路地が明るくなる
たちばな
始まり
「ちょいとあんた。何してるんだい、そんなところで」
「……あ?」
落ち着いた声に起こされて、俺は顔を上げた。頭がふらつく。綺麗な柄の着物が見えた。……着物? 珍しいな。
「あ? じゃないよ。あんたに聞いてんだよ」
雨で良く見えなかった顔が、ようやくはっきり見えた。目元のきりっとした女の人だ。着物だから和風の傘を差しているのかと思ったら、普通の黒っぽい傘だ。……何だこの人。
「何もしてねえよ。ただ、怪我が治るまで、ここで」
取りあえず言い訳をする。ここの店の人か? ああ、そうなると面倒だ。足の腫れも切られた傷も、ここの裏でじっとしてたら大分良くなってきたのに。動いたらまた開いちまうじゃねえか。
「怪我? 怪我してんのかい」
「見りゃ分かんでしょ」
そっぽを向いたら、ぐう、と腹が鳴った。もう丸一日食べてないから当然だ。あー、腹減ったなあ……。
「腹も減ってるんだねぇ……あんた、おいで。旨い物ご馳走してやるから」
……一昨日聞いた言葉もそうだった。『美味しい物があるから』と連れていかれたところで、何故か殴る蹴るの暴行をされ……それで逃げてきたってのに、そんな言葉信じられるかよ。
「あんた、一昨日の奴らの仲間か?」
「は?」
「そう言って俺のこと連れ出して、またぶん殴る気なんだろ」
精一杯の力で睨む。女の人は目を丸くして……高い声で笑い出した。
「あっはっはっは! こりゃ面白い……! あんたには、私が鬼婆みたいに見えてんのかい?」
ぽかんとするのは俺の方だった。案外豪快に笑うんだな、こういう人も。そう思っていたらいつの間にかすまし顔に戻っている。
「私はあんたのこと、取って食ったりはしないさ。ただ、あんたに食わせたいだけでねぇ」
また腹が鳴った。飯食いてえなぁ……。昔、どこかで食べた魚料理を思い出して唾が出る。
「ほら、おいで。立てるかい?」
すっと手が差し出されている。赤いマニキュアが爪に塗られた、白い手。俺はその手を怖々掴んだ。瞬間、ぐっと引かれてふらついた。
「うわっ」
「危ないねぇ。あんた、このままだといつか餓死しちまうよ。ほら、こんなに痩せて」
さりげなく、女の人の手は俺の肩に回されていた。
「手。離せよ」
「あんたが倒れないようにしてんだよ。倒れられると、運べないから」
「……」
それでも振りほどきたかったが、人の多い道に出たので我慢だ。今の俺じゃ走れない。歩くことも正直きつい。取りあえず、大人しくしておくことに決めた。
「雨だと気が滅入るねぇ。あんた、雨は好きかい」
「嫌い」
「そうか、嫌いか」
そう言って微笑む。掴み所のない人だ。大体、現代社会で着物って珍しい。道行く人の視線を何となく感じる。そりゃ、着物の女の人と薄汚れた俺が連れ立って歩いてりゃ視線ぐらい集める。……というか、どこ行くんだ?
「そういや、名前を聞いてなかった。あんた名前は?」
「俺?」
名前……俺の名前。何だったっけ。しばらく偽名だったもんだから、本当の名前が思い出せない。
「どうしたんだい。名前、覚えてないとか」
女の人がからかうように言うのに、俺は頷いた。
「おや」
「しばらく偽名だったんだ……本名、覚えてねぇ」
「そうかい。じゃあそれ、教えておくれ」
少し、悩む。何度もからかわれた名前だ。笑われるかも。……いや、もう良いか。こんなにダサい格好見せておいて、今更恥ずかしく思う必要ない。
「覚えてないって言ったら……
「明か。……何だか、可愛い名前だね」
「悪いかよ。適当につけられたんだ」
そう言われると思ったんだ。口を尖らせる。でも、それ以上何も言われない。
「じゃあよろしく、明」
「……」
道は外れて、細い路地に移った。雨の音が少し穏やかになる。
「……あんたの名前は? 俺だけとか、不公平だろ」
「ああ、遅れてすまないね。私は
「縁……?」
「そうさ。好きなように呼んでおくれ」
傘を畳んで、縁はまた微笑んだ。
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