第一話 堕天の追放者

 冷たい日だった。世界が凍えるような冷たい空間に彼女は生を受けた。


 それはいつかの記憶。

 もう、帰らぬ日。


 それでもよかったのだ。種族の象徴たる翼をもがれ、堕天しようとも彼女は自身を不幸だなどとは思わなかった。


 幼いながらに博識だった彼女は翼をもがれた意味も、自身が追放に至る意味も……そして故郷にとどまったところで自身がまともな末路を辿れないことも、知っていた。


 赤い瞳


 独特な色彩を持つ鮮やかなその赤い瞳は、魔族の血を色濃く受け継ぐ証。そして、その背に持つ純白の巨翼は、純血のそれすらをも上回っていた。


『天魔』


 それは魔族と天族の間に生まれる忌み子。自身の種族を神聖なるものと信じて疑わない天族達は、その血に多種族のソレが混ざることを異様なまでに嫌う。


 他種族の間に生まれたものの殆どは左右の翼が非対称になることや、完全な片翼となる『出来損ない』と呼ばれている。

 更には他の種族が持つ特徴を持った者は『混ざりモノ』として忌み嫌われる。


 ましや神聖なる種族とは対極にある魔族との混血など、その場で血祭りにあげられてもおかしくない。しかし、そうはならなかった。


 純血をも超える強大な翼。

 彼等の力の象徴たる翼。


 莫大な力を持つ者が、その扱い方も知らぬ者が……ただ本能の向くままに破壊の限りを尽くすことは避けねばならない。

 下手に刺激を与えれば何が起こるか……それが予想が出来ないために、辛うじて生かされていた。それでも囚人のように扱われるのは、歳が三つにも満たない少女。泣くこともなく、自身が置かれた境遇を理解し、納得しているその姿がまた、彼女を恐れ、忌み嫌う者達には不気味に映った。


 ──ただひたすらに、彼等は恐れたのだ。まだ年端もいかぬ幼気な少女を……


 生まれながらにして、あまりに強大過ぎる力を持つ彼女を──しかし年端もいかない少女自身は、自分がそんなおおそれた力を持っていることを自覚していなかった。


 ──否、自覚できる筈もなかったのだ。


 七つの時、遂に堕天の刻が来た。巨大な翼は根本からもがれてその背中は彼女の瞳同様、真紅に染まっていた。それでも彼女は痛みに顔を顰めたりなどはしたものの、泣き叫ぶことはなかった。

 地上へと繋がる魔法陣。例外的存在(イレギュラー)として生まれ、力故に恐れられた彼女を他の底へ堕とすための暗い道。力の源たる翼を奪い、もう二度と這い上がることがないように──


 そんな彼女を見下ろすのは天界の長、『主天神殿』。悠然と麗麗たる視線を旅立つ彼女へ向けている。


 周囲の軽蔑する視線とは違う。

 周囲の恐れを抱く視線とは違う。

 周囲の敵意を剥く視線とは違う。


 どこか見定めるようなその視線を真っ向から受けて、少女はその男を見上げる。そうして指を彼へ向けると……否、彼の後ろへ向ける。


「死神がすぐそこまで来ている」


 そう告げれば彼女へ槍の矛先が向いた。しかしそれを意に介さず、少女の視線は男だけを見ている。


「ああ、知っている。貴様には何柱見える?」

「……二柱」


 少しだけ考えるような素振りを見せたの後、そう告げられた答えに男は動じる様子も見えない。


「どう見える?」

「黒い方は靄がかかって見えない。でも、白い方は私と同じ姿」


 直後、少女の喉めがけて槍が迫る。その一撃は確実に彼女の命を奪うモノで、しかし彼女には届くこともなかった。


「……無駄だ……。今に此奴を殺したところで詮無きことよ。死神はもう一柱いるのだからな……」


 どこか疲れたような表情を見せて少女へ向けられた槍の全てを破壊する。そうして再び少女へ視線を戻すと、


「そうか、白い方は貴様だったのか……」


 心得たような、どこか納得したような表情を浮かべると再び少女へ視線を戻す。


「殺さないの?」

「貴様を殺してどうなる? 黒い死神は誰にも止められない。結果は変わらないのだ」


 どこか諦観したような……否、悟りすらも開いたような穏やかな表情で少女を見下ろした。


「そうか、あの翼……貴様は彼(か)の化け物に並ぶ……」


 一人納得したかのように頷くと「いや、いい」と呟きが漏れる。その声は誰にも聞こえず……


「もしまた会うことがあれば、その時は──」


 男が発した言葉の全てを聞き終える前に少女の視界が白く染まり、景色が一変した。

 目の前に映るのは暗い森。転移場所は不規則だと聞いていたが、こうも人里離れた場所に召喚されとは運が無い。


 問題は食糧と水。魔法を利用すれば大抵のことは解決するだろうが、今の彼女にそれだけの技術は持っておらず、囚人同様の扱いを受けていた彼女にはそう言った教養も得られていなかった。

 しかし、盗み見るように多少の魔法技術なら身につけている為、人里に辿り着いたのちにそれらを利用すれば生計を立てることも可能だろう。


 そして何より、翼をもがれた理由の一つもそれだった。翼さえなければ姿形は人間に酷似しており、人里で暮らすことに苦労することもない。唯一の問題はそこで子を成した時に、その子供に翼が生える可能性があることだけだが、


 ──それなら、子を作らなければいいだけ……


 考えつく結論は単純明快。しかし、それがごく当たり前のようにできるほど人の心も、この世界も甘くはない。そして、それは彼女も理解していた。

 誰かと恋仲になり、将来を誓うかもしれない。それならまだいい方で、場合によっては犯され、無理矢理孕ませられる可能性もある。


 目立つ白髪を隠すように黒い外套のフードを深く被り、森の中を進む。今の彼女ではこの森に長居して生き残れる自信はない、それだけの力がないのだ。

 ならば、早いところ人のいる場所まで行く必要があるだろう。


 そう考え、移動を始めようとした直後だった。


「お~い!」


 少し離れたところから誰かを呼ぶ声が聞こえてそちらへ視線を向けると、やや痩せ気味の男が少女へ手を振りながら近づいてきた。


「どうした? もうすぐ日が暮れる、この森は暗くなると危険だ」

「ええ、ですが帰る場所は……」


 彼女の身を案じるような男。その様子を目にして、自身が年ばもいかない少女であることを利用した。

 深刻そうな表情を浮かべ、行く当てがないと言えば彼が近くに村があるからウチに来ないか、と提案する。その提案を呑んで、


「いいのですか? もし、お邪魔じゃなければ……」


 そう言う少女の頭を男は優しく撫でると、彼女の手を引いて森の中を歩いて行く。初めて感じる優しと呼ばれる人の温もり……しかし少女の中にあるのはどこまでそれが利用できるのか、と言う打算的な考えで──


「着いたよ。小さな村だけど、帰る場所がないならここに住むといい」


 優しく話しかけてくれる男に、彼女は小さく頷くとその背中を追いかける。全体的に貧そうな村ではあるが、村人からはその貧相な生活を嘆くような様子は見られず、今日を生きる彼等からは少なからず活気を感じていた。

 贅沢を知らない彼等には、自身を貧しいと思う判断基準もないのだ。それはまた幸せなことであり、これ以上の上があると知らないからこそ、彼等には不満の色も見えない。


 そんな彼等は少女を見ると少し物珍しそうにするものの、森に迷いこんでこの村に来る者は少なくないのか彼等の中で少女の境遇を自己完結させると、すぐに興味が失せたように各々の仕事に戻っていく。


「ここだ」


 そう言って立ち止まった男の前を見ると、そこには古びた……否、粗雑な作りの家が建っていた。古びたように見えたのは作りが少女の知っているそれとはあまりに粗雑な作り故で、思い出せばこの村にある家は大半がこんな感じだったのだ。


「ただいま」


 そう言って木造りで施錠もない扉を開けると、中から彼へ声が返ってくる。そんな何気ない声を聞き微笑みを浮かべる男……その人としての幸せを、しかし少女は理解することが出来なかった。


「あら、その子は?」


 男と同じく、食べる物が少ないせいかやや痩せ気味の女が少女へ視線を向ける。その瞳は慈愛に満ち満ちていて、貧相な見た目とは裏腹にその瞳の奥で輝くナニカに思わず目を奪われた。

 その光は天界では見られなかったものだ。


「森に迷い込んだようだが、少しばかり様子がおかしくてな。もしかすると何らかの理由で故郷に帰れないのかもしれないと、思って連れてきたのだが」

「ええ、それなら貴女が満足するまでウチに住めばいいわ。まぁ、食事分は働いても貰うけどね」


 そう言って少女へ笑みを向ける女性へ心が奪われる。その容姿は決して整っている訳ではないが、彼女が放つ光を少女は見たことがなかった。


「それで、貴女のお名前は?」

「名前は、ありません」


 一瞬、適当な名を名乗ろうとしたが真実を口にする。名がないなど普通あり得ないことであるため、何か探りを入れらる危険性があったがこうも親切にしてくれる者達へ嘘を付くとが何故か憚られたのだ。


「……そう……」


 まるで不憫な者を見るような目で女が少女を見やる。そんな彼女の顔を見て、


「名がなくては不便と言うであれば、お好きに呼んでいただいて構いません」

「……そんなこと──」


 年ばもいかない少女が自身の名前に対してどこか他人事のような様子に、思わず口を紡ぐ。しかしすぐにそんな少女に同情するような表情を浮かべると、穏やかな笑顔を彼女へ向けた。


「それなら"サティナ"なんてどうかしら?」

「お、おい。そんなすぐに決めていいのか?」


 考える素振りも見せずに即答する女性へ男が面食らったように抗議するが、


「いいのよ。あまり深刻に考えて長々とこの話題を引きずっても彼女が可哀想じゃない」

「ああ、そうだな」


 そう言われると男も納得したように頷くと、少女の背中を軽く押して中へ案内する。


「まぁ、立ち話しもなんだ。中に入りな」

「お邪魔します」


 男の催促に従って中へ入る途中、ふと思って名前の由来を女性へ尋ねる。


「その名前の由来はなんですか?」

「私達が信仰する女神の名前から取った名前よ」

「信仰する女神様の名前をお借りしてしまっても宜しいのですか?」


 思わずそう聞き返す少女へ女性が笑う。


「いいのよ。厳密には捩っただけだから。それにサティナの意味には、厄祓いの意味もあるのよ」


 色々と大変な境遇にあっているであろう彼女へ対する配慮なのだろう。それが心なしか嬉しくて、


「ありがとうございます。頂戴したお名前、大切にします」

「いいのいいの、気にしないで。それよりもお腹すいてない? 大したものはないけど何か食べたいでしょう」

「い、いいえ。お腹は減っていないので大丈夫です」


 思わず首を振って遠慮する少女に女性が首を傾げた。


「そう? それならいいけど」

「腹が空いていると言うのでなければ本題に入ろうと思うが、いいかな?」


 少女が腹を空かせていないと分かると、男がさっそく本題に入ろうと木作りの質素な椅子に腰をかけた。そんな彼の手の動きに従い、促されるまま少女も椅子に腰掛ける。


「今後、お前さんはどうするつもりだ? 帰る場所があるなら途中まで送るが、もしそうでないならここに住んでもいいのだぞ?

「私に帰る場所はありません。もし迷惑でなければ、何でもしますのでここで住まわせて貰ってもいいですか?」


 予想はしていたがいざそう言われると、二人は悩ましげな表情を見せる。しかし、すぐに頷くと、


「それはいい。まぁ、まだ幼いから無理をさせることはないが色々と手伝って貰うだろう」

「具体的には何をすれば良いのでしょうか?」

「ここの家に住むというのなら、お前さんの姉になる娘がいるからアイツと同じように仕事をして貰おうか」

「ええ、それがいいわね」


 意外にもあっさりしている二人の様子に面食らいながらも、受け入れてくれることに少し嬉しく感じてもいた。


「ただいま!」


 と、次の瞬間。玄関から少女の声が響く。そちらへ目を向ければ栗毛色の髪をおさげにした少女が二つのバケツを持って入ってきた。


「噂をすれば、だな」

「ただいま。お母さん水を組んできたよ」

「ええ、ありがとう」


 そう話す親子。すると、少女とサティナの視線が合う。


「え、えっと……」


 戸惑う彼女にその母である女性が説明を始めた。


「この子は森に迷い込んでいてね。詳しいことは後で話すわ。取り敢えず今日から貴女の妹になるから仲良くするのよ」

「そう、なの? あっ、私はリアナ。あなたのお名前は?」


 年ば十前後と言ったどこのだろう。そんな彼女の問いかけに、


「名前は……サティナ、です。こちらの、えーっと……」

「そう言えば名乗ってなかったわね。私はマーラ、これからはお母さんと呼んでいいのよ」


 朗らかに微笑みながらそう言う彼女を見やり、再びリアナへと視線を戻した。


「この名前はお母さんが付けてくれました」

「え、お母さんが? 何で?」

「私には名前が無いので……」


 そう言うとリアナがどこか憐れむような視線を向ける。そんな彼女の視線を受けて、しかしサティナはどこか不思議そうに彼女を瞳を見返すだけで……


「今日は遅いわ。二人は身体を洗ってきなさい。その間にサティナの部屋も用意しておかないとね」


 マーラの言葉に従ってサティナはリアナの案内である一室に入った。そこでリアナは服を脱ぐと濡れた布を手に取ってそれで身体を拭き始める。そんな彼女を真似てサティナも着ていたものを脱ぎ、同じく冷たく濡れた布を手に取ると自身の身体を拭き始め、


「えっ!? ど、どうしたのその傷!?」


 突然、リアナがサティナの背中を指してそう叫ぶよつに言い放つ。そんな彼女に対してサティナはどこか冷めた視線を向けると、淡々と説明した。


「これは、追放者の証です」

「ひ、酷い……こんな……」


 衝撃を受けたようにワナワナと震える彼女が目にしたのは、サティナの背中にある翼があったであろう場所。本来、翼があったそこは根本からもぎ取られて赤い二本の縦線が見えていた。

 そんな傷を見てリアナは目を白黒させている。


「今はもう痛みもないので大丈夫です」

「でも……」

「それに今更、この傷をどうこうすることは出来ませんし……」

「確かにそうかも知れないけど……」


 もう、過ぎたこと……仕方のないこと、だ。と言うサティナにリアナは未だ納得いっていないのうな顔を顰めてジッと彼女の背中を見つめていた。

 それでも、それ以上何を言うこともなくサティナは用意されていた服に着替える。ぼろ布を継ぎ接いだような薄い布切れ同然のそれでも、彼女は何の不満も抱かずに身を纏う。


「ありがとうございます」

「そんなんで喜んでくれるなら、こちらも嬉しい限りさ」


 そう言うとすぐに視線を隣りに立つリナアへ視線を移すと、


「うちは狭いから部屋が少ないのよ。リアナと相部屋でもいいかしら? 寝台は後ほど主人が作るけど、今日は一緒に寝てもらないといけないわ」

「勿論、リアナさんが迷惑でなければ……」


 とんでもないと首を振りながらリアナへ視線を向ければ、意外にも彼女は嬉しそうにサティナの手を引く。


「ええ、もちろん! おいでこっちよ」


 手を引く彼女は心底嬉しそうで、まるでサティナのことを妹のように思っている様子だった。今日会ったばかりの人にこうも親切にしてくれる人が一体、この世界にどれぐらいいるのだろうか。

 もしかすれば、『主天神殿』はそれを知って彼女をこの村の近くに転移させたのだろう。多少貧しくとも彼女が差別こともなく、平穏に暮らしていけるように──


「あっ! それと私のことはお姉ちゃんと呼んで欲しいわ」

「わ、わかりました……お姉さん?」

「う~ん。まぁ、及第点かな……」


 少しばかし残念そうにそう言うと、すぐに部屋に中に通してくれた。部屋は例に漏れず質素な木作りで、月明かりが差し込む窓だけが唯一の光源だ。

 薄暗い中を迷わず手に持っていた燭台の火を部屋に置いてあった蝋燭に移す。そうして、気休め程度には明るくなった部屋で、彼女が寝台らしき場所……厳密にはただ一段高くなった広めの棚の上に布を広げただけの場所に腰を下ろすと、サティナを手招きした。


「夜は冷えるわ。一緒に寝ましょう」


 寝台に近づいたサティナの手を取り、彼女を横に寝かすと自身もその隣に横たわって抱き枕のようにピッタリと身体を密着させる。

 まともな暖房手段のないここでは人の温もりのみが唯一の暖かさなのだろう。しかし魔法によって寒さ対策をしている彼女に取ってはさしたる問題でもない。


「貴女、温かいわね。これならよく眠れそう」


 優しく抱きつくリアナ、必要以上の食事が取れない環境故に華奢な身体を抱き返してサティナもその目を閉じる。

 細く、とても肉付きがいいと言えるような身体ではないそれは、なぜこうも温かいのか。硬い鉄の寝台に繋がれていた彼女にはその温もりはあまりに非現実的で──


「スー……スー……」


 間もなく規則的な寝息がすぐ隣から聞こえてくる。一定の規則性を持ったそれがサティナの眠気を誘い……気がつけば、冷たい意識が遠のいていた。

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