第二話 黄金背の森

②-1

「……あれは鬼火とか人魂って言われるはぐの一種だよ。あそこにいたのは青かったから人魂だと思う。逸れ火っていうのは……そういう下級の火の怪異の総称で、意思を持たないから俺にも従わせることができない。基本は無害だから放っておくといい」

「そうなんだ。怖がる必要なかったんだね。八柳君が命令できる物の怪もいるの?」

「まあ火を操る物の怪ならだいたいは……有名なのは火車かしゃ輪入道わにゅうどう竈鬼かまどおにとか」

「火車と輪入道は聞いたことあるよ! 火車は猫、輪入道は車輪の物の怪だよね?」

「そう。よく知ってるね」

「う、うん。ちょっと調べたことがあって」

 山道を進みながらそんな会話を続けている。疑問に思っていたことを聞くとちゃんと答えてくれるのでありがたかった。口数が少ないから喋ること自体が嫌いなのかと思っていたが意外にも丁寧に色々と教えてくれるし、かと言って喋り過ぎないから会話のテンポがちょうどいい。抑揚のない口調も慣れれば(怒っている訳ではないと分かれば)むしろ耳心地が良く不思議な安心感がある。

(調子に乗って話しかけすぎちゃったかな)

 潔乃は前を歩く背中を眺めながら、しばらく山登りに集中しようと決めた。


 松元市の奥地に霧葉郷という温泉街がある。歴史は古くひっそりとしていて、大々的に観光客を呼び込んでいるような場所ではないが地元の人間や常連客には昔から親しまれている松元の奥座敷だ。潔乃も法事やら部活の集まりやらで利用したことはある。利用したことはあるが、まさか登山をする事になるとは思ってもみなかった。

 温泉街の石畳から外れて坂をずっと上っていくと「霧葉郷の天然林」という看板が見える。朝七時に集合してそこから登山道を登る、という話を聞いたのは昨日の昼のことだった。

「伊澄さん、疲れてない?」

 彦一が俄かに立ち止まってこちらへ振り返る。山を登るからそれなりの格好でと指定されたので登山用のウェアを着てきたが(松元の中高生は伝統的に学校行事で登山をするため大抵は自分のウェアを持っている)、何故かそれを知らせた本人は学生服を着ている。靴も普段から使っているようなスニーカーで飲料水などを入れたリュックも持たず、なんというか登山家に見られたら物凄い勢いで怒られそうな格好だ。

「大丈夫。体力には自信あるんだ」

 運動部なので問題はない……とは言え少し息が上がってきた。平然としている彦一に人間離れした何かを感じる。マスクをしているのに息苦しくないのだろうか。

 登山道を外れて「関係者以外立ち入り禁止」の看板の奥へ進んでから三十分程経っていた。目的地はもっとずっと奥だ。


 金曜日の授業中に倒れたことが仁奈を通じて美夜子や他の友人にも伝わり、土曜日の誕生日会は中止になってしまった。楽しみにしていたので潔乃自身は集まることを望んでいたが他の面々が気を遣いまたの機会にしよう、という話になった。その代わり仁奈達が用意した誕生日プレゼントを家まで届けに来てくれた。

 突然押し掛けたので悪いからと言って玄関先でやり取りをする。高校生でも頑張れば手が届くくらいのブランドのポーチをお金を出し合ってプレゼントしてくれて、嬉しさで思わず抱き着いてしまった。やっぱり私は友達のことが大好きだから、危険な目に合わせたくない。

「あの、夜は危ないから、気を付けてね!」

「ん? どうしたの? まだ昼間だよ?」

「そうだけど……一応」

 変なのーと言って笑って去る友人を見送りながら、どうかみんなに危害が及びませんようにと心の中で強く祈った。


 午前中の部活も休んだため一日ぽっかり予定が空いてしまったというところで、彦一から連絡が入った。潔乃を襲った猿たちの身元が判明したという話だった。例の襲撃を起こしたのは霧葉郷の深山地区という辺境の地に住む猿たちだそうだが、その結末は衝撃的なものだった。

『族長の猿が、自害してたそうだ』

「えっ……」

『他の連中に意思の疎通ができる者が少なくて現場は混乱してるらしい。彼らが使ってた空間隔離の術も痕跡がなくてどうやって使ったのか分からずじまいだって。一応調査は続けるみたいだけど』

「死んじゃったって……そんな……」

『……気にしなくていい。伊澄さんのせいじゃない』

「……」

『霧葉の代表に黄金背という雌鹿の神がいる。今回のことに責任を感じているから直接謝罪したいと申し出があった。あと、伊澄さんに加護を授けてくれるそうだ』

 後味が悪い思いで電話口の彦一の声を聞く。霧葉に住む物の怪や動物たちを取り仕切る黄金背が人前に姿を現すことは滅多になく、しかも人間に加護を与えるなんてことは特例中の特例とのことだ。加護を受けると黄金背を恐れる物の怪を遠ざけることができるので、ぜひと了承してさっそく日曜日に会いに行くことになったのだった。


「待って」

 彦一が腕を潔乃の前にやり制止させた。何事かと思って彦一の横顔に目を向けると、彼は右側にそそり立つ苔むした崖を見上げていた。

「落石が来る」

 言い終わると同時に、頭上から勢いよく何かが転がり落ちてくるのが見えた。両腕を回しても抱えきれないくらいの大きな岩だ。はっと息を吞んで身を固くすると、彦一が潔乃を庇う様に彼女を背に隠した。背中越しに異様な光景を目にする。岩の表面が横一直線に裂けて不気味なほど整然と生えそろった白く大きな歯が剥き出しになる。生き物のそれにしか見えないような口をぱっくりと開きながら、岩が斜面を蹴って飛び掛かってきた。

(ぶつかる――!)

 反射的に目を瞑り彦一の背後で身を竦ませたその瞬間、潔乃の耳に鈍い衝突音が響いた。サッと血の気が引いてすぐに目を開ける。そこへ、思いも寄らない光景が飛び込んできた。

 彦一が突き出した右腕の大半が、大岩の口に飲み込まれていた。しかし次の瞬間には彼は身を捻って落下の勢いを殺し、大岩を抱えて地面に向かって叩きつけた。差し込んだままの右腕から炎が上がり大岩は声にならない声を上げる。彦一が右腕を抜いて立ち上がると大岩はその場でゴロゴロと悶え、再び動き出して斜面を転がって行ってしまった。

 潔乃は棒立ちのままぽかんと口を開けて一連の流れをただ眺めていただけだったが、はっと我に返り慌てて彦一に声を掛けた。腕に爛れたような跡と噛み傷ができていて、そこから血が流れている。

「八柳君、腕が……!」

「大丈夫。すぐ治る」

 動揺する潔乃とは対照的に彦一はあっさりとしていて、

「あいつは岩食いわはみ。山を歩いてるとたまに落ちてくる落石の物の怪。外側は岩で覆われてて火と相性が悪いから内側から燃やすしかない。噛ませた方が確実だからそうした」

 と、何事もなかったかのように淡々と解説をした。

「人間に悪さしないようにちょっと懲らしめた。あれぐらいじゃ死にはしないから安心して」

「そ、そうなんだ……」

 岩が落ちてきてから逃げていくまでのほんの数秒の間。岩食みを制した身のこなしが滑らかで無駄がなく、人間の姿でもここまで立ち回れるのかと驚いた。潔乃は再び彦一の腕の傷に目をやる。流れた血がジュウジュウと蒸発でもしているかのような音を立てている。彦一の言う通り再生が始まっているのだろうか……改めて目の前の同級生が自分と同じ存在ではないことを思い知る。

「……もうここら辺でいいか」

 彦一が辺りをぐるりと見回してそう呟いた。

「玄狐の姿になっていい? まだしばらく歩くから俺の背中に乗った方がいいと思う」

 伊澄さんが良ければだけどと付け足して潔乃の返答を待つ。先程の衝撃を引き摺ったままで反応が遅れてしまい、潔乃は慌てて返事をした。

「あ、う、うん。じゃあ、お願いします」

 潔乃の返事を確認すると彦一は少し離れた場所まで移動した。そこへ、一陣の風が唸りを上げて吹き抜けた。

 黒い炎が彦一の身体を包み瞬く間に勢いを増していく。渦巻いた炎が木々を揺らし落ち葉を巻き上げた。潔乃は堪らず腕を目の前にかざして強風から身を守った。しばらくして勢いが収まり顔を上げると、そこには大きな黒い狐が顕現していた。

(あ――)

 目の前にするのは三度目だがまだ慣れない。心臓が高鳴って思わず胸の前で手を組んだ。恐ろしいという気持ちはもうなかった。むしろもっと複雑な――信仰に近いような畏敬を抱いていた。艶やかな黒い毛並みも透き通った琥珀色の瞳も呼吸に合わせて橙色に燃える火種も、全て美しいと思った。

 玄狐はゆったりとした動きで身を低くし伏せの姿勢をとった。八年前のあの時と同じだ。潔乃は玄狐に近付いてその身体に触れた。温かい。またこの温かさに会えた。それがたまらなく嬉しくて思わず彼の身体を撫でてしまう。目の前の神様が同級生であるという事実を思い出した時には二、三往復はしていて、慌てて手を止めた。何してるんだろう私……

 そのまま顔を埋めたくなる衝動を抑えて玄狐の背に手をやった。八年前は上手く届かなかったのに、あれから身長も伸びて今は軽く手を伸ばすだけで十分だった。勢いを付けてよじ登る。潔乃がしっかりと背に跨ったことを確認すると、玄狐が立ち上がった。その高さはおよそ三メートルくらいだろうか。潔乃がいつも練習で跳び越えている高さだ。あの時は恐ろしくて身が竦んでいたっけと恥ずかしいような懐かしいような気持ちになって、潔乃は苦笑を浮かべた。

 玄狐が歩き出すとやはりあの時と同じように周りの木々が枝葉をしならせ道を開けていく。不思議な光景だ。でもおかしいとは思わなかった。仕組みも理由も分からないがどうしてか自然と受け入れられるのは、玄狐という特異な存在がそれだけ自分の感性に強く影響しているからなのだろうと潔乃は思った。


 むせかえるような若葉の匂いが満ちる森の中をしばらく進むと、木々の連なりが途切れた先に開けた場所があることに気付いた。獣道を上がってきたため坂の終わりにあるその場所に何があるのかはまだ確認できない。ただ、柔らかな光が降り注いでいるのは分かって、暗い道を辿ってきた目にはハッとするほど眩しい。

 坂道の終わりに動物らしきものが佇んでいるのが見える。姿からして猿だろうか。潔乃は一瞬身構えたが、猿のように見えるそれはよく観察すると細部が普通の猿とは違っていてどの動物の特徴にも当てはまらないように思う。目はギョロギョロとして鼻は丸く大きく、唇が分厚い。体毛は棘のように硬く突き出ており腕や腹の一部の毛が赤くなっている。見たことのない生き物だ。こちらが到着するのを待っている様子だが案内役か何かだろうか。

 玄狐は潔乃を背中から降ろすと人の姿に戻り、猿らしき生き物へ近付いて行った。

「出迎えありがとう、狒々」

「……ヨク、キタ」

 低く粘ついたような声を発した。喋った。人の言葉を。

 狒々と呼ばれたその生き物が言葉を発したことに驚いている内に、狒々と彦一が歩き出した。潔乃は気を取り直して二人の後に着いて行く。

 坂を上りきると、そこには湧き水で潤った草地が広がっていた。動物たちの水飲み場になっているようで、鹿や猪、小鳥たちがゆったりと休息している様子が見える。しかし彼らは人間の存在に気が付くとくるりと踵を返し、立ち去ってしまった。

 誰も居なくなった空間にそれでも光が差し込んで水面をきらきらと照らす。細かな霞が薄い衣のようにゆらゆらと揺れて神秘的な空間を作り出していて、上手く言えないけれどこの世のどんな場所より安らかなのではないかと潔乃は思った。

「オマネキ、シマシタ」

 狒々が地面に届きそうなくらい深く頭を下げる。すると、草地のほぼ中心にある大きな岩の陰から一匹の小柄な鹿が姿を現した。

 稲穂のような明るい色の体毛が陽を浴びて鮮やかに煌めいていた。陽の光ですらまるでそれを照らすためだけに存在しているかのような、そんな不思議な感覚を覚える。薄光に包まれ黄金色に輝くそれがゆっくりとこちらへ近付いてくる様子を見て潔乃は自然と頭を下げた。黄金背と言われる所以が一目で理解できた。玄狐とはまた違う類の神々しさに心が震えていた。


 ようこそ、わたくしのくにへ。わたくしは黄金背。あなたがたを歓迎いたします。


 鈴を転がすような澄んだ声が頭の中に響いた。前方から聞こえてくるわけではなく直接頭に入ってくる言葉に戸惑いを覚えたが、そういうものだとすぐに受け入れた。この三日間で自分の常識がそっくり覆されていて許容範囲がなんだかおかしなことになっている気がする。


 頭を上げて。本来ならばわたくしが出向かなければならないのです。伊澄潔乃様。この度はわたくしどもの仲間が大変なご無礼を働きました。心よりお詫び申し上げます。


 そう言うと黄金背は目の前で膝を折り鼻先を地面に着けて謝罪の意を示した。明らかに格の違う相手に深々と頭を下げられて潔乃は必死に身体を起こすよう促す。

「長は亡くなっていたそうだな」

 彦一が黄金背に問い掛けた。神様を前に堂々とした物言い(彦一も神だから当然ではあるが)で潔乃が感心していると、黄金背が状況の説明を始めた。


 ええ……。狒々が深山に辿り着いた時には、既に。襲撃の知らせを聞いた時には驚きました。長は老齢の猿で、あのようなことを企てている素振りは全くなかった。ひと月程前に話したときは変わりなかったのです。深山地区は……半世紀前の霧葉の代替わりの際に争いに敗れて追われた者たちが住まう場所なのですが、長も老いてここ十年程はわれわれとの関係も良好でした。魂力の減少も運命も、受け入れている様子で……


 草地の外れに用意された岩の腰かけに座り、時折狒々も解説を入れながら黄金背の話は続いた。天里も言っていたが物の怪の数はこの国の時代が劇的に変わった頃を境に、急激に減り始めたという。科学技術が発達し人間が夜を恐れなくなったと同時に物の怪の存在を知覚できる者も少なくなった。物の怪というのは定義が難しいが、簡単に言うと強い魂力を持った獣やその他の生き物が何らかのきっかけで変異した存在で、要するに時代の変化とともに人間から魂力を得られなくなったため数を減らしているのだそうだ。

 深山の山猿衆もかつての勢いは衰え、今や長以外は短命で若い猿が多く通常の野生動物と変わりはない。だから今回の襲撃をそもそも起こせるはずがなかったと黄金背は訝しんだ。


 長が自害したのは……一族を守るためでしょう。自分の命を以って責を果たしたのだと思います。それを理解できる一族の者がいないのが憐れですが……もう完全に深山の猿は野生の猿に戻りました。


 何も語らずに命を絶ったのはそれだけの事情があったからなのか……今回の件は不審な点が多く証拠も痕跡も見つかる可能性は低いが、黄金背とその補佐役の狒々は今後の調査と協力を約束してくれた。


 だいたいの話が終わり黄金背から改めて謝罪を受けたが潔乃は首を横に振って屈託のない笑みを浮かべた。

「もう謝らないでください。私は大丈夫ですから。それに……こんなに綺麗な場所に招いてもらって、私嬉しかったです。ありがとうございました」

 能天気すぎる発言かとも思ったが、本音を話しておきたかった。治世やらの難しいことはよく分からないが今まで森を守ってきたのは黄金背や他の多くの物の怪たちだろうし、そのことを素直に凄いと思うから、自分がむしろ感激していることが伝わればいいなと思った。

 ともすると幼く見える(実際神々の中では若いのかもしれない)小柄な雌鹿は立ち上がり潔乃の前へ歩みを進めた。


 あなたのような人間のためにわたくしたちは在るのかもしれませんね。


「えっ?」


 あなたに加護を授けましょう。わたくしは再生を司る神ですから、あなたの治癒能力を強化して差し上げます。


 そう言うと黄金背は座ったままの潔乃の頭へ首を伸ばした。潔乃が躊躇いながらもそれに合わせて少し頭を低くすると、不意に身体中が温かい膜のようなものに包まれた気がした。目を閉じてじっと体の感覚に集中する。心地よい温かさだ。頭のてっぺんから手足の指の先までじんわりと血が巡っていく感じがして、このままだと気持ち良くて眠ってしまうかもしれない……と思ったところで黄金背が潔乃から離れた。


 あなたに神々の祝福がありますように――


 潔乃は黄金背らに礼を言うと再び玄狐の姿に戻った彦一と共にその場を後にした。

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