ叶ったら、結婚…」


「ただーいまー」


「!!」


不意に玄関から聞こえた男性の声に、2人は瞬く。


すぐさま絢音は立ち上がり、玄関へと向かう。


「ワシ…今、何言って…」


バクバクと心臓を高鳴らせながら、赤い顔して俯いていると、絢音と、先程の声の主が揃って居間にやってくる。


「あ……」


その顔を見た瞬間、藤司は目を見開く。


目の前に居た男性は、4年前、母親のひき逃げ事件で加害者を徹底的に追求していた、自分が検察官になろうと先程決意した…まさにその人だった。


「なんや。可愛いお客て…男かい…」


渋い顔で自分を見下ろす藤次。やや待って、彼は絢音を見やる。


「お前…ワシの留守にこんな若い男家に連れ込んで、ナニする気ぃやってん。なぁ?」


言って、彼女の肩に気安く手を回すので、藤司はカッとなる。


「なんやねんオッサン!!いきなり上がり込んできて、ワシの絢音さんに、気安触んな!!」


「あぁ?誰が、誰のものやて?大体…ここはワシの家や!お前が出て行けこのクソガキ!!」


「ウソつくなやアホ!!ここは絢音さんちや!!ワシ、もう家帰らん!ここで絢音さんと暮らすんや!!せやから、出てけ!!」


叫んで、藤次から絢音を引き離すと、戸惑う彼女の手を握りしめ、藤司は声を上げる。


「絢音さん!!好きや!!ワシ…いや、僕と、結婚して下さい!!僕、絶対検察官なります!!せやから…」


「アホか!!日本は重婚は犯罪や!!法律家目指しとんなら、そんくらい知っとけ!!こんのドシロウト!!」


「えっ……」


藤次にがなられ、藤司はハッとなり、今まで気にも留めてなかった彼女の指を見ると、左手の薬指には…結婚指輪が嵌められていた…


ふと、自分を渋い顔で見ている藤次の、組まれた腕の左手薬指を見ると、同じデザインの指輪があり、藤司は顔を歪める。


「あ………」


ポロポロと涙が溢れて来た藤司を、絢音は困ったように笑いながらも、優しく抱き締める。


「ありがとう。小さい藤司さん。気持ち、とっても嬉しかった。でも、私…こっちにいる大きい藤次さんが、好きなの。だから、あなたの結婚して欲しいって夢は叶えてあげられないけど、もう一つの夢なら、応援するわ…」


「えっ?」


瞬く藤司の涙を拭ってやりながら、絢音は隣でギリギリと歯軋りしながら、必死に怒りを堪えている藤次を見やる。


「藤次さん。しばらく定時なんでしょ?なら、この子に検察官のなり方…勉強教えてあげて?」


「えっ?」


「はあ?!」


唐突な申し出に瞬く2人のトウジに、絢音はニコリと微笑み、胸の前で手を合わせる。


「同じ名前なのも、こうして出会ったのも、きっと何かの縁よ。藤司君が大学入る一年と少しの間で良いわ。受験と法律の勉強…見てあげて?ね?私、ご飯腕振うから。藤司君だって、現役の検察官の話…聞きたいでしょ?」


「せやけど…」


「お願いします!!」


「!!」


勢いよく頭を下げる藤司に、藤次は瞬く。


「もう、忘れてしもてるかもしれませんが、僕…4年前にあなたに助けられたモンです!!あなたみたいになりたいんです!!せやから、お願いします!!」


深く深く頭を下げて懇願する藤司に、藤次は複雑そうに頭をガリガリと掻いた後、大きく息を吐き、口を開く。


「…最新の全国模試の順位、ちゅうか偏差値、なんぼ?あと、志望大は?」


「え?…確か、全国3位で関西圏でも2位。偏差値は、75〜80くらい。隣のクラスの…司法試験受けよういう子が、K大学言うてたから、そこ目指そうかなて…」


「確か高2やったな。11月か…まあ、受験なんてコツやし、3年までその偏差値キープできるんなら、ワシが入った…も一つ上のD大の法学部行けるやろけど、まあ、余裕持たせてK大でもええか。その分、司法試験の対策した方が効率的やろ。尤も、ワシ受けたんもう20年以上前やから、対策の仕方も変わっとるやろから、ワシも少し勉強せなあかんけど、まあ…ええか…」


言って、藤次は真剣な眼差しで藤司を見据える。


「生半可な決意で就ける職やないで?他人の一生左右する仕事や。日付け跨ぐような残業も山とあるし、休日かてない日もある。足棒にして歩いて証拠集めたり、裁いた被告人に逆恨みされることかてある。それでも、目指すんか?」


「はい!」


「司法試験通って、司法修習生なっても、適性ない言われたら就けん。ましてや公務員は狭き門や。なれたらなれたで、初年度は転勤が付き纏い、プライベートなんてないに等しい…それでも、目指すんか?」


「はい!絶対、なって見せます!!」


その言葉に、藤次はまたも大きく息を吐き、押し入れの本棚から、何冊か本を取り出し彼に渡す。


「取り敢えず、これ全部読んで、自分なりの考察と見解纏めたレポート書いてき。枚数は何枚でもかまへん。あと、お前の家行って、ご両親に夜遅くなることに対して、説明と挨拶するさかい、都合良い日教えて。絢音も、それでええな?」


「うん…ありがとう。藤次さん…」


「ありがとうございます!!ワシ、絶対検察官、なってみせます!!」



そうして、2人のトウジの戦いは始まった。


毎日学校を終えると、藤司は絢音の待つ家に向かい、藤次が帰って来るまで自主学習をして過ごし、彼が帰ってくると、3人で食卓を囲んだあと、受験と法律学を学び、日付けが変わる前に帰宅する。


そんな毎日を過ごして、メキメキと成績を上げていき、模試でも志望大の判定Aをもらえるようになり、学内試験でもトップを取れるようになり、迎えたセンター試験前日。


「えっ…?」


「せやから、センター試験の間、ワシ他んとこ泊まるから、絢音と2人きりで、ここで夜過ごして、ここから試験会場行き。」


「けど…」


激励にと作られたカツ丼を頬張る藤次の口から出た意外な言葉に戸惑っていると、彼は茶を啜り、複雑そうに笑う。


「そりゃあ、ワシかてホンマは嫌や。せやけどこの一年と少し、お前ホンマによう頑張った。せやから、同じ女に惚れた、同じ名前の男からの、せめてもの餞や。親御さんにも絢音にも、話通してる。せやから、少しの間だけやけど、絢音と甘い時間過ごし。そんで、必ず合格…取って来い。ええな?」


「は、はい…」



「…………」


夜。


受験に必要なものと着替えを、2階の文机の上に置いて、藤司は後ろのダブルベッドに目を向けて、ドキドキと胸を高鳴らせていると、トントンと階段を登る音がして、襖が開き、絢音がやってくる。


「準備…できた?」


「あ、はい…」


「そ。」


短く呟き、2人でベッドに向かい合わせで座ると、絢音はそっと彼の手に何かを握らせる。


不思議に思い手の平を開くと、合格と手縫された、小さな黒のお守り。


「藤次さんの、着なくなったスーツの端切れで作ったの。ご利益あると思うわよ?明日は、あなたの大好きな甘めの卵焼き、朝ごはんで出すわね。お弁当は、リクエストある?」


「あ…じゃあ、あれ…得意料理って言ってた、唐揚げ…」


「分かった。朝早く起きて、揚げたて入れて持たせてあげる。他には?何かして欲しいこと、ある?…さすがにセックスは、藤次さん裏切りたくないから無理だけど、それ以外なら…言って?」


「わこてます。絢音さんが、藤次さんホンマに好きやってこと、ようわこてますから、ワシもそないな事、よう言わしません。せやけど、一個だけ…わがまんま聞いてください。」


「うん。なあに?」


優しく見つめる彼女に、藤司はキュッと、パジャマの裾を握りしめて、ゆっくり口を開く。


「ワシ…いや、僕のファーストキス…もらって下さい。」


「いいの?こんなオバさんが最初で?」


「ええです。こんな気持ちになったのも、検察官目指そう思たんも…僕の退屈な人生変えてくれたんは、絢音さんです。ホンマに、好きなんです。今でも。せやけど、合格したら、もう、会えへん。諦めなあかん。せやったら、一個でもええんです。あなたを好きやった言う思い出…僕に下さい。」


「……分かった。じゃあ、2人きりで過ごす間は、おはようといってらっしゃいとただいまとおやすみのキス、しましょ?じゃあ、ちょっと待っててね?折角の最初だから、お化粧して、ちゃんとしてくるから…」


「ハイ…」


そう言って寝室を出て行く絢音の小さな背中を見送ると、この一年と少しの時間が一気に脳裏に去来して、藤司の頬に涙が伝う。


初めて好きになって人には、既に好きな人がいて、その人は、自分の仇を討ってくれた人だった。


藤次の教えは、決して優しいものではなく、課せられた課題は難物ばかりで、何度も挫けそうになったが、その度に支えてくれたのは、絢音の笑顔だった。


「(あなたを本気で検察官にしたいからなのよ。)」


「(あなた帰った後、藤次さん褒めてたわよ。)」


「(少し息抜きしたら?肩揉んであげる。)」


「なんで、もっと早よう、出会えんかったんや。何でもっと、早よう…生まれられんかったんや…」


…違う。


そんな陳腐な後悔じゃない。


「(藤次さん…)」


3人でいる時間の中で、絢音がどれだけ、藤次を愛しているか、痛いくらい思い知らされて、自分が一目惚れしたあの幸せそうな顔は、藤次がさせているのだと知った今、彼に敵うはずがないと思う反面、寧ろ、藤次を好きでいる彼女を、自分は好きになったのだと知り、2人を引き離してまで、絢音にそばにいて欲しいと思う気持ちは、最早なくなっていた。


センター試験の模擬試験も、充分な余裕で合格ライン。余程のことがない限り、大学合格は確約されている。


だから藤次も、こんな…気持ちを整理する時間を、くれたのだろう。


「最初から、ワシあの人の、敵ですらなかったんやな…」


そうして苦笑していると、襖が開き、綺麗に髪を整えて、薄化粧だが色っぽい紅の引かれた唇が印象的な、寒牡丹の柄の浴衣を着た…今まで見たこともない、美しい絢音が現れたので、藤司は顔を真っ赤に染める。


これが、自分の初恋の女(ひと)…


心臓がバクバクと高鳴って、苦しくて、切なくて、彼女に誘われて一つのベッドに横になって布団を被り、見つめ合っている内に、ゆっくりと絢音が目を閉じたので、初めて触れる彼女の小さな身体を抱きしめて、ありったけの想いを告げる。


「好きです…」


「うん。私も、好きよ……藤司…」


「!」


初めて名前を呼び捨てされ、好きと言ってくれた…


込み上げてくる愛しさに身体を震わせながら、そっと…震える唇を彼女の唇に押し当てると、涙の味がして、一層胸が苦しくて、涙が出てきて、嗚咽を殺して泣いていると、ゆっくりと甘い梅の香りと共に、絢音の手が両手の頬に触れて、先程の…唇を押し付けただけのキスとは違う、うっとりするような甘いキスをされ、藤司は目を見開く。


「絢音さん…」


ただただ呆然とする藤司に、絢音はにこりと微笑む。


「上手にできたじゃない。キス…」


「いや。ワシは…」


否定しようとした唇を指で押さえられ、絢音はまた微笑む。


「さっきのが、ファーストキス。あなたがしたの。ね?そうでしょう?」


「……ッ!!」


ギュッと、抱き締める腕に力がこもり、声を上げて自分の胸で泣く藤司の頭を優しく撫でながら、絢音はゆっくりと言葉を紡ぐ。


「大丈夫…大丈夫…あなたも、いつかきっと、巡り会えるから。生涯かけて、愛する人が。そうしたら、一番に教えてね?私…待ってるから。約束…」


「ハイ…」


そうして、もう一度キスをして、藤司は絢音に抱かれたまま、幸せな眠りに落ちていった。



「ハイ。これで、準備OKね。受験票は?」


「うん。持った。ありがとう…」


朝。


玄関先で絢音に制服のブレザーのネクタイを整えてもらい、藤司は赤い目をしながらも頷く。


「じゃあ、約束ね。いってらっしゃいのキス、しましょ?」


「うん…」


そうして肩を抱き、ゆっくりと顔を近づけて、昨日の絢音のやり方を思い出しながら、優しく唇を重ねる。


「頑張ってね…お夕飯、リクエストあったら、15時までにメール頂戴。」


「うん…ほな、いってくる…」


「うん。いってらっしゃい…」


そうして見送らせて、長屋を後にすると、路地の出口で、待っていた藤次に出くわす。


「あっ…」


「なんやねん。しみったれた顔して。大一番やろ?しゃんとせぇ!」


バンと背中を叩かれて瞬いていると、藤次は鞄から一冊のノートを取り出す。


「?」


「ダメ押しの一冊や。今年のセンター入試…ワシなりに分析して、出題の傾向と内容、整理してみた。あんじょう気張りや。あと、絢音…大事にしたってな。今は、今だけは、お前がアイツの、亭主や。」


「あ、ありがとう…ございます…」


「別に。礼なんていらん。敵に塩を送っただけや。…ここまで手厚う送ったんは、お前が初めてや。落ちたりしたら、張っ倒すだけじゃ済まんからな?覚悟せぇよ?」


「はい!」


「ん。ほんなら、早よ行き。遅刻すんで。」


「はい!ありがとうございます!!行ってきます!!」


そうして藤次に見送らせて、藤司は最寄りのバス停からバスに乗り、試験会場へと向かう。


車内で、絢音のくれたお守りを握りしめて、藤次のくれたノートを開き、最後の追い込みをしていると、桶本が近くにやってくる。


「おはよう。」


「なんや。委員長もこのバスやったんかい。」


「うん。って言うか、相原君ち、この辺りじゃないでしょ?なんで、さっきのバス停から乗ってきたの?」


「別に。委員長には、関係あらへんにゃろ?」


「そりゃ、そうだけど…ねぇ、何で急に、検察官なんて言い出したの?…楢山さんが、目指してるから?最近、よく話してるし…付き合ってるの?」


「んなわけあるかい。そんな余裕ないわ。志望大が一緒やから、傾向と対策、聞いとっただけや。それに、何遍も言わすな。委員長には…関係ないやろ。」


「なによ…」


「ん?」


声が震えていたから横を見やると、顔を真っ赤にして涙目の桶本がいた。


「い、委員長…?」


「もう、知らないっ!」


瞬く藤司に、キュッと踵を返してバスの奥に去って行く桶本を見つめる。


あの顔は、自分が絢音を思って涙を流す様と、同じではないか…


なら…


「まさか…な。」


呟いた瞬間、試験会場に通じる最寄りのバス停がコールされたので、藤司は停車ボタンを押した。



「た、ただいま…」


1日目を終えて、ドギマギしながら玄関の引き戸を開けて声を上げると、パタパタと足音がして、絢音が出迎えてくれる。


「おかえりなさい。お疲れ様。」


「うん…」


「鞄とコート貸して?お夕飯まで時間あるけど、オヤツにする?お昼に急に食べたくなってホットケーキ焼いたんだけど、その余り温めましょうか?それとも、息抜きに散歩にでも行く?」


「あ…あの…」


「ん?」


不思議そうに自分を見つめる絢音に、藤司はポツリと呟く。


「先に…ただいまのキス、したい。」


その言葉に、絢音は困ったように笑う。


「いやあね。甘えん坊さん。そんなに寂しかったの?」


「そんな……子供扱いせんでくれ!!ワシは今、お前の亭主や!亭主がしたい思うんは、当たり前やろ!?早よ!して!」


そう言って詰め寄ってくるので、絢音はまた笑って、彼のネクタイを引いて屈ませると、チュッと、音を立ててキスをする。


「…これで良い?あなた?」


「うん。ええ…」


「そ。なら、この後どうするの?散歩?オヤツ?それとも勉強?」


「腹減ったから、オヤツ。あと、疲れたから、肩…叩いて。あと、できればでええんやけど、膝枕…して欲しい…」


「…分かったわ。じゃあ、お家でゆっくりしましょうね。できる限りのこと、してあげる。夫だものね。」


「うん。ワシは夫で、お前は、ワシの…妻や。」


…飯事でも良い。


今この瞬間、自分は絢音の夫で、絢音は、自分の妻。


明日で終わる、儚い飯事だが、それでも良い。


今だけ、今だけ、そう心に言い聞かせ、藤司は絢音との切ないくらいの甘い時間に、身を委ねた。



「おかわり!」


「ちょっと食べすぎだよ藤次。ウチの米食い尽くす気?」


「喧しいわ。さっさと寄越せ!!」


「もー」


夜。京都郊外にある真嗣のマンション。


昨日から泊めてくれとやってきた親友が、何やら妙にカリカリしてるので、真嗣はため息混じりに彼に問う。


「一体何だよ。急に来たかと思えば終始仏頂面か調べ物ばかり。見るつもりなかったけど、パソコンの検索履歴みたらセンター入試って、大学にでも入り直すの?それで絢音さんと喧嘩したの?」


「別に。絢音とは頗る良好や!!ただ…」


「ただ?なんだよ。話して楽になるなら、言えよ。親友だろ?」


その言葉に、藤次は暫く思案を巡らせた後、徐に口を開く。


「…………お前、初恋いつやった?」


「えっ?!」


急に聞かれて真っ赤になったが、首を捻った後、冷や汗混じりに口を開く。


「怒らない?」


「なんね?聞いたんワシや。怒るかい。」


バリバリと沢庵をかじる藤次に、真嗣は気まずそうに口を開く。


「大学の時かな。相手は……君だよ。」


「はあ?!」


声を上げる藤次に、真嗣は彼が吐き出したご飯粒を避けながら苦笑いを浮かべる。


「藤次気にも留めてなかっただろうけど、僕ら大学同じで、既に会ってたんだよ…」


「そんなん…知らんかった…大学かて、同じや言うの聞いたん初めてやわ。」


「まあ、藤次とは学科違ったし、通ってた棟も違ったから、無理ないと言えば無理ないけどさ。……で?初恋が、どうかしたの?」


その問いに、藤次は食器を置き、俯く。


「…ワシは、初恋らしい初恋、したことないねん。本気で誰かを好きになるって感情…絢音に会うまで、知らんかってん。せやから、アイツがちょっと…羨ましい…せやから、応援してやりとうて…」


「アイツって?」


「S高の3年。一年ちょっと前にウチに押しかけてきよって、絢音を好きやとほざきよった。アホかと怒鳴りつけてやったんやけど、アイツ怯むどころか、ワシの前で絢音にプロポーズしよった。挙句検察入りたい言い出して、散々脅したったんやけど、なりたい言うから、せやから、なんか…ほっとけんなって…」


「S高って、超のつく進学校じゃん。あれ?確か藤次も…」


「せや。どう言う縁か、後輩や。せやから余計に親近感持ってもうて…そんで、センター試験終わるまで、絢音とあの長屋に2人きりにさせとんねん。一緒にならせてやれん代わりに、思い出作り…させたろ思うて…ホンマは、悋気でどないかなりそうなんやけど、あない真剣に惚れるとる気持ちを、簡単に忘れさす言うんも、酷やし…せやけど…」


堂々巡りの言葉を紡ぐ藤次に、真嗣はため息をつき台所に向かうと、ありったけの缶ビールを持って来て、テーブルにぶち撒ける。


「真嗣…」


「飲めよ。藤次ほど飲めないけど、付き合うから。それに…」


「それに?」


問う彼に、真嗣はニコリと笑う。


「藤次のそう言う優しいとこ、好きだよ。」


「アホか…お前に言われても、嬉しくも何ともないわ。」


「棘あるな〜。折角、慰めてあげてるのにぃ。」


言って大袈裟に溜め息をつく真嗣に、藤次はフッと吹き出す。


「冗談や。話…聞いてくれておおきに。少し、楽になった…」


「…そうやって、最初から素直になれば良いんだよ。はい。」


「ん。」


渡されたビール缶を受け取り、蓋を開け、藤次は徐にそれを真嗣に向ける。


「なに?」


「いや。乾杯しよ思て。」


「なにに?」


問う彼に、藤次は笑う。


「切ない青春の1ページに…かのぅ…」


その言葉に、真嗣も笑い、2人はビール缶をカンと合わせて、1人の少年の苦しいまでの恋心に、思いを馳せた。



「ほんなら、行ってきます…」


「うん。行ってらっしゃい…」


センター試験2日目の朝。


今日が、2人で過ごせる最後の日。


今日の夜が終われば、この夫婦ごっこも終わる。


だから…


「じゃあ、いってきますのキス…しましょうか?」


「その前に、ワシ…僕の最後のお願い、聞いてもらえまへんか?」


「なに?」


問う彼女に、藤司はキュッと、握っていた拳を強く握り返す。


「今夜…裸…ヌードモデル…なって下さい。」


「えっ!!?」


真っ赤になる絢音に構わず、藤司は続ける。


「僕…部活美術部で、デッサンだけやけど、先生に上手いて褒められるくらい、描ける。せやから、セックスできへん代わりに、裸…描かせて下さい。どこにも晒しません。僕だけの、宝物にしたいんや…」


「けど…」


「わこてます。今すぐ返事欲しい言いまへん。ワシ帰って来るまでに、考えとって。ほんなら、キス…しよ?」


「う、うん…」


戸惑う彼女の肩を抱いて、すっかり慣れた体で口付けを交わすと、藤司は玄関を後にし、会場へと向かった。



「…………」


洗濯物の回る洗濯槽を眺めながら、絢音は先程の藤司の申し出に対して、どう返事をしようか思案していた。


藤次以外の男性に肌を見せる。もし、デッサンなど嘘で、無理矢理犯されたら…


「バカね…そんな子じゃないって、分かってるじゃない。」


昨夜だって、同じベッドで抱き合って寝たが、藤司は自分の寝巻きを脱がそうとする仕草は一切なかった。


18歳。性に多感な時期。好きな女性とのセックスなど、本当はしたくてたまらないはず。


なのに、そう言う気持ちに全て蓋をして、藤次を裏切りたくないと言う自分の気持ちを尊重してくれて、思い出として、よりリアルな写真ではなく、絵で良いと言っているのだ。


「…恥ずかしいって感情だけで断るなんて、失礼よね…」


ピーッと、洗濯終了のアラームが鳴ったので、絢音はキュッと、何かを心に決めたかのように唇を喰み、中身を籠に移し替え、物干し場に向かった。



「おおきに。」


運転手にそう告げて、藤司はバスを後にすると、後ろから誰かがついてきたので振り返ると、そこには桶本がいた。


「なんね。委員長、最寄りのバス停ここちゃうやろ。」


「相原君こそ、家…こんなとこじゃないじゃない。どこに行ってるのよ。」


「せやから、委員長には関係ないて、何遍も言っとるやん。いい加減、しつこいで?ワシ、急いどんねん。いつものお説教なら、学校でして。ほな。」


言って、その場を立ち去ろうとした時だった。


「関係あるわよ!!だってアタシ…相原君好きだもん!!」


「!?」


突然の告白に瞬き彼女を見やると、顔を真っ赤にして涙を流す桶本…沙織がいた。


「じ、冗談やろ?ワシの事、揶揄うてんか?」


「揶揄ってない!本当に、好きなの。1年の時からずっと…だから、一緒の大学だって行きたかった。でも、K大なんて、アタシには無理だから、今言わなきゃ、離れ離れになっちゃうから…だから…」


「委員長…」


肩を震わせ泣きじゃくる彼女。沙織は、絢音には劣るが美人の類に入る。他にも言い寄る男くらい沢山いたはずなのに、1年…つまり3年も、自分を一途に思っていてくれたのかと思うと、心が揺れた。


けど、今は…


だけど…


悩んだ末…藤司は口を開く。


「分かった。せやけど、その返事…少し待ってくれへんか?」


「えっ?!」


瞬く沙織に、藤司は切なげに笑う。


「全部にケリつけてから、答え出すわ。せやから、待っとって。こないどうしょうもない男に惚れてくれて、ありがとうな。」


「…うん。待ってる。私、ずっと、待ってるから…」


「ん。ほんなら、今は何も聞かんと、ワシの好きに、させてくれへんか?返事は、必ずするさかい…な?」


「うん…」


そう言って頷く沙織に別れを告げて、藤司は絢音の待つ長屋に帰って行った。



長屋街の路地に入り、奥から3番目の家の前に立ち、引き戸を開こうとすると、鍵が掛かっており、格子になにやらメモが挟まっていた。


−おかえりなさい。今夜はここに来て。着いた時、もしくは分からなかったら、下の番号に連絡下さい。絢音−


短く書かれた文章の下には、スマホの番号と、何処の住所が書かれていた。


「なんやろ。朝、変なこと言うてもうたから、怒ってんのかな?」


不思議に思いながらも、来いと言われたら行くしかないと思い、藤司はスマホの地図アプリを起動させて、住所を入力する。


「えっ…」


住所を入力し示された場所に、藤司は瞬く。


絢音に指定された場所は、京都市内でも1、2を争う、高級ホテルだった。


一体なぜこんなところにと疑問しか湧かなかったが、やはり来いと言われているので、不安を抱えつつ、藤司はそこへ向かった。



「ここや…」


着いたのは、京都らしい和風の日本家屋を思わせる、4階建てのシックで落ち着いたホテル。


スマホを取り出し、メモの番号に電話すると、暫時のコール音の後、絢音がハイと出る。


「相原やけど、言われたとこ、着いたで。」


「そ。なら、最上階の405号室来て。フロントで連れが来たと言えば、大丈夫だから。」


「う、うん…」


そう返事をすると、スマホが切れたので、藤司はコートの汚れを手で払って、小さく咳払いして、フロントへ向かう。


「あの…405号室に宿泊している女性の連れなんですが…」


すると、フロント係は一瞬瞬いたが、直ぐに和かな営業スマイルになる。


「ご主人様…棗藤司様でございますね。お待ちしておりました。お部屋、ご案内させていただきます。」


「えっ……」


顔を赤らめ狼狽する藤司に、フロント係は小首を傾げて、宿長を示す。


「奥様から、チェックイン時に、このように御記帳賜っておりますが…」


そこには、確かに絢音の字で、「棗藤司、絢音」と、連名で書かれていた。


本当に、夫婦を演じてくれている…


嬉しくて、思わず写真に撮りたくなったが、不審に思われたら元も子もないと頭を振り、間違いありませんと言って、ホテルスタッフに先導され、最上階の…絢音の待つ部屋へと向かう。


「こちらになります。お夕飯は結構と伺っておりますが、御入用のものがございましたら、なんなりとお申し付け下さい。では、鍵になります。」


「あ、ハイ。おおきに…」


イエと頭を下げて去っていくスタッフを一瞥して、藤司は鍵を鍵穴に入れてドアを開け、部屋に入る。


「絢音さん。来たで…」


すると、奥の座敷から、艶やかな青の着物に、鼈甲の簪を差して飾りつけた結い髪、丁寧に施された化粧…思わず別人かと見紛う程に美しい姿の絢音が、自分を出迎える。


「おかえりなさい。受験、ご苦労様…あなた。」


にっこりと微笑みながらコートを脱がすと、そのままチュッと口付けをされ、唇に紅がついたので、絢音は小さく笑い、袂からハンカチを出してそれを拭う。


「汗かいたし、疲れたでしょ?ご飯の前に、一緒にお風呂…入りましょうか。露天だから、景色綺麗よ?背中も、流してあげるわね?」


「えっ!?」


突然の申し出に真っ赤になる藤司に、絢音はまた微笑みかける。


「ヌード、描いてくれるんでしょ?なら、お風呂一緒に入るのも、同じじゃない。それに、今は夫婦でしょ?」


「せ、せやけど…さすがにそれは、藤次さんに悪いわ…」


「大丈夫。全部話して、了承済みだから…ただ、セックスだけは、どうしても許してくれなかったし、私もやっぱりできないから、許してね。」


「そんなん…ここまでしてもろて、わがまんま聞いてもらえて、許さんなんて言えん!!好きや…僕ホンマに、お前が好きや!忘れたない。ずっと一緒におりたい。明日なんて、来て欲しない!もっとぶっちゃけてまえば、一緒にどっかに逃げて欲しい!!せやけど…」


キュッと、藤司は瞳に力を込めて、涙を堪えて続ける。


「せやけど、それじゃあかんのや。お前からあの人奪ったら、きっとお前は、笑ってくれんようになる。ワシの惚れた、お前やのうなる。そんなん辛すぎて、一緒におっても、苦しいだけや。せやから…同じ苦しみならワシ…お前を忘れる方を選ぶ。何年かかるか分からんし、きっと、生涯忘れられへんかもしれん。せやけど、不思議と好きになった事への後悔も未練もない。もう…充分や。おおきにな。絢音さん…」


「こっちこそ、そんなに想ってくれて嬉しい……会えて良かった。藤司…」


「うん…」


「じゃあ、お風呂はいりましょ?浴室、こっちよ。」


「うん…」



絢音に導かれてやって来た露天風呂は、小さいながらも小庭があり、落ち着いた大人の雰囲気が漂っており、藤司はドキドキと心臓を鳴らしながら、服を脱いでいく。


ふと、背後を盗み見ると、着物の隙間から絢音の白い頸と背中が見えたので、益々心臓が鼓動を早める。


「…準備、出来たで。」


「うん。私、もう少しかかるから、先、入ってて?」


「うん…」


頷き、扉を開けて浴室に入り、かけ湯をして、取り敢えず前だけ洗おうと石鹸を取り洗っていたら、扉が開く音がして、見やると、小さなタオル一枚でこちらにやってくる絢音がいて、藤司はサッと視線を外す。


「お待たせ。貸して?背中、流してあげる。」


「うん…」


タオルを渡すと、ゆっくりと丁寧に、背中を洗われ、時々絢音の肌が、身体が当たる感触がして、顔が熱を帯びるのが分かった。


好きな人と裸で2人きり。本当なら、今すぐ押し倒して抱きたい。


けど、自分にはそんな経験はまだないから、どうすれば良いか分からないし、なにより、こんなに想ってくれてる彼女の純粋な気持ちと、彼女を裏切り者にさせたくないと言う思いが混ざり合い、自分の自己満足の欲望を向ける気にはなれなくて、不思議と欲情や興奮はなく、ただただ気恥ずかしくて、切なくて、黙って俯いてると、絢音の声が耳をつく。


「どうかした?そんな、泣きそうな顔して…」


「いえ…別に…ただ、夢みたいで、嬉しくて…でも、恥ずかしくて…こういう時、どないな顔したらええのん?教えて?」


「普通で良いのよ。いつもと同じ、笑って?大切な時間だもの。笑顔でいましょう?そうだ。学校の話して?私、知りたいわ。あなたの事、もっと、もっと…」


その言葉に、藤司は徐に口を開く。


「実は、ここに来る前に、告白されてん。クラスの女子に。」


「そう。」


湯船に浸かって、肩を寄せ合って庭を眺めながら、藤司は続ける。


「クラス委員長の、桶本ってやつなんや。1年の時から好きやって…こんなワシを、貴重な高校生活、余所見せんと、一途に今まで思うてくれてたんやと思うたら、なんか…嬉しかった。」


「そう…」


「大学、離れてまうし、上手くやってけるか不安やけど、ワシ桶本…沙織を、好きになってみよ思う。よう言うやろ?失恋には新しい恋が、1番の薬やて…」


「そう…」


「なんね。さっきからそうばっか。頑張ってとか、上手くいくわとか、言うてくれへんの?」


その問いかけに、絢音は複雑そうに笑う。


「私達、今夫婦でしょ?確かに、あなたのこと知りたい。学校の事話してって行ったけど、そう言う話は、出来れば今は、聞きたくなかった…私これでも、結構ヤキモチ焼きなのよ?憎い人…」


「ご、ごめん!ワシ、デリカシーなくて……えっと、ほんなら部活!!美術部の中島先生。美術教師なのに、いっつも白衣着て、瓶底眼鏡掛けてて、頭モジャモジャで、でも、描く絵は凄い綺麗で…繊細で、切うて、どうしたらそんなん描けるんですかて、聞いたんや。ほしたら…」


「そしたら?」


問う彼女の肩を抱き、藤司は続ける。


「君も、いつか身を焦がすような恋をすれば、描けるよって言われてん。そん時は、とんだロマンチストの戯言やと嗤うたけど、今なら分かる。今なら、先生みたいな絵が描ける。せやから、頼んだんや。最期の思い出に、裸…描かせて欲しいて…」


「なら、私からも一つ、お願いしていい?」


「なに?」


「絵…2枚描いて?あなたの分と、藤次さんの分。それが、藤次さんが一緒にお風呂入るの許してくれた、条件なの。ただ、モチーフは裸じゃないの。別のもの。」


「なに?何描けば、あの人ワシを、許してくれるん?」


必死になって縋る藤司に、絢音はそっと耳打ちする。


「えっ……そんなんで、ええの?」


拍子抜けする藤司に、絢音は笑いかける。


「どう映ってたか、是非知りたいそうよ。だから、お願い…」


「わ、分かった…描く。約束する。」


「ありがとう…じゃあ、上がりましょうか。」


「うん。」



「わぁ……」


風呂から上がり、浴衣に着替えて座敷に行くと、絢音が徐に重箱を出してきたので開けてみると、手料理とは思えない豪華な弁当が現れたので、藤司は感嘆の声を上げる。


「朝から頑張って作ったのよ。あなたが好きだって、美味しかったって言ってくれたもの、全部詰めてみた。合ってる?」


「そんなん…覚えててくれたん?めっちゃ嬉しい…ああこれや。藤次さんと散々取り合いした、鳥の唐揚げ…今日は、これ全部、独り占めして、ええのん?」


「勿論よ。沢山食べて。私は別に用意してるから、全部…あなたのものよ?」


「ホンマに?!わあ!これもそうや!取り合いしたきんぴら。こっちのピーマンの肉詰めに至っては、中身全部先に食べられて、ワシ外のピーマンだけ食べさせられて、悔しい思いしたんや。それに…それに…」


一品一品に、それぞれ思い出があって、けど、そうして食べながら思い出すのもこれがもう最後なのだと思うと、また切なさが込み上げて来て、涙が出そうになったが、笑顔で過ごそうと言う絢音の言葉を思い出し、ぐっと堪えて、夢中になって食べ進める。


そうして空になった重箱を見つめていると、絢音がそっと隣にやってきて、膝を折る。


「膝枕に耳掻き。あなたも好きだったわね。してあげるから、いらっしゃいな。」


「あなたもって、ほんなら藤次さんも?」


「ええ。ホント、まるで親子か兄弟。やることなす事そっくりで、真面目な話する時、ワシじゃなくて僕って言うとこも、その訛り口調も、よく似てる。だからかしらね。あなたの事を、こんなに大切にしてあげたいって思えるのは…」


小ざっぱりと纏められた短い黒髪に覆われた頭を撫でながら、絢音は続ける。


「藤次さんも、きっとあなただから、ここまで許してくれたんだと思うわよ。いつもなら、私に声かけてくる男性、問答無用で突っぱねるのに、あなたと2人きりで過ごす時間と、裸を見せることまで許してくれた。ホントは優しくて、素敵な人なの。…だから、愛しているの。誰よりも、なによりも…あの人も、きっと同じ。」


「…なんやねん。さっきワシが沙織んこと話したら、嫌や言うたくせに、ワシには惚気んのかい。そないな話、聞きとうない。今はワシの方が、お前の事好きやし…愛してる…」


「いやだ。愛してるなんて、初めて言ってくれたんじゃない?ねぇ、ちゃんとこっち見て言って?こんな形じゃあ、嫌よ?」


「嫌や。そないペラペラ軽々しゅう男が言うセリフやないんや。さっきので我慢し。それより、もうちょい左…掻いて?」


「まあ!一丁前に男気取り?膝枕が大好きな甘えん坊さんのくせに、生意気ね。…ねぇ、言ってよ。こっち見て?ねぇったら!でないとくすぐるわよ?ホラッ!!」


言って、絢音が身体をくすぐってくるので、藤司は身を捩らせて笑い転げて、仕返しとばかりに彼女の身体をくすぐりじゃれあっていると、いつの間にか彼女を組み敷いていて、藤司はハッとなる。


「ご、ごめん!ワシ…すぐどくから…」


「良い。」


「えっ?!」


瞬く彼の首に腕を回し、ねだるように瞼が閉じられたので、藤司はドキドキしながらキスをすると、不意に舌で唇を舐められたので驚き絢音と呼ぼうと口を開いた瞬間、柔らかい舌が口の中に入って来て、口腔を舐めるように愛撫されるので、心地よくなり、力が抜け、堪らず彼女に覆いかぶさる。


「舌…出して…大人のキス、教えてあげる。」


「う、うん…」


言われるまま、舌を少し伸ばしてみると、舐められ、絡めて、突かれ、口で吸われ、甘い吐息が静かな室内に響く。


ツゥッと唾液の糸を引いて口が離れると、絢音は寂しそうに呟く。


「これが、あなたとする、最後のキス。ごめんなさいね。最後が、こんな下手くそで…」


「ううん!ホンマはこういうの、男がリードするもんなんやろ?それに、めっちゃ気持ち良かった…最後なんが、惜しいくらい…なあ、言うから、もう一回して?」


「何を?」


問う彼女に顔を近づけて、正面から見つめて、藤司はありったけのおもいをこめてか言葉を紡ぐ。


「お前を、愛してる…」


「言ってくれた。…嬉しい…」


そうしてまた深く口づけて、いよいよ…2人にとって最後の夜がやってきた。



「髪は?下ろす?結う?」


「下ろして。ありのままの姿…描きたい。」


「そ。じゃあ、少しだけ待って?櫛で梳かすから。」


「うん。」


そうして鏡台に向かう絢音を一瞥して、藤司はカバンから鉛筆とスケッチブックを取り出し、デッサン場所に決めた洋間に向かう。


ここで、2枚の絵を描きあげて眠ってしまえば、朝が来れば、この恋は終わる。


初恋は実らない。


クラスメイトで友人の笠原が、そう言って人目も憚らず涙を流して号泣していたのを、男のくせに女々しく馬鹿らしいと一蹴して、見下し嗤っていたが、まさかこんなに切なく苦しいものだとは思っても見なかったので、明日学校に行ったら、缶ジュースでも奢って、あの時はすまなかったと詫びよう。


沙織にも、こんな自分でよければ付き合って欲しいと、伝えなければいけない。


立ち止まったり、振り返ったりする余裕など、無いのだ。


そう思わないと、胸が押しつぶされそうなくらい辛く苦しくなるので、とにかく前を向けと、必死に自分を叱咤していると、絢音がやってくる。


「お待たせ。」


「ん。ほんなら脱いで、そこ…寝そべって。」


「うん…」


頷き、何の躊躇いもなく帯を解き、ストンと、浴衣が床に落ち、一糸まとわぬ絢音の白い後ろ姿が視界に飛び込む。


「綺麗や…」


自然と、口をついた言葉。


ゆっくりと身体が前を向くと、均整の取れた日本女性らしいしなやかで美しい体躯に、藤司は息を飲む。


「こう?」


「あ、もうちょいこっち向いて。目線も、ワシの方…見てて。」


「分かった。見てる。あなたが描き終わるまで、ずっと…だから、綺麗に描いてね?」


「うん…」


そう言って納得いく構図にすると、藤司はスケッチブックに鉛筆を走らせる。


「…ホンマに、同じトウジやのに、なんで神さんは、こない不公平なんにゃろ。片っぽには、あんな立派な仕事と、こんな綺麗で優しい嫁さん与えて、ワシには…こないに惚れた女との思い出、忘れ言う上に、絵ぇにして残すことしか、許してくれへん。辛すぎる…」


「そんな事ないわ。言ったでしょ?いつかあなたにも、生涯かけて愛そうとする人が現れるって。まだ18じゃない。これからよ?大学なんて行ったら、勉強も大変だけど、楽しい事沢山あるわ。好きな人だって、できたんでしょ?私のことなんて、簡単に忘れられるわ。」


「みくびんなや!!ワシ、そんな中途半端な思いで、こないなことしてへん!!そんな中途半端な思いでお前に、愛してるなんて、言ってへん!!ホンマに、本気やったんや。今かてずっと、時間止まってくれて、願っとんや!簡単なんて、言うな!!」


「藤司…」


「…決めた。ワシ…意地でも検察官なる。なって、あの人と肩並べられるくらい、強うなる。そしたら今度は、今度こそは、お前を賭けて、正々堂々、男として勝負申し込む。何年かかってもええ。きっと土俵に上がる!!せやから、もし勝ったら、その身体、抱かせてもらうからな?そのつもりで、待っとって。」


「…分かった。待つわ。だから、目一杯いい男になって頂戴。藤次さんにも、しっかりあなたの思い、伝えておくから…」


「…頼むわ。ワシ、絶対負けへんから。絶対、勝つから。ワシに塩送った事、死ぬ程後悔させたる。何があっても、絶対挫けん!強くなる。心も、身体も、何もかんも、強うなる!!」


言って、藤司はグイッと、浴衣で涙を拭う。


「もう、泣くんは終いや。もし次泣く日が来るんやったらそれは、お前を好きやと、愛してると、お日さんの下で堂々と言える…結婚した時の、嬉し泣きや…」


「そんな誓いはやめなさい。涙ってね、ただ流すだけじゃないの。心を浄化させる、大事な要素なの。折角そんな綺麗な心なんだから、世の中に出て、沢山の汚物で汚したまま生きるより、泣いて泣いて、涙で洗い流して、綺麗な心のままでいて頂戴。お願い…」


「嫌や。どんなに汚ななってもええ。と言うか、汚くならんと、勝てへん。譲ってもらうんやない。奪うんや。どんな手だって使う。犯罪以外なら、手段選ばん。本気や言うの、分からせたる。」


「なんで、そんな辛い道歩こうとするの?女なんて、沢山いるじゃない。目移りしなさいよ!お前みたいなババアに惚れてたなんて、悪い夢やったって言って、さっさと忘れなさいよ!!」


「それができるなら、とっくにやって楽になっとるわ!!!でけへんから!忘れられんから!決めたんや!!もう、忘れるの、止めるて。…のし上がるための政略結婚ならするけど、ワシがホンマに結婚したいんは、愛したいんは、絢音だけにする。男の決意や。口出すな。集中したいさかい、もう…黙って。」


「バカよ…なんでトウジって、そんなにバカで、真っ直ぐなの?あたしなんて、あなた達に取り合ってもらう程、価値のある女じゃないのに…」


「黙って言うたやろ。もう、決めたんや。トウジの名前に賭けて、絶対、お前をモノにする。」


「バカよ…もう、知らないからね。後悔しても…」


「せえへん。初恋は実らん言うジンクス、ワシはぶち壊したる。これは、ワシの一生かけた、たった一回の、本気の恋愛や。」



そうして朝を迎え、2枚の絵が完成すると、その内の…藤次と約束した1枚を、眠る絢音の傍らに置くと、藤司は部屋を後にし、生涯かけて愛すると誓った女との暫しの別れを、決意した。


そうして時は巡り、幾つもの季節が通り過ぎて行き、桜咲き誇る春。京都地方検察庁の掲示板に、新年度の正式採用者の名前と、初年度の赴任先が掲示された。


「さて、約束通りなら、これ見にくんのも、今年が最後になるはずやけど、果たして…」


言って、名前を上から見ていく男が一人。


やや待って、その男の視線が止まり、ニヤリと、口角が上がる。


「相原藤司。初年度赴任先は…仙台か。なら久しぶりに、連絡してみるかのぅ…」


呟いて、男はスマホを取り出し、とある人物に電話をする。


「…おう。酒井か?久しぶり。仙台時代は世話なったな。なあ、ちょお…こっちに急ぎで送ってもらいたいもんあんねんけど、頼めるか?……ああ。できるだけ男前なやつで、頼むわ。宛先は…」


そうしてやり取りした後電話を切ると、徐に掲示板の…相原藤司の部分を撮影すると、それをメールに添付して、こうメッセージを綴って、とある人物に送信する。


−果し状、来たで?初年度は仙台や。京都来んの、楽しみやな。−


「ホンマ、愉しみやわ。あの恩知らずのクソガキ、どう血祭りにあげたろ。」


そうしてニヤリと男…藤次は嗤い、廊下の奥へと消えていった。



「郵便です。棗絢音さんに、速達です。」


「あ、はい。ご苦労様です。」


数日後。仙台地方検察庁の酒井と言う人物から、速達で封書が届いたので、絢音は不思議に思いながらも、ペーパーナイフでそれを切り裂くと、中に入っていたのは一枚の写真と、夫の欄に名前の記された、婚姻届。


余白には短く「もう一人のトウジによろしく」と書かれていて、写真には、真っ新なスーツ姿に、検察官紀章を胸元に光らせた、あの頃と寸分違わない真っ直ぐな瞳を自分に向ける、相原藤司の姿があった。


「ホント、バカよ…トウジって男は…」


溢れる涙を拭い呟いていると、婚姻届の隙間からハラリと落ちた、一便箋。


-身体、お前やないと抱けんなった。せやから、身体だけは綺麗なままで迎えに行くから、責任取って、俺の身体の初めても、もらってな?…今も、昔も、これからもずっと、愛してる。藤司-


「バカよ…どこまでも、バカで真っ直ぐ…一生女抱かないつもり?ホントにもう、知らないんだから…」


いつまでも色褪せない藤司の想いに、絢音は嗚咽を殺して泣いていたが、やや待って、彼女は婚姻届を大事に文箱に終い、写真に見合った額を探しに、奥の納屋に消えていった。


誰もいなくなった居間の、一番良く見える場所に、額に入れられ飾られた、藤司が藤次との約束で描いた絢音の弾けんばかりの幸せそうな笑顔が、窓から差し込む春の陽光に照らされ、静かに穏やかに、輝いていた…


初恋 了






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