ウーパールーパーは水溜まりを泳ぐ

高津すぐり

ウーパールーパーは水溜まりを游ぐ

 玄関には1匹のウーパールーパーがいた。

 変わったものの好きな母が10年ほど前に飼い始め、その後一人暮らしの私に押し付けてきた。

 出会った頃は私も幼子だったので、水中にいる彼のことを魚だと思っていた。

 ウーパールーパーはネオテニーと呼ばれ、幼体のまま成熟する。

 そう知ったのは、僕が生物海洋学に関心を持ち始めた頃だった。


 私の通う大学の研究室は海沿いの辺鄙へんぴな場所に位置する。

 海洋生物を調査する都合上、街とも大学の他の人間とも隔離されていた。

 毎日、誰も乗ってないバスに揺られて水平線に向かう。

 その窓から注ぐ潮風が私には大変心地よかった。

 

「島原君! 島原君!」

 研究室で水槽のゼブラフィッシュを捕まえようとする私に話しかけてきたのは早坂であった。

「朝来たら俺のザリガニ死んでいたんだけど」

「また殺したんですか」

「殺してないよ。死んだんだよ!」

 早坂は私の1学年上、3回生の「死神」だった。

 彼は学部首席であり、実験用の生物を我が子のように愛す奇人であった。

 しかし、彼が世話をする生き物たちは何故か頻繁に死を迎える。そこでついたあだ名が「死神」であった。

「なんで俺ばかりこんな目に……」

「先輩に世話される魚たちが一番そう思ってますよ」

「酷いなぁ」

 偶々私が魚に興味を持たなければ、一生彼と関わることもなかっただろう。


「俺さぁ、水族館で働きたいんだよね」

 いつだか、早坂に連れられて居酒屋に行った時、酒に溺れた彼が口にしていた。

「先輩、水族館を潰す気ですか」

「なんでそんなこと言うの!」

 ピンク色の酒を片手に、乱雑としたテーブルに伏せながら彼は続けた。

「やっぱ俺、水の生き物大好きなんだよねぇ。だから、それ以外の道って考えられないよ……」

「研究職続けてもいいんじゃないですか」

「うーん。どっちも幅が利かないというか、あんまり安定的な職ではないのがねぇ」

 彼はグラスの中で氷を泳がせた。

「島原君は卒業したら何するの?」

「……さぁ」

「何かしたいこととかないの?」

「ないですね」

「えぇ……君も何か目標ないと生きていくの辛いよ」

「……じゃあ先輩について行って水族館にでも就きますよ」

「お! 俺のこと大好きだねぇ。愛いやつめ」

「先輩だけが世話したら、水槽が死体だらけになりますから」

「辛辣だなぁ」

 私は、グラスの結露で出来上がった水溜まりを眺めながら小さく笑った。


 夏の終わり。私はゼブラフィッシュの心電図を撮るため、彼らの腹腔に電極を取付けていた。

 すると研究室の建て付けの悪い引き戸を誰かが開けた。

「島原君、順調かい」

 そこにいたのは、全く似合っていない背広を着た早坂だった。

「そんなコスプレしてどうしたんですか」

「コスプレじゃないよ!」

「じゃあ葬式ですか」

「喪服でもないよ!」

 いつもの不毛なやり取りであるのに、彼の顔になんとなく翳りが見えた。

「面接行ってきたんだけど、結構好感触だったよ!」

 世俗離れしている彼の口から、また似合わない言葉が出てきた。

「へぇ、どこの水族館なんですか」

 早坂は変に口籠って言った。

「……いや、水産食品メーカーだけど」

 その瞬間、研究室が丸ごと海に沈んだように、静寂が生まれた。

 ただ水槽のサーキュレーターが、ブクブクと空気を送る音だけが響いていた。

「や、まあ俺も色々考えてさ……」

 先輩は弁明をするように言葉を発していたが、私の頭には入ってこなかった。

「良かったですね」と突き放すような台詞を吐くので精一杯だった。

 瓶の底のように澱んだ空気で、早坂は「ごめんね」と残して帰っていった。


 その夜、ふと気が付くと私の身体は家の玄関にあった。

 街も寝静まっていて、あの研究室と同じようにウーパールーパーを生かすサーキュレーターだけが音を上げていた。

 外の廊下の蛍光灯が、窓から光を差す。

 その灯りで水槽の彼の笑った顔が見える。

 私は彼と同じように、水溜まりほどの狭い世界を泳いでいたのだ。

 外の世界に目をやらず、自らの幼さと青さに気づくはずかないままこの世界を漂った。

 そんな自分があまりに惨めで、私は涙を流していた。

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ウーパールーパーは水溜まりを泳ぐ 高津すぐり @nara_duke

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