第二話 悠久の呪詛

 それからどれだけの年月が流れたのか。当時よりも二回りほど大きなった手に付いた土を払い、顔を上げればその眩しさに目を細めた。


「ふぅ~」


 いい仕事をした、とでも言わんばかりに額の汗を手の甲で拭い息を吐き出す。


「何、いい顔して休んでいるのよ。まだまだやることはあるんだから手伝ってよね」

「いいじゃん、手が止まっていたのはほんの数秒だけでしょ?」

「冗談よ。一息ついたら今度はこっちをお願い」


 悪戯っぽく笑うリアナ、彼女はもう十五で成人している。もう既に婚約者もおり、近いウチに結婚もする予定だ。

 しかしその姿はとでも嫁入り前の女とは思えないほど土に汚れていて、


「お姉ちゃんこそ土いじりはそこそこに、そろころ花嫁修行もし方がいいんじゃない?」

「は、花嫁修行ぐらいバッチリよ!」

「え~、本当に~?」

「な、何よ? 私の言うことが信用ならないとでも言うのかしら?」

「だってねぇ? 昨日の夜──」

「あ、あれはたまたまで……! そ、それに少し焦げただけじゃない!」


 昨日、彼女が作った料理はものの見事に失敗に終わったのだ。しかし決して食べられないようなものではなく、確かに多少の失敗の範疇で収まってはいる。それでも、


「でも、失敗は失敗じゃん。

 いいの? 引き攣った笑みを浮かべたお兄さんに「美味しかったよ」と言われて?」


 そう言ってやればリアナの顔が羞恥心からかたちまち赤くなり、そしてすぐにそうなるであろう未来が見えたのか、がっくしと肩を落とした。


「まぁまぁ、料理の一つぐらい大丈夫だよ? お姉ちゃんならすぐに上手くなるし、何よりも──」


 しょんぼりと萎れたリアナの肩に手をおき、小指を立てると小悪魔じみた笑みを浮かべる。


「お姉ちゃんは美人だし、スタイルもいいからこれでお兄さんをメロメロにすればいいんだよ」


 立てた小指を回してこれ見よがしにリアナへ見せ付けると、彼女はたちまち顔を赤くする。


「よ、余計なお世話よ! いい加減怒るわよ!」


 キャッキャと真昼間から恥じらいもなく騒ぐ姉妹を周囲の村人たちが微笑ましそうに見ていた。


 ここに来てから彼女は大きく変わった。長く鉄格子の中で育っていたせいで凍りついた心は、ここで人の温もりに触れていくことで溶かされて、いつしか人並みの感情を見せるようになったのだ。


 そうして今の義姉リアナは村の中では美人だと言われている。それでも村の外へ目を向ければ所詮は小さな村の中で美人だと言われているだけで、その上で畑仕事などで日に焼けた肌や、荒れた手が目立つ。

 しかし村の誰としてそんなことを気にする者なのどおらず、サティナ自身も彼女のことを自慢の姉だと誇らしく思っていた。


 宝石を散りばめたドレスなどなくとも、彼女は太陽の下でこうも輝いている。

 食べる物が少なく、日々働き、細く日焼けした身体。しかしその背中はこうも義妹であるサティナに人の生き様と言うものを雄弁に語りかけている。


 どうすればそんな彼女を含めた女性達を醜いなどと言えようか……。


 行く当てもないサティナへ手を差し伸べてくれた義母は、今や年齢以上に老いて見えるがサティナやリアナへ向ける微笑みは彼女達へこの上ない安心感を与えてくれる。

 高級である調味料が手に入らないこの村で、彼女の作る料理は質素ではあるものの、何よりも温かい。ただ、温かい食事を口にできるその幸せを何故理解できないのか……何故、それ以上のものを求める必要があるのか──


 サティナが欲していたモノは全てにここに揃っており、いつか自分も姉のように村の男と結婚するものだと微塵も疑っていなかった。

 例え翼を持つ子供が産まれても、ここの者達は決して差別ることはない。それは共に生を歩む、仲間であり、幸せを分かち合う存在であると理解しているから。



















 ──それが、いつまでも続いて欲しかった……



















 その日はいつも通り、リアナと共に小川へ水を汲みに行っていた。さしたる距離もないそこから振り返って来た道を折り返そうとした直後──


「えっ?」

「何、あれ?」


 言葉を失った。日暮れの空は赤く、しかし夕焼けのそれではない。

 厚い雲が覆う空は真っ赤に染まっていたのだ。そんな雲を目指すのはドス黒い煙で──


「お、お姉ちゃん……」

「と、とにかく村に戻ろう!」


 狼狽えるサティナの手を取り、リアナが道を急ぐ。そんな彼女の背中を力なく追いながらも、拭いきれない予感に喉が締め付けられていた。


 そして……目の前に広がる光景に立ち尽くす。


 村が燃えていた。民家が燃えていたのではない……村が燃えていたのだ。

 泣き叫ぶ声が絶え間なくこだまし、見たことない甲冑に身を包む男たちが笑いながら村人を男を殺し、若い女の身ぐるみを剥ぎ取っている。


「え? 何で?」


 訳がわからない。

 何故。何が起こった。いや、これは現実なのか……悪い、夢ではないのか。


 身体は固まり、思考は彷徨う。

 目の前で人が殺されているのに、何もできない。

 泣き叫ぶことも、戦うことも……それどころか、逃げようとすら思わなかった。


 その直後、虚な目のまま村を蹂躙する男の一人と目が合う。直後、その男が嗤った……気がした。


「いたぞ! 邪教の娘だ!」


 その声に他の男たちがサティナとリアナの方を向き、笑みと言う表情を利用してその牙を剥き出す。


「こっち!」


 呆けるサティナの手を引き、リアナが駆け出す。その向かう先は二人の家だ。

 途中、家の目の前で父がいつも薪割りに使っていた斧をリアナが拾い上げた……その刃が血に濡れていることも気が付かずに──


「お父さん! お母──っ!」


 扉を開け放ち、中へ足を踏み入れた直後、吐き気をも齎す異臭が立ち込める。それでも躊躇わずに中へ足を踏み入れようとした直後、足に重たいモノが当たった。


 僅かに呻きながらそちらへ視線を向ければ、その異臭の理由が分かった……わかってしまった。


「ぁ……」


 目の前が真っ暗になった。

 見たくないも目を逸らそうと、しかし目が釘付けにされて動かない。

 瞬きすることすら忘れてその光景を目に刻みつけた。


「そんな……おとう、さ──」

「持って!」


 腸(はらわた)を引き摺り出されて殺された義父の屍へ無意識的に震える手を伸ばす……その直前、リアナが冷たくなった父の手から包丁を奪い取るとサティナへと握らせた。

 そのまま父を飛び越え、リビングに転がる母を尻目に、裏手へ回ると既に破壊された裏口から飛び出し一目散に森へ向かう。


「……っ!」


 その直後、後ろから咆哮が聞こえた。村を蹂躙した男達が何かを叫ぶ声だ。その声に思わず振り返ったことを後悔した。

 目を血走らせた男達が二人を凄まじ速度で追いかけて来ているのだ。少女二人の足ではとでも逃げきれない。


 そう判断すると森に入る手前でリアナがサティナの手を離すと、その背中を押した。


「行って!」

「でも……」

「行って!!」


 喉が張り裂けんばかりに怒鳴るリアナの声に押されて、サティナが走る速度を更に上げる。

 背後では男の怒声と何かがぶつかる鈍い音。そして、リアナの雄叫びが森に木霊した。


 幾分も持たないだろう。間もなく彼女は無力化され、男達がサティナを追いかける。

 いや、あるいは村一番の美人であるリアナを犯すことに夢中になって彼女を放っておくかもしれない。


 否、そんな筈はない……奴等の目を思い出せばすぐに理解できた。あの獣はサティナを執拗に追い回すだろう。

 そうして姉と同じように犯され嬲られ殺されるか、ただ嬲られ殺されるか、意味もなく殺されるか、抵抗が面倒だと殺された後で犯されるか……どちらにせよ彼女に未来はない。


 ──それなら……!


 せめて奴等に報いを──!

 罪深き獣(けだもの)に罰を──!

 不条理な理不尽をばら撒く畜生へ裁きを──!

 我らが営みを奪った不届者へそれ以上の苦痛を──!


 ──私達が受けた痛みを知らしめてやる……!


 茂みに頬を叩かれながら、足を棘に引っかかれ、血を流すことを厭わずに走り続ける。その血が奴等を導いているとも知らずに──


 天界を追放され時、どこか他人行事で無機質だった心は今や……ドス黒い復讐の炎が覆い尽くしている。


 しかし肉体はその異常な精神について来れずに悲鳴を上げていた。足が鉛を流し込まれたように重く、肺は焼け付くように熱い。

 それもその筈だ。もう、どれくらいになるのか暗い森の中を灯りも持たずに走り続けているのだから。


 ──でも、もうすぐ……

 ──間もなくアレが……


 そんな彼女の読み通りに、目の前にソレが見えて来た。


 ソレは風化した古い大聖堂。今は使われなくなったソレは、近づく者全てを拒絶するように、威圧的な雰囲気を放っていた。


 誰一人、村の大人達でさえ決して近寄らない呪われた代物。

 当然、少女自身も近づくことさえ憚るだろう……いつもなら──


 しかし、今は違う。


 憎悪に染まり、恐怖心が薄れた少女は……ただ、奴等を呪い殺してやりたい……と──

 その一心で大聖堂へ駆け込んだ。


 聖堂自体に呪いがあるならそれでいい。

 ないならないで、それも構わない。


 少女がやることは、変わらないのだから──


 聖堂に駆け込み、中の開けた場所へ向かう。

 過度な酷使により震える膝を曲げ、石造りの床に手をついた。

 だが、地面を舐めるのは今じゃない。


 ──せめて、奴等に裁きを……

 ──家族の仇を、村を蹂躙した報いを……

 ──姉を玩具のように扱った罰を……


 そう声にならない声で叫び、懐から鈍く光るモノを取り出した。


 ソレは、姉に渡された包丁。彼女が花嫁修行と称して愛用してソレは、獣の血に濡れて穢されてしまった。


 しかしそんな感傷に浸る間もなく、少女は凶器を振り上げると、思いっきり自分の手首に突き立てる。さすれば血が止めどなく流れ出し、床を真紅に染め上げた。


「殺してやる!殺してやる!

 臓物を引き裂いて──!

 骨という骨を砕き──!

 肉体(からだ)を端から削ぎ落として──!」


 外にいる男達に聞こえないように小さく叫ぶ。


 他者を蹂躙する腐った獣を狩るために──

 それを許し、罪なき弱者を淘汰するふざけた神を斃ぼすために──

 大切な者達を奪われて、憎悪のみが募るこの世界を滅ぼすために──


 流れ出る血を用いて地面に文字を、印を刻み込む。


 ソレは、村の一族に伝わる呪術の一つ。

 しかしソレは、決して使ってはいけない『呪われた奇跡』。

 初めこそ彼女は信じていなかったものの、自身が天界で得た知識と通ずるものがあった為に、そして何より尊敬する者達が信仰ふるそれを必死に勉強したのだ。


 刃物を抜き放てば止めどなく血が溢れ出す。その熱はまるで少女の憎しみを体現したかのようで──


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 正直なところ、成功するかどうかは完全な賭けだ。この術式を完成させるのは色々と足りないモノがあった。


 道具が足りない……贄が、供物が足りない。

 そして何よりも彼女の持つ魔法に関する知識と当てはめるとこの術式はあまりに不完全だった。


 それでも、自身の血をもって中途半端ながら術式を描き出す。

 それでも、自身の覚束ない知識を搾り出して術式を完成させる。


 無い道具は自らの血肉で補い、自分自身を贄とする。


 そうしていく中で気がついた。

 自身の流血が止まりつつあることを──


 それは、生物としての生存能力の一つだ。

 血を流しすぎないように、生まれ持った能力が機能している。


 しかし、憎悪と狂気に震える少女にはソレが煩わしかった。

 ならば、どうするか──当然、傷口を開くのだ。


 だがそれも、繰り返すうちに流血の量が減っていく。

 その理由は単純明解……"流す血が無いのだ"。


 だからこそ焦る気持ちに苛立ち、更に血が出る二の腕に刃を突き立てた。

 身体の端である手首とは違い、こちらからはまだまだ血が流れる。


 溢れる鮮血を手に取り、再び印を刻み込む。

 それでも気が付けば流血が減る。


 腕からはもう大した量の血が出ない。

 ならば、今度は太腿へ刃を突き立てた。


 溢れる出る血に酔い、狂ったように自傷を繰り返す。

 血が出なくなればまた別の、更に血の出る部位へ刃を突き立てる。

 そうしてゆく内に、気がつけば刃傷は心臓付近にまで及んでいた。


 狂った様に描いた文様は、まるで御伽噺に聞くような魔法陣。

 そこに刻まれる文字の大半を少女は読めない。

 ただ暗記し、頭に叩き込んだソレを映し出したにすぎなかった。その中で、自身の知識と照らし合わせて疎いながらも完成させたのだ。


 そうして漸く準備が終わり、現れたのは地面と壁に描かれた幾何学模様。


 あとは祝詞を唱えるのみ──


 それなのに血を流しすぎて今や自力で立つことも出来はしない……だが少女はそれを意に介さず、冷たく感覚のない指を祈るように結ぶ。


「『遥か太古、星々の輝かぬ古(いにしえ)の時代』」


 言葉の意味は分からない。

 これもまた、ただ暗記しただけに過ぎない音だ。

 魔法の行使に声を出す方法もあり、これはあくまで無意識下でイメージを固めやすくする効果がある。


『火』と言えば無意識に火を連想するように、口に出して言葉を発することで自身が何をイメージしているのかを明白にする。


 しかし、言葉が分からなければ意味もない……否、断じて否である。言葉にそれだけで大なり小なりの強制力を持っており、意味が分からないからと無になることはない。

 例えば、自身は分からない言語を音として暗記しただけとて、言葉の伝わる相手であれば意味は成されるのだから。


 故に例え少女がその意味を理解しておらずとも、その言葉が何かに影響を与える可能性がある。その結果が、彼女へ返ってくることもまた然り──


 故に、


「『創まりの世界を喰らいし我らが『神』よ』」


 故に、少女は理解できない言葉を重ねてゆく。


「『闇を纏い、虚無を統べ、破壊を操り、滅びを支配せし我らが『神』よ』」


 まだ、男達は来ない。

 恐らく、聖堂の威圧感にたじろいでいるのだろう。


 しかし時間はない、急いで完成させなくては──


 血は止めどなく流れ続け、意識も朦朧としてきた。

 それでも、呪詞を止めることはない。


「『在るモノ全てを拒絶し、在すモノ全てを否定する『滅びの王』』」


 続ける、ただ続ける。


 呪詞は、長ければ長いほど……魔法陣はより複雑であるほど……強力な『神』を呼び出せると言う。


 ならばこの命が尽き果てるその時まで、この呪詞を紡ぐのだ──


 当然、呪詞の内容や魔法陣の形によって呼び出せるモノは変わる。


 そう、教えられた。


 だからこそ──

 より歪(いびつ)な魔法陣を──

 より呪詛を込めた言葉を──

 より憎悪を込めた言霊を──


 少女が望(のぞ)み希(ねが)うのは、世界をも滅ぼす最凶の『神』。


「『摂理を覆し、秩序を捻(ねじ)り、理(ことわり)に背きし『不死の再誕者』』」


 もう、言葉は分からない。

 いや、言葉にすらなっていない。


 朦朧とする意識の中、自分が何を言っているのかさえ理解できなかった。

 それでも己が憎悪の全てを言霊にのせて、呪詞を吐き出す。


 言葉にならなくていい。

 ただ、口から紡がれる音に意味を込めれば……それでいい。


 言葉が生まれる前に意味があった。ならばこそそれが例え過去にない、誰にも伝わらない造語となり得ようとも、意味を込めて音を出せばそれは言葉なのだ。


「『神々の定めし義へ、楔を穿つ『破壊の象徴』』」


 かつて、生きとし生けるもの全てを滅ぼした『破壊の化身』。


 神々さえも引き摺り堕とし、一柱残らず喰い斃したと謳われる『滅びの王』。


 無差別に、平等に……目に映るモノ全てを闇の底へ引き摺り込む『虚無の主』。


 ただ存在する……それだけの理由があれば、彼(か)の者の逆鱗に触れるには十分なのだ。


「『我が命を対価とし、我が魂を贄とする』」


 言葉を重ね、恨みの全てを吐き出す。


「『我が世界に舞い降りて、滅び逝く我等へ最期の奇跡を与えたまえ』」


 そうして漸く祝詞が終わる……が──


「あは、あはは、は……ははははは……」


 何も、何も起こらない。


 考え直せばこの儀式は穴だらけだったのだ。


 そもそも、成功した前例がない。

 加えて、道具が足りていない。

 更には、術式が少女の独創(オリジナル)。


 成功などしないと、思っていた。

 実を言えば、信じてなどいなかった。

 それでも何かに縋りたかったのだ。

 でなければ、とても正気を保てなかった。


 直後、魔法陣を挟んだ向こう。

 大聖堂の扉が開け放たれる。


「見つけたぞ!

 邪教の魔女だ!」


 その言葉に釣られるようにして、次々に男達が集まる。

 彼等の目には、最早(もはや)理性など残っていなかった。


「忌々しい!

 呪われた儀式の最中だ!

 今すぐ殺してやる!」


「いいや! 吊し上げて磔(はりつけ)にするべきだ!

 その呪われた血を全て搾り出して、浄化の火に焼べてやる!」


 次々に少女へ向けて狂言(ことば)を放つ。

 まるで鋭い刃の如く彼等の狂言(ことば)が少女の精神を抉り、彼女の心を恐怖と絶望に染め上げた。


 その言葉がどれほど常軌を逸しているかなど、獣にまで堕ちた彼等には分からないのだろう。


 間もなく、少女に最期の時が訪れる。

 欲と狂気に濁った血眼(め)をした獣達。十を超える『化け物』が、少女へ凶器を突きつけた。


 血を失い、立つことさえままない少女に抵抗する力など残されておらず……力の入らない青ざめた指先から、血の滴る刃物がこぼれ落ちる。


 そうして絶望だけが残された少女は、諦観にした心で目蓋を閉じようとした──その、瞬間(とき)だった。


 ──"雨が止む"──


 それだけならいい。

 しかし、ゆっくりと光が少女達を照らしていったのだ。


 不自然な光が降り注ぐ天を見上げれば──


「お、おい……」


「なんなんだ! アレは!?」


 天を仰ぎ、男達が狼狽える。

 その視線を追って、少女も天(そら)を見上げた。


 崩れ落ち、天井の約半分が無くなった大聖堂の上……魔法陣の真上を中心に、雲がゆっくりと消えてゆく。


 そこから降り注ぐ青白い月明かりが少女達を照らしていた。


「こ、コイツだ!

 儀式を終わらせろ!」


「い、今すぐ殺せ!」


 超常的な現象を目の当たりにし、怯えた男達は口々に叫び、少女へ近づく。

 その内一人の男が魔法陣を踏みつけて歩む寄る。


 だが、直後──


 驚く程にゆっくりと、しかし意識できない程に自然に、その男が崩れ落ちた。

 まるで糸の切れた操り人形マリオネットの如く、重量に抗うこともできずに倒れたのだ。

 間もなく、静まり返った世界に男が倒れる音が鈍く響く。


 僅かな間を置いて、他の男達がその異常さに気づき、狼狽える。


「さ、さっきからなんなんだ!?」


 怪奇を目の当たりにした他の男達が驚愕に目を見開き、少女から距離を取る。


 直後、世界が明滅する。

 雲の無くなった筈の世界に雷鳴が轟いた。


 しかし、ソレは先程まで轟いていた雷鳴とは明らかに違う。

 轟音は遥かに大きく、他の音を奪い去る──否、それだけではない……その雷鳴は聞くのも悍まし不協和音だったのだ。

 傷口を錆びた刃で無神経に抉られる様な不快感を伴う不協和音。その中に混ざる金切(かなきり)音はまるで……大地を、大気を震わす世界の悲鳴のようで──


 大気を切り裂く轟音が──

 耳を劈く程のけたたましい爆音が──

 不協和音の中に混ざる金切音が──


 世界の断末魔にも聞こえてしまう。


 あまりの悍ましさに、自分の身を抱きしめる。そうして身体に触れて初めて、全身に鳥肌が立っていたことに気がついた。


 直後、世界を震撼させるほどの力の顕現に耐え切れなかったのだろう。

 周囲の大気には亀裂が現れ、身体に絡みつく空気がその温度を増す。


 直後に訪れるモノクロの世界。

 黒と白に明滅し、世界から色が失われる。


 夜の闇の中、白き光を放つ黒き雷(いかづち)がその姿を誇張していた。


 天は轟き、地は震撼する。

 拒絶反応のごとく、世界全体が何かに怯えたように震え出していた。


 しかしそれは、十数秒にも満たない時間だった。

 だがそれは、体感にすれば数分にも及んだ。


 視界が戻り、耳が聞こえるようになれば、少女も男達も絶句した。


 大聖堂が僅かな壁を残して、周囲一帯が消し飛んでいたのだ。

 森の木々は魔法陣を中心に薙ぎ倒され、少女達のいる空間は陥没している。


「……っ!」


 それよりも目を引くのは、魔法陣を踏んで倒れていた筈の男だ。


「なっ……!?」


 その光景を目の当たりにし、少女の喉に言葉が詰まる。


「なんだアレは!?」


「魔女が!! 貴様、何をした!?」


 男達も気がついたのだろう。

 次々に動揺を口走り、ソレから距離を取る。


 ──最初に目に入るのは、揺めき燃える紅蓮の炎。

 少女の血を触媒とし、魔法陣からは炎が立ち上っている。


 しかしその炎さえも気にならない程、少女の目は確かなソレを捉えていた。


 燃え盛る炎の魔法陣……その中央に佇む存在。

 かつて、獣だった男の成れの果て──

 最初に目に映ったのは、その背中に刻まれるのは白一色で描かれた十字剣。

 そう、それこそが少女の呼び出そうとした『神』だったのだ。


 しかし驚くことに、その『神』は『人』の形をしていた。

 恐らく、受肉した器(うつわ)が『人』の形をしていたからだったのかも知れない。


 彼の者の、芸術的なまでに恐ろしく整った顔には一切の感情が見受けられない。


 無造作に切られた髪は初めて見る漆黒だ。

 それは闇の中……影のように揺らめいていた。


 顔の上半分を隠すように垂れ布のような眼帯が巻かれており、その瞳を見ることは叶わなず……少女自身、見たいとは思わなかった。


 肌は病的なまでに青白く、一度も日の光を浴びたことが無いようだ。

 大きさにゆとりのある服の上からも分かる程に身体が細い。

 その形相はまるで、病(やまい)に侵されて寝たきりになった病人のようだ。

 しかし対照的に、その佇まいは何者よりも力強い。


 身に纏う服は正装と言っても過言ではないほど美しく着込まれていて……しかしそれとは裏腹に、着ている服は切り裂かれボロボロになっている。


 なのに、汚れはおろか……シミ一つない。


 そんな矛盾した姿がより一層、その『神』の恐ろしさを際立たせていた。


 長い沈黙が空間を支配する中、『神』はロングコートを靡かせて、ゆっくりと少女へ歩み寄る。


 その男を見た瞬間……少女の中にある煮えたぎる程の憎悪が消えていた。それ程までに、この『神』の纏う雰囲気が場を支配していたのだ。


 しかしその直後、少女の喉元に何かが突きつけられる。


 それは反りのある片刃の剣、刀だ。

 立体感の掴めない闇色の刀からは影が立ち昇っている。その先端の峰を少女の顎に当て、顔を上げさせた。


「……俺を呼び出したのは、貴様か……?」


 まるで、深淵の底から発せられたように重く、深い響きを持つ無機質な聲が木霊する。


 その聲を聞いて尚、言葉が出ない。

 眼帯越しでも、その瞳を見るのが怖い。


 これが『神』……ただ、そこに存在するだけで、呼吸をするだけで世界が震えているようだ。


 存在としての、格が違う。

 しかし、それだけに美しかった。


 惚ける少女へ『神』が再び口を開く。


「もう一度、問うぞ?

 俺を呼んだのは、貴様か?」


 全てを見透かしたのように落ち着き払った声は、対峙する者の警戒心を奪う。


 驚くほど穏やかな心境の中、少女は『神』の言葉に応えようと口を開いた。


「……助けて殺して……」


 ゆっくりと、最期の願いを吐き出した。


「賽は投げられた。しかし、未だ贄は投じられず……──

 だが例え、それが悪魔の誘(いざな)いとて代償は支払われる……」


 男がゆっくりと頷く。

 そして同時に、支払うべき対価を口にした。


「故に、今一度問おう……。

 貴様は何を、対価とする?」


 再び男が問いかける。

 少女が払う対価を、代償を言葉にする。


 家族が殺されたその時から、その答えは既に決まっていた。


「全てをっ!

 殺して! 私達を助けてっ!

 冒涜した、世界を滅ぼしてっ!」


 ただ、叫ぶ。

 己が望みを、憎悪を、怨嗟を、怨念を、呪怨を……その慟哭に乗せて言葉を紡いだ。


「……契約、成立だ……。

 対価は……、こから重ねられる罪の全てを、引き受けること」


『神』がそう呟いたと思えば、振り返りざま刀を振う。

 そこから放たれた闇の刃が獣達の命を刈り取る。


 血の一滴も残さずに、一瞬の間に抹消した。

 世界から、彼等の存在を削除した。


 その所業はまさに『神』の御業だ。


 殺意も、感慨も、気負いもなく……ただ、命を奪う。

 まるで何気ない作業の如く、慣れ親しんだ行為を繰り返すように、彼等の存在を喰らった。


 そこには力を振るう高揚感も、喜びもなく──

 そこには命を奪う罪悪感も、嫌悪感もなく──


 善悪はおろか、感情さえも遥か彼方へ置き去りにしたかのように表情の一つも浮かばないまま……。


「う、うああああ!」


「ば、化け物だっ!」


 不幸にも『神』の権能を免れた男達が逃げ惑う。


 少女狩りを楽しむ化け物達は……更なる上位者に怯え、逃げ出した。

 化け物をも超える化け物を前に、情けない悲鳴を上げて逃げ惑う。


 しかし悲しきかな……『人』ごときが『神』の手を逃れることなど出来はしない。


 聖堂の外へ逃げた男達の悲鳴はすぐに止んだ。と同時に、視界の上端に映り込む影……それを見上げれば──


「……っ!」


 地面から突き出た黒き結晶によって、身体を貫かれた男達が天に掲げられている。

 ソレは冷たい月明かりの中、恐怖と苦痛に歪んだ表情(かお)をしていた。


 月の中に浮かぶ影から目を離し、彼等を串刺しにしてのけた『神』へ視線を移せば……先と変わらずに何の表情も浮かべていない。


「た、助けてくれて……、ありがとう…ございます……。

 そ、その……宜しければ……、神様のお名前を、窺っても……?」


 恐る恐る尋ねる少女は、既に悟っていた。


 己が願いを叶えて見せた『神』はしかし、彼女に一切の興味すら示していないのだ。


「……名は無い……。あるいは……」


 それでも『神』は彼女の質問に応えた……そう、それはまるで機械的に──……


「……好きに呼べ……」


 そんな彼の言葉に、自身と同じ境遇に……ただ、ただ言葉が出なかった。

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