④-4

 緩んでいた空気が一瞬にして張り詰めた。

「今の、天里さん……?」

 上から降ってきたように聞こえる声に困惑した表情を浮かべて、潔乃は天井を見上げた。彦一は彼女にも分かるよう、言葉を口にして天里の呼び掛けに応えた。

「どういうことだ」

『四半刻前に水樹沢みずきさわの原生林で薬剤らしきものを投げ込んだ者がいる。恐らくその影響で蛟が動き始めた。イオシフが異変に気付いて其奴を捕らえ、今は正沢しょうざわの衆に身柄を拘束してもらっている。尋問は後回しにして今は蛟の討伐を優先する』

「被害状況は」

『まだ地中から姿を現していないが、地鳴りが酷い。雨風も急に強まって今はもう目の前ですらよく見えないくらいだ。このままだとここ数百年で最悪の災害が起こるかもしれん。そこにテレビはあるかい? そろそろ速報が入るんじゃないかね』

 潔乃が慌ててテレビのリモコンを取り、電源を入れた。公共放送のチャンネルに変えると「異常な雨雲の発達 土砂災害警戒情報 木蘇一部地域に避難指示」という速報のテロップが今まさに映し出されていた。その場の空気がしんと静まり返り、キャスターが原稿を読み上げる声がひどく無機質に耳に響いた。

『周期がおかしい。早過ぎる。まず間違いなく故意に引き起こされている。蛟級の化け物となると我々だけでは手に負えない。しかも、大黒蛟オオクロミズチが動き出す可能性がある。彦一、お前の力が必要だ』

 淡々と情報を伝える天里の声に、隠しきれない焦りが滲んでいる。三十分で状況が一変したのだ。このまま放っておくと事態は加速度的に悪化していくだろう。

「……分かった。すぐに行く」

「私も行く!」

 思いも寄らない発言に驚いてしばし絶句する。無意識に顔をしかめて睨んでしまったが、しかし潔乃は臆さずに彦一の目をしっかりと見据えた。

「何を言って」

「避難指示が出されたんでしょ? 円窟神社は避難場所になってる。奥木蘇おくぎそ地区のお年寄りには足の悪い人も多いの。おばあちゃんたちを助けたい。私なら勝手が分かるし防災倉庫に何が入ってるかも知ってる。絶対足手まといにならないから、私も連れていって」

「駄目だ。君を危険な場所に連れてはいけない」

「天里さん、こんな状況で人手も足りないでしょう? 私、地区長さんの連絡先も知ってます。防災マップだって訓練の時に確認しました。役に立てるから、私も行かせてください」

「君をおびき寄せる罠だったらどうする」

『……それは分からない。敵対者がお前さんたちの分断を狙っている可能性もある』

「天里!」

 苛立ちが募って思わず声を荒げてしまった。それでも潔乃は引かなかった。普段は柔らかな光が宿った瞳が、鋭い視線を放ってこちらを射抜いてくる。固く引き結んだ唇が決意の強さを物語っていた。こうなったら梃子でも動かない強情さが、彼女にはある。

 彦一は観念して、反論の代わりに薄く息を漏らした。

「……急ごう。今日は帰れないだろうから、準備して」


 大急ぎで自宅に戻り、両親に気付かれないよう静かに玄関ドアを開けた。そのまま足音を立てずに階段を上がる。自分の部屋のドアを開ける時にキィと軋む音がしてヒヤッとしたが、幸いにも弟に気付かれた様子はないのでほっと胸を撫で下ろした。リュックに着替えや雨具、充電器など、宿泊に必要な最低限のものを詰め込んですぐさま部屋を出る。このまま誰にも告げずに家を出よう。両親には後で連絡を入れればいい。まず間違いなく怒られるだろうが今はとにかく急がなくては。彦一が外で待っている。

 しかし、そんな企みも虚しく、一階へ下りると訝し気な顔をした母親と出くわしてしまった。

「潔乃どうしたの? どこか出かけるの? お昼は?」

「ちょっと、みよちゃんちに……ごめん、今日は泊めてもらうことにしたの」

「これから台風が来るのに?」

「う、うん」

「……ちょうど良かった。牧村さんちに用事あったの。お母さんも一緒に行くわ。泊めてもらうんだったら挨拶しなきゃだしね」

「……」

「……嘘ね。本当のことを話して」

 母親が静かな、しかし断固として言い逃れを許さないという凄みのある声色で潔乃を制した。

「神社に行くの?」

「えっ」

 図星を突かれて思わず動揺を口に出してしまい、すぐさま後悔した。どうして私はこんなに嘘が下手なんだろう。潔乃は自分の要領の悪さを恨めしく思った。

「やっぱり……ねえ、潔乃、あなた最近変よ。登山もそうだし、急に円窟神社でバイトしたいなんて言い出したと思ったら、今度は台風の日に出掛けるなんて……一体何を考えてるの?」

「お願い、お母さん、私急いでるの……後で説明するから……」

 後で目一杯怒られてもいいから、このまま外へ飛び出してしまおうか。潔乃は罪悪感で胸を痛めながらも、じりじりと後退りをした。玄関はすぐそこだ。

「どうした? 何を揉めてるんだ」

 そこへ、二人のやり取りを心配した父親まで様子を見に来てしまった。さらに焦りが募る。これ以上時間を掛ける余裕なんてないのに。潔乃はもどかしさでぎゅうと唇を嚙みしめた。

「お父さんもとめて。この子、今から木蘇に行くって言うのよ。潔乃、ニュースを見なさい。電車なんて雨で止まってるわよ」

「木蘇? なんでこんな時にまた。国道も通行止めなんじゃないのかい? どうやって行くつもりだ。今日は家で大人しくしてなさい」

「それでも行かなきゃ。神社は避難場所なの。私みんなの役に立ちたい」

「そんなの、地元の人たちに任せればいいだろう? 潔乃が行ったって何もできやしな」

「できるよ! 酷いこと言わないで! お祭りの時だって役割を貰えて、ちゃんとできたんだからっ……!」

 大声を出してしまったことに自分でも驚いて、鼓動が速くなる。生まれて初めて、両親に反発した。父も母も、娘の初めての明確な反抗に面食らって唖然としている。それを見てちくりと胸が痛んだ。でもここで引いては駄目だ。潔乃は興奮した気持ちを鎮めるために深呼吸をして、努めて冷静な口調で話を続けた。

「いつも私を守ってくれてる人たちが、困ってるかもしれないの。今度は私が助けたい。みんなが大変な時に何もできないなんて嫌。お父さんお母さん、お願い、行かせて」

 ここまで懇願してそれでも止められたら、このまま振り向いて家を飛び出そう。潔乃は駆け出す準備をした。しかしその時、頭上から、幼さの残る掠れた声が掛かった。

「……なにしてんの」

 二階から弟の洋祐が下りてきていた。反抗期らしく最近まともに顔も合わせてくれない彼の声を、久しぶりに聞いた気がする。階段の途中で立ち止まって家族を見下ろしている洋祐に潔乃が戸惑って何も言えないでいると、彼がこちらに視線をやってぼそりと呟いた。

「あの人も一緒?」

「えっ?」

「姉ちゃんと一緒に帰ってる人」

 見られていたのか。一瞬、羞恥心で頬に赤みが差したが、何か言いたげな洋祐の態度が引っかかり、潔乃は誤魔化さずに質問に答えた。

「……うん。一緒、だよ」

「ふうん」

 洋祐は今度は両親の方に顔を向けた。

「おんなじ高校生がいるんなら、姉ちゃんも行っていいんじゃない」

「なっ、なにを」

「……お母さん、行かせてあげよう」

「お父さんっ?」

 母親が狼狽えて父親の顔を凝視した。悪い夢でも見ているかのように、みるみるうちに顔から血の気が引いていく。

「お父さんまで何言ってるの! 潔乃はまだ高校生なのよっ? 災害が起こるかもしれないのに、そんな場所行かせられない!」

「もう高校生だよ。小さな子供じゃない」

「……ありがとうっお父さん!」

 潔乃はもう駆け出していた。急いで玄関に向かい靴を履く。その背中に哀願するような母親の声が掛かった。

「待って! それなら私も一緒にっ!」

「勝手の分からない我々が行っても迷惑を掛けるだけだよ。大丈夫、今は潔乃を信じよう」

「そんな……」

「お母さん、心配かけてごめんなさい。でも必ず無事に戻ってくるから。……いってきます!」

 ドアハンドルに手を掛けながら、潔乃は最後に振り向いた。

「ようちゃんもありがとう!」

「……ってらっしゃい」

 照れくささを誤魔化すように、明後日の方を向いて洋祐が不明瞭な声を投げた。


 部屋に入ると、がらんとした殺風景な光景が広がっていた。八帖程の洋室に飾り気のない文机と本棚が置いてあるだけで、決して広くはない空間ですら持て余している感じがする。台所には調味料や調理道具の類が一切見当たらず、綺麗に使っている……というよりは生活感がないといった印象を受ける。全体的に簡素というか質素というか、部屋の持ち主の朴訥な人柄がよく表れていると潔乃は思った。

 彦一が部屋を借りて住んでいる単身者用のアパートは、各階四部屋ずつの二階建ての構造で、彦一の部屋は一階右端にある。初めて家に入れてもらったことに、そんな場合ではないのに妙な感慨を覚えていた。あまりじろじろと他人の部屋を見回すのも行儀が悪いと思いつつ、好奇心に負けて潔乃は本棚へと目をやった。漫画や小説のような文庫本は見当たらず、民俗学や郷土史、地誌などの厚みのある図書が並べられていた。どれも木蘇地域に関係する資料だ。趣味なのか講社の仕事に使う物なのか、それとも何か、調べ物でもしているのか――

「これから霊道れいどうを通る。天里が通した道だ。緊急時以外使うなって言われてる。霊道は、はぐれたら二度と探しに行けないから」

 彦一が重たそうな灰色の遮光カーテンを開けた。その先に本来あるはずの窓とベランダは見えなかった。ただそこには、澱んだ夜の沼のような深い闇が広がっているだけだった。この暗闇の道が、天里がいる中社月陰げついんの間へ繋がっているという話だった。

「心配しないで。絶対に落とさない。玄狐には風の加護がある」

「風?」

「そう。兄弟神の、風の神の」

 彦一は詳しく説明はしなかった。時間がないからだろう。潔乃も詮索はせず黙って彦一に従い、不自然に切り取られた真っ黒な洞の入口へ近付いた。触れられるはずもないのに、粘るような濃い闇が体の表面をじわじわと覆っていくような感覚がして、潔乃は息を呑んだ。その瞬間熱風が巻き起こった。目を瞑ってやり過ごしている内にいつの間にか意識が途切れ、潔乃は時間と空間の感覚を失ってしまった。

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