人虫境界曼荼羅

蒼天 隼輝

昼の出来事

 うだるような暑さが、旅先の空気をとにかく粘度の高いものに変えている。不快が募る中見る害虫というものは、格好のうっぷん晴らしの対象だ。反射熱で弱っているのか、道の上でほこりのように揺らめく黒い蚊を、俺は何の感慨かんがいもなく両手で潰す。汗で薄く膜を張った手にしては、ずいぶん渇いた音がなったものだと我ながら思った。

 不服だが、死んだ事を確認するためにてのひらを開いてのぞき込む。無意識にすり潰したからか、手には死骸しがいで黒いおうぎが描かれていた。体液が黒ということは、血を吸っていないメスか、それとも不幸にも踊り出てきたオスか。

 どちらにせよ、不幸だったことには違いない―――――


「おやおや、潰されてしまったのですね。血を吸っていないならなおの事、払うだけでよろしかったでしょうに」


 急に話しかけられ、柄にもなく肩が跳ねた。振り返れば、この猛暑日の中網代笠あじろがさを被った黒衣の僧侶が一人。いわゆる典型的な"お坊さん"だが……この暑い中にこのフル装備、見ている側も熱いぐらいで信仰とはいえ少々正気を疑った。

 それはともかく。この後は所詮しょせん殺生はダメだのなんだの、お決まりのフレーズが続くに決まっている。俺も不幸だったと割り切って、この場では適当に受け入れておけばいいのだ。熱にやられかけた頭でも、それぐらいの空気は読むことができる。


「……はあ。すみません、なんも考えてなかったです。俺も刺されるのヤだったんで。次から気を付けます」

おごるのはよくない事ですよ。虫も同じ一つの命、人間と同様と思えば貴賤きせんなどありませんから」

「ふーん……そうっすか」


 ああ、やっぱり面倒な類だ。話しかけてくる時点でそうだと思ったが、これだから俺は信仰というものをあまり好きになれない。そもそも蚊は害虫で、言ったところで此方の道理を理解してくれる訳がない。害をなす虫を潰すことに、本来倫理など何らないはずなのだ。

 生きている物を殺したくないという思いやりを個人が持つのは勝手だが、他者にも同じ思考を求めがちになるのは何なんだろうな。嫌な顔が表に出ていたかどうかはわからないが、俺にかまわず僧侶は俺の後ろへすり抜けていく。笠のせいで、僧侶の表情は見えない。たまたま見かけた俺にご高説を披露することができたドヤ顔を、見たいかと言われればまた別の話だが。

 横をすり抜ける直前。僧侶が再び俺に話しかけた。


「ああ、受け取りづらい言い方をして申し訳ございません。この一言だけを心にとどめていただければ幸いです。


―――――貴方と先ほど貴方が潰した蚊、そう違いはありませんよ」


 やけにねっとりとした最後の言葉に、相槌の言葉すらすっぽ抜けた。何だこいつは。俺には大した学はないとはいえ、仏教ってそんなものだったか?こいつは本当にまっとうな僧侶なのか?

 混乱というより恐怖を覚えた俺を、既に歩き出している僧侶は既に気に留めていないようだった。振り返れば、手をすり合わせ、僧侶は何かをブツブツ唱えている。


「……れるなあ、……まれるなあ」


 肝心の言葉はあまり聞き取れなかったが、これ以上近くにいない方がいいのはわかる。狂人から離れたい一心で、俺は来た道を足早に引き返した。


**********


 何とも言えないもやもやを引きずりながら、俺は


 旅の目的など最初から特になく、この夏は遠方に出かけたという事実だけを作りに来たに等しい。さすがに話のネタは欲しかったので、俺は観光地紹介の動画やサイトを見漁り、人が少なそうな場所を選んで一瞥いちべつしに行っていた。やけに細い水漏れのような滝、木目を彷彿ほうふつとさせる地層の一部、想像よりも小さく双眼鏡がないと見るのがキツかった壁面に埋まった地蔵……。人が少なそうな穴場には、穴場なりにショボい理由がしっかりあるのは学びだった。


 そして今日は、「秘境にそびえるパワースポット、謎の塚を拝め!」なる動画での紹介場所がたまたま宿から近かったから来ただけだった。塚自体は、なんだったか……虫の供養の目的だったような?いざ行ってみたら三角コーンで道がふさがれて立ち入り禁止となっていたが、その後ろには開けた太い未舗装の道があるだけで、特に危険な感じはしなかった。

 仮に危なかったら引き返して、遠目から見てすぐ帰ればいいだろう。そんな気持ちで三角コーンを脇によけて道を進んだはいいものの、雑草が高く生い茂っている事もあって肝心の虫塚とやらが見つからない。代わりに見たのはあの坊さんただ一人だ。近くに寺でもあるならわかるが、なぜわざわざあんな所にいたのかもわからない。

 目当てのものも見つからず、人を避けたつもりがよくわからない相手に変な絡まれ方をした。……今回の穴場を巡る旅で、一番外れだったのではないか。


 三角コーンが来る前と同じ位置に来ている事を確認して、道に付いた引きずった跡を靴で適当に消しておく。他には誰も見ていないから、俺が勝手に覗いたこともそう簡単にバレはしないだろう。とにかく時間を無駄にした虚しさと共に、俺は宿へ続く大通りに戻っていった。




 その夜、猛暑の中歩いた疲れと合わさって、俺はやけに早く眠りに落ちたのだった。

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