①-6
説明を受けているうちにいつの間にか時刻は夕方五時を回り、陽が傾いてきた。だいたいの状況は理解できたので今日のところはひとまずここで切り上げることになった。帰りは孝二郎が車で送ってくれるという。一時間程度で潔乃の自宅に着くので、部活動がある日よりむしろ帰宅時間が早いくらいだ。
「これをお持ちください」
春枝が漆器でできた長方形のおぼんに何かを乗せて潔乃の前に差し出した。小さな巾着と文字が書かれた和紙だった。潔乃は和紙を手に取って内容を確認した。時代劇に出てきそうな書状だ。文字は縦書きで蛇腹に折られている。
「そちらは今日ご説明した内容をまとめた書状です。時間がなかったので簡単に書きましたが、よく目を通しておいてくださいね。巾着の方はタガソデソウという香草を乾燥させたものを詰めたお守りです。昔からタガソデは魔除けに使われていて、ある種の物の怪を遠ざけることができるんですよ」
書状を鞄にしまって巾着も手に取った。首から下げられるように紐が付いている。潔乃は早速それを首に掛けて服の中にしまった。
「何かあったら彦一を頼るか家の中に逃げ込みな。お前さんの家の門はここの随神門と同じ素材でできていて敷地内には結界が張られている。……本当はここが一番安全なんだけどね、まさかお前さんをここに軟禁するわけにはいかないから家に細工をさせてもらった」
自分の知らないところで長い時間を掛けてずっと守られていたことに改めて驚く。ここまで徹底しているということは、それだけ物の怪に潔乃の心臓を渡したくないのだろう。悪い物の怪が力を得たらどうなるのか……天里はあえてそこには触れなかったが、良くないことが起こるだろうことは容易に想像できる。
(しっかりしなくちゃ……)
不安な気持ちを懸命に振り払って自分を奮い立たせる。厄年の間の、この一年を凌げばいいんだ。しかも自分一人じゃなくて頼もしい護衛役も付いている。
神社が所有する車を孝二郎が取りに行っている間、彦一と二人で彼の到着を待っていた。彦一は高校入学時から一人暮らしをしており、全く気が付かなかったが潔乃の自宅近くの単身者用アパートに住んでいるという話だったので、一緒に松元へ帰ることになったのだ。
隣に並んだ彦一はまるで檜林の一部みたいに静かに佇んでいる。潔乃は話し掛けるべきかどうかで悩みそわそわとしていた。ずっと言いたくて言えなかったことがある。深呼吸をした後、意を決して口を開いた。
「……あの、八柳君!」
「なに?」
彦一がゆったりとした動作でこちらへ顔を向ける。目が合って思わず視線を逸らしてしまった。会話をする時きちんと相手の目を見て話す性分なのか、彦一は臆さずにこちらの視線を捉える。潔乃は再び彼を見上げた。夕陽に照らされた深い琥珀色の瞳が本当に綺麗だ。
「私、ずっと八柳君に言いたかったことがあって……あの、八年前の時も、今日も、助けてくれてありがとうございました」
目をぎゅっと瞑ったままぺこりと頭を下げてすぐに顔を上げた。やっと言えた。ずっと探していた神様を目の前にして喜びと興奮が入り混じったような落ち着かない気持ちだった。
目を開けて彦一の様子を伺う。彼は二、三度瞬きをしたがそれ以上の反応はなく、その場の空気がしん……と静まり返ってしまった。潔乃はいたたまれなくなり慌てて話を続ける。
「ず、ずっとお礼が言いたかったんです。探しに行きたくてもお母さんたちに止められて行けなくて……でも忘れることはできなくて……あの時八柳君が迎えに来てくれなかったら私どうなってたかと思うと……と、とにかく感謝してて……」
しどろもどろになりつつも言葉を紡いだが最後の方はなんだか尻すぼみになってしまった。彦一を困らせてしまったと思い既に若干後悔し始めていたところ、
「……それが俺の役目だから」
と言って彦一は素っ気なく顔を背けた後「あの時、怖がらせてごめん」と続けた。
「えっ?」
「説明ができなかった。神域では人間の姿になれないから。狐のままじゃ怖かったでしょ」
淡々としているが微かに心苦しそうな語気を含んだ話し方だった。潔乃は咄嗟に返事ができず何度か口をぱくぱくさせる。そんなことを気に掛けてくれていたとは思わなかった。助けてくれただけで十分なのに。それにやっぱり、あの時尻尾で撫でてくれたのは怯えていた私を落ち着かせるためだったんだ。
じっと静かに自分を見下ろす狐の姿を思い出して、何かじんわりと温かいものが胸に広がっていくのが分かった。潔乃の表情に柔らかな笑みが浮かんだ。
「……ううん。怖くなかった、です」
「……敬語使わなくていい。俺も使わないし」
「えっでも八柳君は偉い神様だし……」
「気にしなくていい。
比較対象のスケールが大き過ぎていまいち大したことなさが伝わらないが、彦一のそういうあっさりとした態度には好感が持てた。どうしても遠慮がちになってしまうがそれ程気にしなくてもいいのかもしれない。
「うん、分かった。……八柳君」
潔乃は彦一に向き直って、
「これから一年間よろしくね」と、改めて挨拶をした。
「うん。こちらこそ」
彦一も相変わらず真っ直ぐ潔乃の目を見据えてこくりと頷いた。少しだけ目を細めたような気がした。
車のエンジン音が聞こえて白く飾り気のない軽自動車が近付いてきた。運転席から顔を出して孝二郎が「お待たせ」と声を掛ける。背が高いので窮屈そうだ。孝二郎の車は高そうなオフロード車なので軽自動車に乗ってるとちぐはぐな感じがしてちょっと面白い。
「ちなみにこいつはただの人間なので実の兄じゃない」
「えっ? なんだ? 何の話?」
孝二郎にとっては脈絡のない話を持ち出され彼は戸惑いながら二人の顔を交互に見やった。潔乃はあえて話を広げずに「お願いします」と言って車の後部座席に乗り込む。彦一も助手席に座った。
「往復だと大変なのに、すみません」
「いいよー俺松元でメシ食ってくるし。彦一も行くよな? 何がいい?」
「なんでもいい」
「じゃあラーメンな。駅前通りのラーメン屋評判良いから寄って行こうぜ」
他愛もない会話を聞いていると、ようやく一息吐けた気がした。今日は長い一日だった。体育館で倒れてから半日も経っていないのにそれがもうずっと前の出来事のような気がする。帰ったらゆっくり休んで明日からのことは明日考えよう。
夕暮れが近付いてじわじわと夜の薄い紫色が滲み出した空を背景に、潔乃たちを乗せた車が走り出した。
出発してからしばらくすると、後部座席からすうすうと規則正しい寝息が聞こえてきた。
「……寝ちゃったか」
赤信号で停車している間に孝二郎は後ろへちらりと視線をやった。今日は色んな事が起きて疲れたのだろう。猿に襲われて訳も分からないままよく知らない場所へ連れてこられて知らない大人に囲まれてとんでもない話を聞かされて……随分気を張っていたと思う。
「伊澄ちゃん良い子だよな。初めて話したけど想像よりずっと素直でしっかりした子だった。それに可愛いし」
「……」
「冗談だって」
いや伊澄ちゃんが可愛いのはホントだけどと言って笑う孝二郎の横顔を窘めるように睨んだ。
可愛いかどうかは置いておいて、強い子だとは思った。ショックを受けてからの回復が早い。自分の命が狙われているなんて話を聞かされたら気が動転して泣き喚いても仕方ないはずなのに、彼女は堪えて次のことを考えていた。普通は瞬時に家族や友人の安全まで気が回らないだろう。
「お前、伊澄ちゃんに優しくしてやれよ。不安に思ってるだろうからさ」
「分かった」
「ほんとに分かってんのかねえ……」
それ以上返答する気が起きなくて黙っていると、孝二郎も話を続けるつもりはないらしく車内に沈黙が訪れた。彦一は窓へ向き視線を外にやる。
流れていく景色に夕陽が陰を作っている様子が見える。大勢の人間が帰宅する時間帯で道が混んでいるが、これだけの数の人間にそれぞれ帰る場所があるというのもなんだか凄い話だと彦一は感心した。
空を眺めるともうほとんど陽は沈み、一面を夜に明け渡しつつあるのが分かる。
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