④-2

 昼休憩を知らせるチャイムが鳴ると午前中の疲労を溜め込んだ教室の空気が俄かに動き出し、生徒たちが教師の号令を今か今かと待ちわびている様子を感じ取れる。教師が適当に次回の授業の予告をして日直の生徒へ指示を出すと、授業から解放された彼らの顔に生き生きとした表情が戻った。

 半数以上のクラスメイトがそのまま教室で昼食を取る中、彦一は弁当を手に提げて教室を後にした。中庭や昇降口ホールにたむろする生徒たちの間を通り抜けていつもの場所――化学室隣の空き教室へと足を運ぶ。化学担当の教師がこの場所を荷物置き場にしており、いい加減なことにスペアキーを廊下に置かれた消火器の下に隠している(本当は職員室の所定の場所へ保管しておかなければならない)ことを彦一は知っているので、昼休みになると勝手にそれを拝借して空き教室で休憩しているのだった。薄暗く埃っぽい部屋で昼食を取ろうなどという変わり者は他にいないため、一人になれるこの空間を彦一は気に入っていた。

 端に寄せられた椅子に座り、持参した弁当の蓋を開けた。唐揚げやウィンナー、ミニトマトやレタスなどのサラダ、きんぴらごぼうに卵焼きに……どれも彩りよく整然と並べられている。彦一はもう一つの箱を開けた。

(また稲荷が入ってる)

 そこには三角に形作られた稲荷寿司が詰め込まれていた。表面には海苔で狐の顔が描かれている。お供え物のようでおかしくて、彦一は自然と頬を緩ませた。

 新学期に入ってすぐに、潔乃から「弁当を作りたい」との申し出があった。以前から食生活を心配されていたのだがいよいよ黙っていられなくなったのか、半ば強制的に弁当を持たされることになってしまった。火曜日と金曜日は母親が早く出勤するため潔乃が家族の弁当を作ることになっているらしく、一人分増えても大した負担にならないとのことだった(弁当を二回食べていることにしているそうだ。よく食べるだから不思議に思われないのかもしれない)。さすがに悪く思って最初は断ったのだが、役に立ちたいと言って押し切られてしまった。それならばと弁当代を渡そうとしても受け取ってくれないので、最近は学校の自販機で飲み物を奢ったり、学校の帰りにコンビニへ寄って好きな菓子を買ってあげたり……なんだか二人でいる時間が長くなってしまった。らしくないことをしていると思うのだが潔乃が新作のスイーツがどうのと楽しそうにしているので、まあいいかと、彼女の気が済むまで付き添うことにしている。そんなやり取りを続けて一か月近くが経ち、九月ももう中旬を迎えている。五月の事件についての新たな情報は、特に得られていない。

(……俺の方が甘えてしまってるな)

 弁当のおかずを口に運びながら考えに耽っていた。あの時、山猿が襲ってきた時、確かな違和感があった。潔乃を置いて追跡する訳にもいかず立ち去る彼らを見逃してしまったが、やはりあの時無理にでも捕えておくべきだったと今更ながら後悔する。彼らが展開した隔離空間は結界術の類によるもので、当然に霧葉の山猿に扱える代物ではない。故に協力者がいるはずだ。後の調査で分かった事だが、探知不可能な非正規の霊符が使用された可能性が出てきた。あの場で物の怪が妖術を発動させたとしたら天里や彦一が使用者の存在に気付かないはずがないので、やはり何者かが予め山猿に自動展開型の霊符を与えたと考えるのが妥当だろう。しかも恐らく、霧葉から移動するために転送用の術具まで用いている。黄金背の目を欺いて、痕跡も残さず、このような複合的な儀を展開できるものなのだろうか。

 調査の報告を待つことしかできない自分に、彦一は苛立ちを覚えていた。ただあの娘の側にいるだけで役割を果たしていると言えるのか。稲荷寿司を見て気を緩めている場合ではないはずだ。……最近気が付くと、表情が和らいでいることがある。影響を受けているのだろうか。隣であの娘が、よく笑うから。祭りの時だって、まさか、自分があんな風に――

(…………)

 無意識に一つ溜息を吐くと、湿気を含んだ重たい空気が嫌がらせみたいに纏わりついてくる気がした。彦一は窓に目をやった。昼間なのに辺りは薄暗く空気中の水分をせっせと取り込んだ雲たちが今にも雨を吐き出そうとしている。週末には大雨が降る。木蘇谷に嵐がやってくる。白露はくろの節気は程度の差こそあれ必ずと言っていいほど水害が起こるものだ。

(何事もなければいいが……)

 彦一は妙な胸騒ぎを鎮めるように、龍麟岳にかかる灰色の雨雲を睨んだ。

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