両側の心臓

 〝クリスマスに龍麟岳に龍が舞い降りた〟

 円窟神社奥社で行われる予定だった大御神火祭は原因不明の大火事によって中止され、全国ニュースでも報道される程の騒動となってしまった。松元の市街地では龍麟岳にかかる雪雲がまるで龍の様に見えると話題になり次々と写真がSNSに上げられた。しかし一週間もすれば騒ぎも収まり、潔乃が目を覚ました頃には既に数日前の新聞の記事でしか情報を得ることができなかった。

 十二月三十一日、大晦日。潔乃が松元の病院で意識を取り戻した時、側にいた母親に号泣されてしまった。すぐに父親と弟も駆け付け家族四人で無事を喜び合った。外傷もなく脳に異常もないのに一週間も意識不明であったらしい。最近家族に心配を掛けてばかりだ。後できちんと謝らないと……だから今は、今だけは。

(お願い、無事でいて……)

 スマートフォンをなくしてしまい、誰とも連絡を取れていなかった。昼の間に病院の公衆電話を使い神社に電話を掛けたが通じなかった。孝二郎たちの連絡先も覚えていない。どうして書き留めておかなかったんだろう。そんな後悔も虚しく、現状を把握できないまま検査やらで時間を使い、いつの間にか夜の十一時を回る時間帯となってしまっていた。

 潔乃は冷気が伝わるくらい窓に近付いて、大切な人の無事を祈った。胸に手を当ててもそこには何もない。輝石は砕けてなくなってしまった。外では細かい雪がしんしんと降り積もっている。目を凝らしても龍麟岳を見通すことはできない。

 潔乃はカーテンを握り締めて項垂れてしまった。とっくに消灯時間を過ぎた病室の、耳が痛むくらいの静寂に、心が押し潰されそうになる。どうか神様。知らない神様だってなんだっていい。これ以上何も望まないから、私の全部をあげてもいいから、どうかあの人の命を返して――

 コンコン、と、窓を叩く音がした。

 勢いよく顔を上げると、そこには、夜に溶け込んだような黒色の翼の持ち主がいて、窓の桟に足先を掛け室内を覗き込んでいた。

「大橋さっ……!」

 思わず声を上げて窓に貼り付いてしまった。大橋はにこりと笑うと懐からメモ紙を取り出し、ガラス越しに「休憩室 南側 一番左の窓」という殴り書きを見せた。そして人差し指を口に当て潔乃に合図をすると、軽やかにその場から飛び去ってしまった。

 慌ててカーディガンを羽織って躓きそうになりながらも病室を飛び出す。逸る気持ちを抑えながら、誰かに見つからないよう静かに、けれど足早に休憩室を目指す。廊下の角を曲がり広々としたそのスペースへ足を踏み入れると、一番奥の窓で待機している大橋の姿が目に入った。彼はひらひらと手を振り、外から窓を開けた。深夜の冷たい風と共に雪がはらりと舞い込んできた。

「こんばんは伊澄さん。体調はどうですか?」

「大橋さん!」

 感極まって泣きそうになりながらも、堪えて窓側へ駆け寄った。心臓がバクバクと脈打っている。潔乃は震える声で大橋に尋ねた。

「彦一君はっ……!」

 大橋は満面の笑みを浮かべて、

「大丈夫。生きてますよ」と頷いた。

 潔乃は目に手を強く押し当て溢れそうになる涙をぐっと堪えた。生きてる。生きてる。大橋の言葉を噛み締めながら自然と、何とも知れない何かを拝んでいた。この世界のすべてに、感謝せずにはいられなかった。

「急ですが、今から君を彦一くんの元へ連れて行きます。なので、背中に乗ってもらってもいいですか? 彦一くんじゃなくて申し訳ありませんが」

 冗談っぽく笑う大橋の言動に潔乃は頬を赤くさせた。気を取り直し窓に足を掛けてよじ登る。桟に腰掛けている大橋の肩に手をやった。

「お願いします。えっと……こうですか?」

 大橋の背におぶさる。不思議と寒さを感じなかった。

「わ、あったかい」

「あはは、それはよかった」大橋が前を向いた。

「では行きますよ。しっかり掴まっててくださいね」

 翼が大きく開いた。それと同時に身を乗り出し、澄んだ空気が満ちる真冬の夜空へと飛び立っていった。


 八柳邸へ着くと、こちらが玄関を開ける前に孝二郎が飛び出してきた。

「伊澄ちゃん! 無事かっ? 身体は……」

「私は大丈夫です、それよりもっ……!」

 孝二郎を押し退けて家へ入る。すると、左へと伸びる廊下に面した和室から春枝の声が聞こえてきた。誰かを制止するような声だった。勢いよく襖が開いた。春枝に支えられながら、そこに立っていたのは――

「彦一君!」

「伊澄さ――」

 彦一が言い終わる前に勢いよく抱き着いた。首に腕を回してしっかりと相手の頭を抱える。彦一の姿を目にした瞬間から、堤防が決壊したようにぼろぼろと涙が溢れて止まらなかった。勢いに押されてふらついた彦一を引き寄せて、倒れないように堪えた。大丈夫。私だって彦一君を支えられる。

 背後でおおという歓声のような声が上がったが、周りの目線なんてもう気にならなかった。今は彦一の体温を、命の温かさを、感じていたかった。


 だんだんと涙が収まってくると、途端に今の状況が気まずくなってきた。部屋に二人きりで、彦一は布団に入り上半身を起こしてこちらが泣き止むのを待っている。彦一はまだ体調が万全ではなく、一日のほとんどを療養に費やし体力の回復に専念している状況だという。

「あの、ご、ごめんね……」

 身体中の水分が涙に変わって出尽くしたのではないかと思う。泣き腫らした顔を見られたくなくて春枝がくれたタオルに顔を埋めている。情けない。みっともない。潔乃は少しだけタオルをずらして上目遣いに彦一を見つめた。すると彦一が身体を寄せて、潔乃の首にそっと手を当てた。

「……怪我は」

 神妙な面持ちで喉の辺りを睨んでくる。潔乃はどぎまぎしながらも声を明るく作った。

「だ、大丈夫。すぐに治ったよ。黄金背さんの力って凄いね」

 言いながら相手の近さに戸惑っていた。いつもなら適度な距離を保っているのに、何かが吹っ切れたかのように遠慮なくこちらに触れてくる。

「彦一君の方は……」

「うん、無事。生きてる。君のおかげで」続けて彦一は潔乃の手を取った。

「……伊澄さん、ごめん」

 掴まれた手をそのまま膝まで下げられてしまい、タオルで隠していた顔が露わになった。彦一の改まったような態度に、視線を逸らせなかった。

「俺は君に嘘を吐いた」

「嘘……?」

「本当は応援なんて全然してない」

「えっ?」

 彦一が躊躇うように顔を横に背け、そして再び潔乃を正面から見つめた。琥珀色の瞳が熱っぽく揺れていた。

「……俺以外の男が君の隣にいるのは、嫌だ」

 まだ血色の良くない顔にさらに苦悶を滲ませて、彦一が呟いた。感情の不器用な発露。再び込み上げてくるものを潔乃は懸命に抑えた。

「不思議だったんだ。どうしてこんなに苦しいのか。君と一緒にいると安らぐのに、でも同時に胸が痛かった。怖かった。空っぽの自分が変わっていくことが。君を思うと、心がどこに在るのか分かる」

 彦一が激しく咳き込んだ。潔乃が身体をさすろうとすると、彦一が待てと言うように潔乃の手を止めた。

「彦一君無理は」

「いや、つたえたい、ことが」

「でも」

「今がいい」

 手を握ってきた。冷たいのに汗ばんでいる。ひんやりとした指先を温めるように潔乃は彼の手を包み込んだ。

「君には幸せになってもらいたくて、でもその時俺は側にいられないんだと思うと悲しくて、何故だかそれがすごく大事なことのように思えて……」彦一がゆっくりと、慎重に、言葉を選ぶ。

「あの時……自分の心臓を焼いた時、これで終われるって思ったのに、すごく苦しかった。君に何も伝えられないまま消えていくことが……辛かった。生きたいと思った。俺は……君が幸せを感じる時に、君が見る景色の中にいたい。できれば一番近くで、隣で」

 彦一が深呼吸をして向き直る。潔乃は彼の次の言葉を待った。

「俺は……伊澄さんのことが好きだ。誰よりも大切に、思ってる」 

 止まっていた涙が再び溢れ出した。衝動を抑えられず、潔乃は彦一の胸に飛び込んだ。背中に腕を回して力一杯抱き締める。温かくて引き締まった身体の感触が、ぴたりとくっついた自分の上半身から伝わる。はだけた長着の胸元から肌の匂いがして、切なさに胸がじんと動いた。

 彦一は躊躇いがちに潔乃の背に触れ、抱き返した。最初はそっと、壊れないことを確かめた後は、力強く。潔乃は彦一の体温に包まれていた。全てを焼き尽くす炎の熱さではなく、人間を生かす血の温かさだ。感情がほどけるように、勝手に言葉が口から飛び出してきた。

「私も彦一君が好き。大好き。ずっと前から……初めて会った時から」

「……」

 しばらく彦一の体温を堪能していたが、何の反応もないことに戸惑って潔乃は身体を離した。見上げると、彦一がぽかんとした表情で瞬きをしていた。

「どうしたの……?」

「……いや、」掠れた声が漏れた。

「先のことを何も考えてなかった……」

 気の抜けた返事に、思わず吹き出してしまった。彦一がばつの悪そうな表情を見せる。くすくすとひとしきり笑った後、不意に我に返って相手の顔の近さに動揺する。

「あ、あのっ、わたしも、謝らなきゃ、いけなくて……」

「なにを?」

「私……みんなの前で……」

 奥社でのことを思い出して急激に体温が上昇した。あの時は無我夢中だったからそういうことを考える余裕なんてなかったけど、今思えば物凄く大胆な行為をしてしまった。儀式だったとはいえ、人前で……

「……」

 彦一の大きな手が、節ばった長い指が、潔乃の柔らかな髪を掻き上げた。そのまま頬に触れて、潔乃の顔を上向かせた。潔乃は息を呑んだ。鼻先が触れるくらいの距離で、お互いの視線が交わった。そのまま自然と距離が近付いていき――


 ――ゴォオオ――――ン――――――


 鐘が鳴った。新年を告げる鐘の音が、その場の空気を震わせた。二人ともピタリと固まってしまった。

「煩悩が消えちゃうね……」

 いたたまれない空気に焦って変なことを口走ってしまった。余計な汗をかく。雰囲気が台無しだ。潔乃は眉を下げたまま困ったように笑った。

 つられて彦一も笑った。少年っぽい、はにかんだ笑みだった。

「じゃあ……全部なくなる前に」

 吐息がかかって、唇が触れた。一瞬のことだったので反応できず、目を大きく見開いたまま硬直した。息を止めて、目の前にある彦一の閉じた瞼を凝視する。少しでも動けば触れてしまいそうなくらい近くにあって、睫毛の一本一本が数えられるんじゃないかと思うほど鮮明に見える。

 彦一の身体が離れた。誤魔化すように明後日の方向へ視線を逸らし口元に手を当てている。頬を通り越して耳まで赤くなっている。こんな表情は初めて見た。胸がぎゅうとときめいて壊れてしまいそうだった。

「ず、ずるい。私もっ」

「え」

 逃げ腰の彦一に迫って今度は自分から唇を重ね合わせた。少しかさついた唇の感触を感じ取る。それでも、どうしても羞恥心がまさって、逃げるように彼に抱き着いてしまった。

 彦一が愛おしむように潔乃の頭を撫でた。しばらくそうやってじっとしていた。身体の両側で心臓が鳴るのが分かる。強く脈打つ鼓動が、生きているということを実感させた。


 年が明けて数日が経ち、潔乃は無事に退院することができた。肉体に不具合を感じるところはなく、元通りの健康な自分の身体という感じがする。ただ、胸の奥が確かに軽くなった感覚はある。自分の心臓にはもう一つ、別の魂が宿っていた。長い間彷徨っていたのは氷蓮だけではなかった。それを潔乃は、思い出していた。

 自宅のテレビから京都の違法複合施設摘発のニュースが流れていた。地下施設最下層では非人道的な性風俗の営業が行われており、出資者である著名な政治家が逮捕された。潔乃の脳裏に、氷蓮の悲哀に満ちた微笑がよぎった。

 結局、氷蓮の話に出てきた〝仙君〟が何者なのかは分からずじまいだった。政治家が逮捕されたのも単なるパフォーマンスだろう。切り捨てられただけだ。この件は大橋が率いる神狗会が引き続き調査を進めるそうだ。大橋は元々「探し物をしている」らしかった。何を探しているのか聞いてみても「天狗の秘密です」と笑ってはぐらかされるだけだった。


「俺さいしょっから蚊帳の外だったのかよ……かっこわる……」

 公園のベンチで項垂れている颯真に、潔乃はこれ以上どう声を掛けたらいいものか、悩んでいた。隣にいる彦一も黙って俯いている。

「あの、ほんとうに、巻き込んじゃってごめんね」

「いや、それは別にいいんだけど、神様とかなんとかっていきなり言われてもなあ……」颯真は比較的明るい色の髪をくしゃりと掻き上げた。

「信じられないけど、実際見ちゃったしな。色んな事情あったんだな。……八柳」

「……なに」

「殴って悪かった」

 颯真が顔を上げた。彦一も彼の視線を受け止めた。

「……俺も、悪かった」静かで、歩み寄るような声色だった。

 潔乃は二人が仲直りしてくれたことに感激して、その表情を和らげた。きっとこの二人のことだから、険悪な雰囲気なんてすぐになくせるだろう。できれば、彼らが友達同士になってくれたら嬉しい。

「潔乃~!」

 寒空の下に元気な声が響いて、三人は声のした方へ振り向いた。仁奈と美夜子がこちらへ歩いてきていた。仁奈が大きく手を振っている。今日は、仁奈の発案で潔乃の退院祝いをしようということで集まっていた。

 二人と合流して早速目的地へと歩き出す。近くの洋食屋で昼食を取る予定だった。潔乃も皆に着いていこうとして、しかし慌てて踵を返した。公園の植え込みに向かってさり気なく拝む。木の根元に、小さなお墓ができていた。

「潔乃ちゃんどうしたの?」美夜子が待ってくれていた。

「ごめん、何でもないよ」

 美夜子と並んで歩き出す。すると美夜子が潔乃の顔をじっと見つめながら、

「潔乃ちゃん」

「なあに?」

「神様、見つかって良かったね」

「えっ⁉」

 動揺をあからさまに表出する潔乃を見て美夜子がくすっと笑った。「そんな反応したら分かっちゃうよ」

「な、なんで……?」

「なんとなくそうかなって思ってて。夏祭りの時に確信した」

 そう言うと美夜子は、彼女にしては珍しく得意気な笑みを見せた。想像力と洞察力が高すぎる。というか私が分かりやすすぎるのかもしれない……

 潔乃は否定も肯定もせず、横に並んだ大事な幼馴染と顔を合わせた。

「ずっと心配かけててごめんね。ありがとう。私はもう大丈夫」

「うん。知ってる」

 二人は笑い合った。小さな頃から要領の悪い自分を見守ってくれていた存在に、潔乃は胸中で感謝した。


 四百五十年前に、戦があった。然火の谷と呼ばれる山深い場所に製鉄の里があり、周辺では豊富な鉱石が採れ大量の木炭を生成できる資源もあり人々の活気で賑わっていた。しかし苛烈な戦の時代へ突入し、人間が火を酷使するようになると次第に火の神との衝突が絶えなくなった。人間が玄狐の兄弟神――翠狐すいこの隠し森を穢したことをきっかけに玄狐との争いが激化し、怒り狂った火の神は三日三晩暴れ続け然火の谷の全てを焼き尽くした。この時、疲弊した玄狐に心臓を喰われ身体を乗っ取られた青年がいた。青年は玄狐の魂を宿したまま、京都から遣わされた高名な陰陽術士に調伏され岩戸の奥に封じられた。

 然火の谷は現在、奥木蘇ダムの水に沈んでいる。


「伊澄ちゃんはすげーよな。俺が十八年かけてやれなかったことをたった半年で成し遂げちまったんだから」

 奥木蘇湖にかかる橋の上に、講社の面々が集まっていた。谷を吹き抜ける冷たい風が髪を乱し頬を容赦なく叩く。潔乃は孝二郎の何気ない呟きに素直な気持ちを返した。

「……ううん。全然そんなことない。私はむしろ孝二郎さんが羨ましいです。だって彦一君、孝二郎さんのことすごく大事に思ってるから。彦一君は孝二郎さんと同じように生きられないことが辛くて、あんな風に頑なになっちゃったんだと思います」

 岩戸の封印が解かれた年の秋頃、彦一と孝二郎は奥木蘇ダムの紅葉を見に行ったそうだ。しかし燃えるような紅葉が大火を思い出させたのか、彦一は過呼吸になりしばらく蹲って震え続けた。それから数か月間は抜け殻のようだったという。この頃から表情が硬く、無感情な今の彦一の原型ができ始めたと孝二郎が教えてくれた。

 潔乃の返答が予想外だったのか、孝二郎は目を丸くさせた。そして、はっきりとした目鼻立ちの全部が、喜びに染まった。

「……だよなー? あいつ俺のこと大好きだもんな」

「おーい! そろそろやるよー」

 橋の中央からジーナの声が聞こえた。潔乃と孝二郎は駆け足で近寄った。彦一が陶器でできた壺の蓋を開けた。それを逆さまにして何度か振り、橋の下へと中身を撒いた。灰色の粉が風に煽られ空に散開していく。その小さな粒の煌めきはやがて宙に溶け、自然へと還っていった。

 目を細めて思い詰めたような表情をしている彦一の背中を、潔乃はそっと撫でた。


 区切りをつけるための儀式的なものだった。皆大人しくしてはいるが重苦しい空気は感じない。彦一のこの先を願う仲間が自分以外にもたくさんいてくれることが、潔乃にとっては心強かった。彦一が天里の隣に並んだ。

「……天里は、いいのか」

「なにがだい」

「また独りだ」

「ん?」

「玄狐の力を失って、俺は、ただの……」

「……ずいぶん人間らしいことを言う様になったじゃないか」

 天里が歩き始めた。先頭に立って帰り道へ足を進める。潔乃の横を通りかかった時に、潔乃の肩にポンと手を置いた。不思議と、力を貰えたような気がした。

 天里に続いて春枝、ジーナとイオシフ、みこまも帰り始めた。ジーナが笑いながら彦一と潔乃の頭をくしゃくしゃと掻き回す。みこまも二人の背中を押すような仕草をして駆けて行った。最後に孝二郎が「帰るぞ」と言って微笑んで、前を向いた。

 潔乃は彦一の横顔を見つめた。一つ、伝えたいことがあった。天里に後で説明すると言って、まだしていなかったことだ。

「私ね……こんなこと言うと変に思うかもしれないけど、生まれる前の記憶がちょっとだけあるの」

「生まれる前……?」

「そう。その時、誰かと一緒にいたの。その人に全部教えてもらって、そして彦一君のことを頼まれた。それを思い出したの。儀式が成功したってことはたぶん、」

「……うん」

 その先を言わずとも、通じ合うものがあった。

「伊澄さん」

「なに?」

「……本当に、側にいていいの? 俺は……人殺しで……」

「うーん……じゃあ、立場が逆だったらどうする? 彦一君は私から離れる?」

「離れない」彦一は首を横に振った。

「よかった、同じだね」

 潔乃は彦一と手を繋いだ。彦一が控えめに、けれどしっかりと握り返してくれた。それだけで何でもできる気がしてくる。勇気が湧いてくる。

「一緒にいっぱい考えよう、これからのこと。私たちは同じ時間を生きていくんだから」

「……」

 彦一が耳元に唇を寄せてそっと何かを囁いた。ありがとうと聞こえた気がした。


 どんな思いを抱えてこの十八年間を生きてきたんだろう。彼の孤独や不安、罪の意識はどうしたって完全には分かってあげられない。なくすことはきっとできない。でもこの人が……強くて優しくて弱いこの人が、少しでも多くの時間を安らかに過ごせるように、できることはなんでもしてあげたいと心から思う。

 孝二郎に呼ばれて、慌ててその場を後にした。生まれ変わったような気持ちだった。大切な人と想いを確かめ合って、笑い合って、これから先のことを約束して。長い間燻っていた気持ちが晴れて視界が開けたような、新鮮な感覚がする。

 薄い太陽の光が差し込む空の下で、仲間たちが待ってくれている。彦一だけじゃない。自分にとっては何物にも代え難い大切な存在だ。愛してもらっている分、私も人を愛したい。私は、与える喜びを知る人間になりたい。

(なんて綺麗なんだろう、この世界は)

 大好きな人がたくさんいるこの世界が愛おしいと、自分の全部でそう思えた。

 彦一と共に駆け出した。火事の後始末がまだまだ残っているというのに、どうしてか心が弾む。走り出した身体が軽い。このまま冬を飛び越えてしまいそうな、そんな晴れやかな気分だった。今日が終わったら、明日はどんな日になるだろう。どこまでも良い明日を、信じていたいと思った。冬が終わると、また新しい季節が始まる。

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玄狐の心臓 道草 @yukichima

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