スパイの憂鬱

いちはじめ

スパイの憂鬱

 仕立ての良いスーツに身を包み、小包を小脇に抱えた男が、それとなく周りに気を配りながら、マンションのエントランスに入っていった。そして階段を使って六階まで上がり、一番奥の部屋のドアを用心深く開いた。


 その部屋は、よく言えば余分なものがない質素な、悪く言えば何の温かみもない寒々とした、およそ生活感と云うものの欠片もない空間だった。

 男はスーツの上着を脱ぎ、奥の部屋に入ると、簡素なPC用デスクに通販会社Mのロゴがプリントされた小包を置いた。


 ――やれやれ、ミッションを終えたばかりだというのにもう次のミッションの指令か……。なんと人使いの荒い組織なんだ、ブラック企業とはまさにうちのことだな。

 苦笑しつつ男は丁寧に小包を開けた。中にはいつもの通り、通販カタログとメモリーカードが入っていた。ネット通販会社Mは、実は諜報機関Xが世を忍ぶために使うダミー会社で、男はその組織に属する腕利きの諜報部員、つまりはスパイだった。今回、組織から新たな指令が届いたのだ。

 男は送られてきたカタログからパスワードを解読し、そしてそれを使いメモリーカードに格納された文書をPCモニター上に開いた。


 ――はぁ?

 男はに開いた文書を見て素っ頓狂な声を上げた。そこに予想外の『休暇命令』という文字があったからだ。

 今回のミッション成功と長年の労をねぎらい、一か月の休暇を与えるとある。費用は組織持ちかつ無制限とも書かれている。

 これが一般企業ならもろ手を挙げて万々歳なのだろうが、職業柄本当に組織からのものか確認する必要がある。この稼業、何事も疑いを持って当たらねば、寝首を欠かれることもある厳しい世界なのだ。男は小包の包装やデータソースから、ことの真贋を慎重に探ってみたが本物という結論に至った。

 ただ本物だとしても、最悪、組織の裏切りという可能性もある。

 しかし自分で言うのもなんだが、俺は優秀なスパイで組織の中でもトップを争うほどの腕と実績を誇っている。現時点で、組織が俺を裏切るメリットなど、どう考えてもない。本当に休暇を取ってもよさそうだ。


 そう結論付けた男は、ひとまずお気に入りのウィスキーで一息つくことにした。

 ――休暇か……。ベッド兼用のソファーに背を預けて男はため息をついた。この稼業についてから休暇というものを取った記憶がないのだ。

 休暇と聞いて、海辺や高原の高級リゾートホテルでの長期滞在、豪華客船での世界一周、有名カジノなど思い浮かべてはみたが、どれも気が進まなかった。なぜならそれらはスパイ活動の現場だからだ。

 そこでは今も数多くの神経をすり減らすようなスパイ戦が行われているはずだ。そんなところで組織のバックアップもなく、単独で休暇だなんて、どんな目に合うか考えただけでもぞっとする。

 ならばどうする。組織にも把握されていない隠れ家セーフハウスを転々とするという手もあるが、それでは今と変わらない。人気ひとけがなく、近づく者を容易に発見できる場所なら安心して休暇を楽しめそうだが、そんなところがどこに……。

 男は長い思案の末、一つの結論に達した。

 南海の孤島なら一人の時間を楽しめそうだ。その為には、いろいろと準備する必要もあり金も掛かるだろうが、なぁに経費は組織持ちだ、気にする必要はない。


 男は早速準備に取り掛かった。

 無線が通じ、近場の港から最低一日の距離という条件に合致した、南海の孤島は意外に早く見つかった。そして男はその島の生態系調査という名目で上陸許可を得ることに成功した。

 次に島の防備を固める設備・資材を準備した。休暇と言っても敵対勢力がそれを考慮してくれるはずもない。いや、それこそ絶好の機会と狙ってくるかもしれない。

 船舶・航空機の接近を探知する簡易型レーダー、海中からの接近に備えるための水中マイクロフォン、上陸してきた者を探知するためのレーザーセンサー、万が一敵が攻撃してきた場合に備えての携帯型地対空ミサイルランチャーや短機関銃、予備弾倉、手りゅう弾、暗視野ゴーグル、その他諸々。これらはこれまでの仕事で培ったつてを頼って、何とか手に入れることができた。また食料や水、燃料、発電機などの生活物資、それと住居のためのコンテナ――普通の銃弾では貫通しない特殊装甲を施したもの――も抜かりなく手配した。

 それらは怪しまれないように巧妙に偽装して島へ運び入れた。諸々の設営は、既に引退している数名のエージェントに頼ることにした。彼らは声を掛けると喜んで応じてくれた。


 男は全ての設営を終えて、最後にチャーターした小型艇の船長に報酬を支払った。

 さて、生まれて初めての休暇のはじまりだ。男は少しばかりうきうきしていた。

 そんな男に船長が声を掛けた。

「それで、いつお迎えに上がれば?」

 男はつかの間考え込むと、深くため息をついてこう答えた。

「……だ」

                                   (了)

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