第71話 ジョーカー

 



 車に乗り込むなり、連城はペットボトルを差し出した。




「飲むか? ブラックは無理だって言うから、カフェオレにしてみたんだが」




 彼がカフェオレを飲むところは想像できない。


 おそらく、絹織のために買ってきたものなのだろう。


 前回断られたのがよほどショックだったんだろうか。


 変に憎めないところを魅せられて、気が抜ける。




「ありがとうございます」




 受け取った缶は、まだ暖かった。


 蓋をあけて一口飲み込むと、ほのかに甘い味と、温かい感触が喉を通ってお腹に落ちていく。


 暖かさが、少しだけ気持ちを落ち着けた。




「無事で安心したよ」


「私がですか?」


「脅迫状が届いたって言ってた直後に連絡が途絶えたんだ、心配にもなる」


「ああ……」


「あのあと何か変化は?」


「……ありました」




 絹織は自身のスマホを取り出すと、送られてきた画像を表示する。




「なっ……死体の画像じゃねえか。どうしてこんなもんを」


「戸水という看護師が死んだ件を調べてたんです。それで、彼女が死の直前に一緒に飲み会をしたって人たちに話を聞いたら――」


「そいつらが、死んだのか」


「ええ。しかも話を聞いたその日のうちに」




 彼女はスマホを握る手に少し力を込め、懺悔するように語る。




「私のせいで死んだんです。まさか、そんな直接的な脅しに出るとは思わなくて」


「お嬢さん自身は?」


「無事でした。でも、この女性だけじゃないんですよ。もう一人、男の人も殺されてて。こっちなんて、私と話して数時間も経ってないんですよ? 尾行には注意を払ってたつもりなのに」


「相手は殺しのプロだ。素人の付け焼き刃じゃ通用しないってことだろうよ」


「それ以降、取材は自重気味です」


「それでいいんじゃねえか。お嬢さんが無事なのが一番だ」




 しかし、絹織はペットボトルを両手で握りながら、ゆっくりと首を振る。




「大切な人が、デモ隊に襲われたんです」


「戒世教の信者じゃないんだろ」


「何百人も死んだんです、戒世教のせいで。そんな憎しみが、行くあてもないまま渦巻いてたら、この街に安全な場所なんてありませんよ。誰にだって、どこでだって牙をむく可能性があります」


「それでも死にはしない」


「本当にそう言えますか? 戸水さんの関係者が殺されたとき、私は“早すぎる”と思ったんです。あらかじめ標的の行動パターンを調べなければ、私と会った当日に、自殺に見せかけて殺すことなんてできない。私が思うに――あの二人は、それ以前から殺す予定だったんじゃないかと」




 少し言い訳がましい理屈ではあるが、数時間で殺された理由付けにはなる。


 同時に、それならば絹織の心も少しは救われる。




「お嬢さんが接触したから、消すのを早めただけってことか」


「ええ、標的と同じ飲み会に参加したってだけで。たったそれだけで殺すぐらい、戒世教は過敏になっているんですよ」




 だからこそ、不自然なのだ。


 未だに絹織が殺されていないことが。


 まるで何かに守られているように。




「戒世教は光乃宮市の全てに根を張り巡らせています。ただ普通に生きてるだけでも、触れる危険性があるぐらいに」


「はぁ……わかったよ。止まるつもりはないんだな」


「奥さんと娘さんがいる連城さんが慎重になる気持ちもわかります」


「俺だって申し訳ないとは思ってるんだ。家族を言い訳にして、警官だってのに、やってることは情報提供だけだ」




 そう言って、写真を取り出す連城。


 そこに写っていたのは、めった刺しにされた看護師だった。




「しかも被っちまった」




 しかし――絹織が気になったのは写真ではない。


 彼の手首だった。


 そこに絆創膏が貼られている。




「すまねえな、待ち伏せするような真似したのに大した情報がなくて」


「いえ……その気持ちだけで嬉しいので。それに、カフェオレももらえましたし」


「俺はデリバリーかよ」


「あはは、おいしかったです。ごちそうさまでした」




 その後、二人は穏やかな空気の中、軽く雑談を交わして別れた。


 特に戒世教のことに触れるわけでもなく、連城の奥さんや娘さんの近況を聞いたり、写真を見せてもらったり。


 以前に見たときよりも娘さんがかなり大きくなっていて、時の流れを二人して嘆いてみたり。


 六年も付き合いがあれば、そういうただの友人としての話を交わすことだってある。


 そして連城に上司から連絡が来たのをきっかけに、絹織は車を降りた。


 去っていく連城の車の姿が消えるまで見送ると――




「はあぁぁ……」




 大きく息を吐き出し、その場にしゃがみ込んだ。


 楽しい時間だったはずなのに、まるで針山の上で綱渡りでもしている気分だった。




「嘘だと思いたいのに」




 スマホを取り出し、画像を表示する。


 それは連城が見せてくれた写真と同じ、看護師の死体。


 今どきの写真は解像度が高く、拡大すると細かい部分まで見えてしまう。


 絹織が確認したのは――その看護師の指先。


 人差し指の爪に、わずかに血が付着した皮膚片のようなものが付着している。




「機械に強いって言ってたくせに、画像で送ったら拡大できちゃうってわからなかったんですか」




 連城の手首の傷。


 コーヒーの匂い。


 完全に把握されている絹織の行動。


 これらは、ただの状況証拠の羅列にすぎない。


 絹織が勝手に、一人で疑念を抱き、不安になっているだけだ。


 千尋が襲われて、怪我をして、心が弱っているだけ。


 そう自分に言い聞かせる。


 だってそうじゃないか。


 仮に――そう、あくまで仮に、連城が戒世教側の人間だったとしても。


 なら家族はどうなる。


 合コンに参加したのは看護師たちと近い年齢の人間なのだから、そこの矛盾だって生じる。


 何より、芦乃の死をあれほど嘆き、戒世教への復讐を誓ったあの言葉は――まさか六年前からすでに裏切っていたとでもいうのか。


 そんなこと、あるわけがない。


 そう、これはあくまで状況証拠に過ぎず、確証にはなりえない。


 どれだけ積み上げても、限りなく100%に近い99%になることはあっても、100%に到達することはないのだ。


 ただの疑い。


 限りなく黒い、思い込み。


 絹織は深呼吸とともに、再び、そう自分に言い聞かせる。




「こういうとき、人は神様に祈りたくなるんだろうな」




 だからといって、戒世教に共感したりはしないが。




 ◆◆◆




 それから――幸いにも何事も起きずに、さらに三日が過ぎる。


 この日、光乃宮学園に二度目の異変が起きた。


 再び空中に穴があき、瓦礫と死体が落ちてきたのである。


 だが以前とは様子が違う。


 空に穴が発生したのは、学園だけでなく光乃宮ファンタジーランドも同様だったのだ。


 落ちてきた瓦礫は、それぞれ学園の方は校舎が、ファンタジーランドの方は遊具が大半であったが、一部互いに混ざり合っている部分があった。


 また、発見された死体は大半が顔に大きくえぐり取られており、中には着ぐるみと混ざりあった状態の、奇妙な死体もあったという。


 所持している荷物から数名の身元が判明し、遊園地の客が学園で発見され、またその逆も発生したことから、学園と遊園地は消滅後、同じ場所に存在していた、と考えられる。




 しかしそんなことがわかったところで、結局のところ生存者がゼロということに変わりはない。


 一階が落下してきたときより多くの死者が確認され、光乃宮市はさらなる悲しみに包まれた。


 また、壊疽化した死体の他、さらなる白骨死体も発見されたため、病院や行政への追求は強まっていく。


 光乃宮の役所、警察、消防、教育など各機能は半ば強制的に停止され、戒世教との癒着が暴かれつつあった。


 しかし、相変わらず戒世教本体の人間が表に出ることは無く、市外からやってきた捜査機関もその実体を掴めずにいるようだった。


 信者だと判明した市民の元には多くのメディアが殺到したが、彼らの口は堅く、誰一人として教団について話そうとはしない。


 こうなると自ずと、戒世教と繋がりがあることが判明した日屋見グループに人々の目が向くのだが、このタイミングで社長の日屋見剛誠、そして妻の愛美が消息不明となる。


 だがこれだけの大事件、動くのはメディアだけでない。


 ネットでも戒世教を調べようとする大きな動きが生まれていた。


 都市伝説系の配信者が光乃宮市で自殺した一見も、新たに出てきた目撃証言から他殺ではないかと騒がれはじめ、それをきっかけに光乃宮での自殺者の多さ、そして死亡状況の不審さなどが話題となる。


 そのうちのいくつかは、明らかに他殺でないと矛盾する証拠まで発見され、県警が動き出す事態となっていた。




 一方、絹織は毎日千尋の見舞いに行き、そして姉の元に通い、彼女を元気づける日々を過ごしていた。


 当然、仕事もこなしているので、なかなか戒世教について調べる時間も取れない。


 いや、それも言い訳に過ぎないのかもしれない。


 やる気さえあれば、多少の無理を押してでも調べることはできたはずだ。


 連城の前では強がってみたものの、彼女が思っている以上にその心は弱っているようだった。




 ◆◆◆




「ほんと静かね……外は大騒ぎでしょうに。ここにはもう遺体も運ばれてこないようだし」




 千尋は病室で一人、そうつぶやいた。


 問題が明るみになって以降、日に日に病院から人は減っていった。


 最初に患者たちが一斉に転院を希望したときは、医者や看護師たちが必死に説得していた。


 だが死体の偽装に病院が関与していることが明らかになってからは、むしろ積極的に患者たちを転院させるために動くようになった。


 市外、あるいは県外の病院に問い合わせ、病床が空いていないか確認を取り――まさか看護師たちも、そんな業務で忙しくなるとは思ってもいなかっただろう。


 そしてそれらの仕事が落ち着いたら、彼らは一斉に退職届を出すつもりだという。


 というか、現段階ですでに少なくない人間がこの病院を離れていた。


 何せ、新たな瓦礫が学園や遊園地で発見され、またしても数百人分の死体が見つかったというのに、この病院は暇そのもの。


 それほどまでに、信用を失ってしまっているのだから。




「私も転職を考えないと」




 そう一人でぼやきつつ、スマホで退職届の書き方なんかを調べていると、ふいに一人の看護師が部屋に入ってきた。




「あら、また暇になったの?」




 千尋は呆れ顔で彼女に声をかける。


 同僚である彼女の部屋に、看護師たちが来ることはよくあった。


 その大半は、検査という言い訳をして愚痴りに来ているのだが。


 患者の数もかなり減ってしまったので、手持ち無沙汰になる人間が増えているせいだ。


 しかし、今回は様子が違った。


 やってきた女性は、こめかみに冷や汗を浮かべて挙動不審になっている。




「ね、ねえ青柄さん……馬鹿げた話だと思って聞いてもらっていいんだけど」


「何よその意味深な前置きは」




 苦笑いを浮かべる千尋。


 しかし同僚は至極真面目な表情で、千尋の耳に顔を近づけた。




「島川くん、殺されるかも」


「はぁっ!?」




 思わず千尋は大きな声をあげた。


 すると同僚は慌てて唇の前で人差し指を立て、「しーっ!」と注意する。




「ご、ごめん。でもどうしてそんなことに? というか彼、まだ残ってたんだ」


「手足のうち残ったのは右腕だけ、片目だって無くなって意識も戻らない。そんな状況の人間を簡単に移すわけにもいかないのよ」


「それが死ぬって、もしかして状況が良くないの? いえ、それなら殺すなんて言わないはずよね……」


「院長が部屋の中で誰かと通話してるのを聞いちゃったのよ。あの話し方、目上の相手だから理事長かしら」


「そこで彼を殺すって? 本当に言ってたの?」


「正確には、死んだことにして施設に移送するって」


「施設って……ここが治療のための施設でしょう」


「ひょっとすると、噂のあれかも」


「戒世教ってやつ? 本当の院長が繋がってたっていうの!?」


「例の死体の入れ替え、ほぼ証拠も固まってて。院長、近々逮捕されるんじゃないかって噂なのよ」


「逮捕される前に最後の大仕事ってわけ……」


「ねえ青柄さん、私どうしたらいいのかな。このまま見てみぬふりをしたほういい?」


「さすがにそういうわけには」


「でもっ」




 同僚が頭に思い浮かべたのは、つい最近死んだばかりの看護師二人。




「戸水さんたちだって、本当は自殺じゃなくて他殺だったって話が出てるみたいだし」


「確か戸水さんって、例の病院の地下室の噂を広めてたのよね」


「ええ、口封じのために殺されたんじゃないかって話。たったそれだけで殺されるのよ? こんな大事なこと、盗み聞きしたことを知られたら……」




 ならなぜそれを自分に話すのか――と千尋は内心思っていた。


 一人だけでは心細かったのだろうか。




「そう言われても……私に話されても、何もできないわよ?」


「誰か、こういうのに対処できそうな人とか知り合いにいない? 警察官とか」


「警察官は……」




 芦乃が生きていれば、話を聞いてくれたかもしれない。


 ひょっとすると、芦乃が生前追っていた危険な組織というのが、戒世教だったのかもしれないのだから。


 だがもう彼女はいない。


 しかし――




「あ、そうだ」


「誰かいるの?」




 絹織ならば、新聞記者をやっているし、警察の知り合いもいたはずだ。


 千尋はそう考え、スマホを取り出す。




「信用できる人に相談してみるわ。あなたは絶対に誰にも話さないで黙ってるように、いい?」


「ありがとう。あとでどうなったか聞きに来るわ」


「あんまり期待しないでね」




 同僚はやはり挙動不審に去っていく。


 あの様子だと、院長に怪しまれそうだが、大丈夫なのだろうか。


 心配そうに千尋はその後ろ姿を見送ると、スマホで絹織にメッセージを送る。




 ◆◆◆




 夕日が沈みかけ、空が暗くなりかけた頃、絹織はスーパーの袋を片手に姉の家を目指し歩いていた。


 仕事を終え、帰り道で買い物を済ませて、姉夫婦と一緒に夕食を採ろうとしていたのだ。


 スマホに千尋からのメッセージが届いたのは、ちょうどそのときだった。


 青柄千尋の名前を見るだけで、思わず頬が緩む。


 だがその内容を見て、絹織の表情が強張った。




「島川大地が、死んだことにされる? 戒世教の施設に連れさるために?」




 なぜ――そう考えた彼女は、一瞬で答えにたどり着く。


 光乃宮学園の消失は、戒世教の儀式によるもの。


 彼らは生贄を捧げることで、曦儡宮なる神様を呼び出そうとしたと考えられる。


 そこから唯一生きて帰ってきたのが、島川大地だ。


 戒世教にとって、神の世界を知る生き証人――とでも言ったところだろうか。


 そういった経緯を持つ彼を特別視するのは当然といえば当然。


 もっとも、連れ去ったあと、一体どうするつもりなのかはてんで想像が付かないが。


 とはいえ、ただ一人の生き残りに、世間だって注目している。


 今のところ意識不明の重体であり、いつ目を覚ますかわからないとは言われているけれど、ただでさえ千尋の勤める病院は戒世教との関連が疑われている。


 このタイミングで死んだりすれば、真っ先に病院が怪しまれるはず。




「怪しまれることを承知の上でやるつもりなの……?」




 戒世教にとって、人の命はあまりに軽い。


 それは信者でも例外では無いのかもしれない。


 市長だって切り捨てられた。


 日屋見グループだって守られているという様子はない。


 むしろ、彼らこそが生きた壁だというのなら――あの病院の院長もまた、戒世教のために罪を背負い、あるいは命を散らすのか。


 千尋は『本当かどうかはわからないけれど』と付け加えたけど、絹織にはわかる。




「いや、あいつらならやる」




 今まで一体、何十人の人間が殺されてきたことか。


 そんな彼らにとって、少年一人をさらうことなど造作もないはず。


 絹織はさらに詳しい話を千尋から聞き出すと、踵を返す。




「姉さん、ごめんっ」




 そう言って、車を停めた場所まで急ぐ。


 あとで姉には謝罪のメッセージを送ろう、そう心に決めて。


 そして車に乗り込んだところで、ふと思った。


 これは自分だけで解決できる問題だろうか、と。


 仮に島川大地を病院から連れ出すことになったとする。


 相手は高校生の男子だ、女性一人で運ぶのは難しいだろう。


 千尋もかなり回復したとはいえ、まだ入院患者のまま。


 人手がほしい。


 だが巻き込める人間は限られる――




「島川さんたちに頼むかなぁ」




 島川大地の両親なら、喜んで協力してくれるだろう。


 だがそれは同時に、二人を危険に晒すという意味でもある。


 あの夫婦が迷わず返事をすると考えられる以上、選択権は完全に絹織が握っている。




「二人の息子さんのことだし、誘拐だと思われてもまずい……協力してもらおう。私だけでできることなんてたかが知れてる」




 絹織は無力だ。


 特に戒世教に対しては。


 人の死を目の当たりにしてそう感じた彼女は、意を決して島川夫妻に連絡を取った。




「もしもし、亮さんですか」


『どないしたんや、牛沢さん』




 いざ通話してみたものの――よく考えてみれば、島川夫妻は戒世教のことをよくしらない。


 そこから説明する必要があった。




「実は大地くんについて、とても大事な話があるんです」


『大地になにかあったんか!?』




 “大事な話”と聞いて、前のめりになる亮。


 絹織は一呼吸挟むと、彼らに後戻りのできない話をはじめた。




 ◆◆◆




『わかった。ひとまず俺らは病院に向かえばええんやな』


「ええ。合流してから大地くんを連れ出しましょう」




 亮は驚きながらも、絹織の話を信じてくれた。


 横で聞いていた奥さんも協力的なようで、ひとまずは絹織も病院に向かうことになった。




『話し合って引き取れればええんやけどな』


「親なんですからその権利はあると思います。ですが病院側が手放すとは思えませんからね」


『せやな。あれだけの死人を出しとるんや、信用できる連中やない』




 戒世教としては、強引にでも島川夫妻から引き剥がしたいはずだ。


 場合によっては、実力行使に出る可能性もある。


 ならば相手に知られることなく、秘密裏に島川大地を連れ出した方がいい。


 そういう結論になった。


 親が一緒なら、警察だって事情を察してくれるだろう。


 絹織は通話を終えると、車で出発しようとする。


 そのとき、スマホから音が鳴った。


 亮が何かしらの補足のためにメッセージを送ったのだろうか――そう思って見たディスプレイには、




「連城……さん」




 連城聖義の名前が表示されていた。


 心臓がどくん、と高鳴り、苦しさすら感じる。


 思わず胸元に手を当て、生唾をごくりと飲み込んだ。


 いくら島川さんとの通話を挟んだとはいえ、タイミングが良すぎる。


 偶然だろうか。


 まったく関係のない話題ならそうかもしれない。


 だがもし、万が一にでも、千尋が自分に伝えた内容と関連があったのなら――


 震える指先で、画面に触れる。


 メッセージが表示される。




『自宅待機を命じられて暇してたら、島川大地が狙われてるって情報が入った』


『どうする、お嬢さん』




 99%が、99.9%になった。


 だから0.1%を信じていれば、まだ、絹織は連城のことを信じていられる。


 もはやそれは祈りだ。


 叶わぬとわかっているから、実体のない何かに願いを託したくなる。




「千尋がたった今、同僚からその話を聞いて、私に教えてくれた」




 そう、本当にたった数分前の話だ。


 そして千尋は、その同僚にこうも言ったという。




「他の誰にも話さないようにって念を押してある」




 ならば、誰を経由して連城はそれを知ったというのか。




「連城さんに伝える可能性があるのは、千尋と、院長と、戒世教の人間だけ」




 いや、あと一人。


 それを伝えてくれる人間がいるはずだ。


 もっとも、そこに彼女の意思はなく。


 おそらくは、望まずとも、自動的に。


 絹織は拳を握る。


 強く、強く握って、唇を噛んで、そして、震える指で文字を打ち込んだ。




「連城さん」




 あるいは、ここで全てを投げ出して光乃宮市を飛び出せば助かるのかもしれない。


 絹織だけは。


 だが、その行為に、その結果に、どれほどの意味があるというのか。




「あなたは、私のスマホから、データを抜き取ってたんですね」




 送信を押す指に、なかなか力が入らない。


 でも最初に名前を呼んだ時点で。


 たぶん、あっちだってわかってるはずだから。


 覚悟を決める? いや、諦める。


 割り切って、送る。


 続けて、無意味だと理解しながらも、茶化すようにこう付け加えた。




『機械に強いから』




 あるいは、それも一種のサインだったのだろうか。


 警告の一つとして、繰り返していたのか。


 わからない。


 今は、連城の何もかもが。


 絹織がメッセージを送ったあと――しばらく返事はこなかった。


 だが既読にはなっている。


 読んでしまったのだ、彼は、あの文面を。


 それが事実ではないのなら、連城の性格上、すぐにふざけた返信をするはずだ。


 しかし間が開いている。


 その生生しい間隙が、信憑性を高めていく。


 そして――次に送られてきたのは、一枚の写真だった。


 薄暗い部屋の中、猿轡を噛まされ、手足を縛られた女性の写真。




「ね……姉さんっ!」




 絹織は震える声で叫んだ。


 そこに写されていたのは、拘束された姉の姿。


 今は家にいるはずの――いや、ひょっとすると絹織が向かうと行っていたから、先に買い物をしていたのかもしれない。


 そこで、連城に、さらわれた。


 写真に続けて、彼はメッセージを送りつけてくる。




『俺の部屋に来い。さもなくば、15分後にこの女を殺す』




 ここから連城の家までは、車で10分ほど。


 それもスムーズに行けば、だ。


 15分――迷っている余裕すら与えられていなかった。


 あるいは、彼女の現在位置を知っているからこそ、その時間を指定したのか。




「姉さん……姉さん、なんで姉さんをっ!?」




 殺すなら自分を。


 そう思ったところで――絹織は気づく。


 今までもそうだったはずだ。


 自分ではなく、周囲の人間を巻き込んで、そして近づくなと警告する。


 それはひょっとすると、連城なりに絹織の身を気遣ってのことかもしれない。


 無論、理解されるはずもないやり方だが。




 ◆◆◆




 絹織は車を飛ばし、連城が暮らすマンションに向かった。


 彼はここで、妻と娘と三人で暮らしているはずだ。


 かれこれ四年前になるが、実際に会ったことだってある。


 連城はあの部屋に、姉を連れ込んで監禁しているというのか。


 であれば、家族は一体どうなっているのか。


 マンションに到着した絹織は、エレベーターの前に立つ。


 しかしなかなか降りてこないので、業を煮やして階段で5階まで駆け上がった。


 廊下を駆け抜け、インターフォンも押さずに連城の部屋のドアを開く。




「姉さんっ!」


「んんぅっ! んううぅぅぅっ!」




 奥の扉の向こうから、うめき声が聞こえた。


 慌ててそこに駆け込んだ絹織の目に飛び込んできたのは――




「ひっ……な、なんで、首、吊って……」




 天井からぶら下がる、連城の妻と娘の首吊り死体。


 そして拘束され、床に寝そべった姉の姿だった。


 呼吸すらできなくなるぐらい、恐怖で体が震えた。


 だが、まずは姉を救わなければならない。


 ガタガタと震える手で、時間をかけて拘束具を外す。


 幸いにも、ハサミやカッターが机の上に置かれていた。


 絹織が到着さえすれば、助け出せるようにしていたのだろう。




「絹織いいぃぃっ!」




 ロープを解くと、姉は泣きながら絹織に抱きついてきた。


 絹織は抱き返し、「無事でよかった」と心から喜びながらも、目の前の光景がまだ理解できないでいた。


 なぜ、二人は死んでいる。


 いや――首吊り死体にしては妙だ、肌色が良すぎる。




「姉さん、これは一体何なの?」


「わからないわ。ねえ絹織、あ、あの男はっ、あれは誰なの!?」


「連城さん……私と一緒に、芦乃を殺した犯人を追ってたはずの、刑事、なんだけど」


「警察の人!? やっぱり警察も、戒世教ってやつに支配されてるのね?」


「うん……たぶん。連城さんまでそうだとは思ってなかったけど。あの、それで姉さん、このぶら下がってるものって、本物じゃないよね?」


「私も最初は驚いたの。でも、たぶん……人形か何かだと思うわ」


「そう、だよね。だって――娘さんがまだ小さいもん」




 最大の矛盾はそこにあった。


 絹織は、連城から家族写真を何度か見せられている。


 もちろん奥さんは年をとるし、娘さんだって成長する。


 順調に行けば、今は中学生だったはずだが、ここにぶら下がっているのはどう見ても小学校の中学年ぐらい。


 その年齢で死んでいるのなら、成長した姿で家族写真など撮れるはずがない。




「とにかくここを出よう。そのあと旦那さんと一緒に市外まで――」




 二人で脱出しようとしたそのとき、消えていたテレビに電源が入る。


 姉は「ひいぃっ!」と悲鳴をあげ、絹織は画面に釘付けになった。


 そこに映し出されていたのは、連城の姿。


 彼は悪趣味な首吊り人形の前で、椅子に座ってこちらを見ている。




『直接話せなくてすまないな、お嬢さん』


「連城さん……」


『そこに俺はいないが、15分後に殺すって言ったのは嘘じゃない。誰も来なければ、タイマーがゼロになった瞬間にその部屋は炎に包まれるはずだった。お嬢さんのお姉さんを殺さずに済んで、ほっとしてるよ』


「何をふざけたことを言ってるんですか!」


『部屋に入った瞬間、驚いただろ? 上からぶら下がってるそれな、妻と娘の剥製・・なんだよ』




 その単語を聞いた瞬間、絹織の頭は理解を拒んだ。


 人形ではなく、剥製。


 すなわち――




『戒世教のみなさまが、死体が損傷しないようにって、死んだその日のうちに保存処理してくれたんだ。その日からずっと、俺の部屋にぶら下がってる』




 二人は、死んでいる。


 しかも数年前に。


 絹織は心臓が痛かった。


 ならば、見せられたあの写真は何だったというのか。




『最初は、見るたびに毎日のように吐いて泣いてたよ。すまねえ、すまねえ、俺のせいだって嘆きながら。でも不思議なもんで、一年も経たないうちに慣れていくんだ。今では可愛げすら感じるぐらいさ』


「いかれてる……」


『イカれてるって思ったか? 俺もそうだ。でも、悲しみってのは慣れるもんでな。四年前、家に帰った俺の目の前に二人の首吊り死体が並んでたとき――そしてそこに立ってた男に指をさされながら『お前が悪い』って言われたとき。あのとき以上の悲しみなんてこの世に存在しない。だから平気なんだ』


「なんで。どうしてあの二人が殺されなくちゃならないの……」


『芦乃と一緒だ。罰だよ。戒世教に首を突っ込みすぎたんだ。でも俺は、幸いにも警察官だった。戒世教にとって使える人間だったんだ。だから、言うことを聞くならお前だけは生かしてやるって、とてもお優しい言葉をかけていただいたのさ』




 連城の言葉には、どこか棘がある。


 彼自身、納得したのではない。


 そうするしかなかったのだ、と言わんばかりに。




『もうわかってるだろ? 今まで見せてきた写真、あれ殺ったの、俺だよ。自分で殺した死体を毎回写真に撮って、見せてたんだ。部屋を調べれば、もっとたくさんの写真が見つかるぞ。欲しければ持っていくといい』


「誰が欲しがるもんか……ッ!」


『ああやって見せてれば、いつかお嬢さんたちも手を引いてくれるんじゃないかって思ってたんだ』


「やっぱり……そういう目的で」


『俺は生意気にも、戒世教に従うとき向こうに条件を突きつけた。それは、絹織ちゃんと津森を殺すときは俺がやる、っていう条件だ。他の人間に手を付けさせない。そうしなけりゃ、お嬢さんなんてとっくに連中に殺されてたよ。でもな、向こうもただ条件を飲むだけじゃなかった。なら代わりに、よりお前を便利に使えるように、こうしろって言ってきたのさ』




 どろりと、連城の顔が溶けていく。


 まるでたちの悪いホラー映画でも見ているような映像だった。


 そして下から現れたのは、削ぎ落とされた、肉がむき出しになった醜い姿。




「う、嘘……」


『驚いたか。俺にはもう、顔がない。俺は俺じゃないのかもしれない。あの日死んでるのかもしれない。そう思えるぐらい、みじめな姿だろ?』


「戸水さんを殺したときも顔を変えて近づいてたんだ」


『この“曦儡宮の一部”を顔に貼り付けてやれば、自由自在に姿を変えることができる。他人になりすますことも。そうやって、俺は大勢の人間を殺してきた。数十人……いや、もう三桁は行ってるな』


「……」




 もう、絹織は何も言うことができなかった。


 いや、そもそもこれは録画されたものだ、声を返す意味もないのだが――驚き、反応する気力すら失せたのだ。




『だから殺すことに抵抗はない。俺はこの街で生まれ育ったからな、昔の同級生を殺したことだってあるぞ?』




 本当に抵抗は無いようで、連城は同級生を殺したときのことを思い出す、軽く笑みを浮かべていた。




『そう、要するに絹織ちゃんたちのことを殺したくなかったのは、そんだけ情が湧いてたってことだな。妻も娘も死んだ今、俺の貴重な人間性を担保してくれる存在だった。殺したくなかったんだよ、どうしても』




 絹織は、連城の言っていることが理解できなかった。


 守ろうとしていたことはわかる。


 だが、人間性の担保だの、情が湧いただの、普通――それは殺すか殺さないかを区別するものではない。


 価値観が、一切噛み合わないのだ。




『その気持ちは今も変わっちゃいない。頼むよ絹織ちゃん、どうかこのまま、お姉さんと一緒に光乃宮を出ていってくれないか。そうしたら俺は見逃すよ』




 連城は椅子から降りると、土下座して絹織に頼み込む。




『頼む、この通りだ!』




 十秒以上、彼はそうして床に額をこすりつけていた。


 それは縁起などではなく、紛れもない本音だ。


 だからこそ、絹織は受け入れられなかった。


 やがて連城は顔をあげる。


 その目つきは、今まで絹織の見たことがない、深い闇を宿した気味の悪いものだった。




『それでも戒世教を暴きたいって言うんなら――俺は病院にいる。後悔したいなら、来るといい』




 低く、殺意のこもった声で。


 もし来るのなら、もう特別扱いはしない、と。


 ある種の死刑宣告をくだされる。


 絹織は強い寒気を感じた。


 胃が痛んで、吐き気もこみ上げてくる。


 死体を見たときとは別種の気持ち悪さだった。


 けれど死という意味では変わらない。


 絹織は思う。


 おそらく、連城聖義という人間は4年前に死んでしまったのだろう、と。


 まるで今の彼は、人の命を食らって生き延びるゾンビのようだ。




 ◆◆◆




 絹織は部屋を出ると、まず姉の家に向かった。


 そこで姉の夫と合流し、夫婦二人を車で駅まで送る。


 電車で市外へ移動するためだ。


 タクシーも考えたが、あの空間はある種の密室。


 もし運転手が戒世教の人間だったりしたら、安全とは言い切れない。


 その点、公共交通機関なら間違いなく市外まで送り届けてくれる。


 この時間なら人も多いので、車内で危害を加えられる可能性も低い。




「絹織は行かないの?」




 駅前で姉を車からおろすと、彼女は心配そうに窓ごしに尋ねてきた。


 絹織はここまで、このあとどうするかを伝えていなかった。


 言ってしまえば、全力で止められるとが容易に想像できたからだ。




「私は病院に向かう」


「何を言ってるの。あの男がいるのよ!?」


「うん、そしてそこに千尋もいる」


「それはそうかもしれないけど……あなたが死んだら意味が無いわ! 通報して、警察に行ってもらうべきよ」


「それで千尋が死んだら、それは私が死ぬのと同じことだから」


「絹織……あなたそこまで」




 姉も、絹織と千尋が親友であることは知っている。


 だがそれ以上の関係であることに、今はじめて気づいた。




「だって千尋は私の恋人だもん。私の人生、最後まであの子と一緒って決めてるの」




 彼女はそう言って、車を発進する。




「待って、絹織!」




 車体にしがみつこうとする姉を、夫が止めた。


 絹織はミラー越しに頭を下げ礼をすると、今度こそ病院へ向かった。




 ◆◆◆




 島川亮は焦っていた。


 絹織から連絡を受け、すぐさま夫婦で病院に向かった。


 そして大地のいる病室の前で、彼女の到着を待っていたのだが――近くの部屋から声が聞こえてきた。


 聞き耳を立ててみると、やれいつ連れ出すかだの、死体はどう誤魔化すかだの、不穏な単語が聞こえてくる。


 どうやら院長が誰かと話しているらしかった。


 こうして誰かに聞かれるような場所でやっている時点で、やはり焦りはあるのだろう。


 特に院長に関しては、病院の存続が危ぶまれるような状況なのだが、胃に穴が空きそうな思いをしているはずだ。


 余裕がない人間は、普段絶対にありえないようなミスを犯す。


 亮は一旦その場から離れ、廊下の隅っこで妻の久美子と話し合う。




「さっきの聞いたか」


「あの男の人、今から連れ出すって……」


「もう時間があらへん。牛沢さんには悪いが、俺とお前でやるしかない」




 そのとき、亮のスマホが鳴る。




「誰からの連絡なの?」


「牛沢さんやな。『そこは危険だから逃げてください』……」


「どうして急にそんなことを!?」


「何や危ないやつが来とるようやな、丁寧に写真まで付いとるわ。つまり、大地が狙われてるのは決まりっちゅうことや」


「ますます、やるしかなくなったわね」


「相手は老人一人や。後ろからぶん殴って気絶させればどうとでもなる。危険なやつがおっても、見つかる前に逃げてしまえばええだけのことやからな」




 亮は近くの部屋から、折りたたみの椅子を持ってきた。


 畳んで鈍器として使うつもりらしい。


 一方で久美子は、大地を運ぶための車いすの取手を握りしめていた。


 そして大地のいる部屋のすぐ近くの角で待機する。


 少しすると、院長が歩いてきた。


 部屋の前で止まり、ドアに手をかけたところで――亮は無言で椅子を振り上げ、院長の頭に振り落とした。




「うっ……ぐ……」




 ゴッ、と鈍い音が鳴った。


 彼はうめき声をあげ、意識を失う。




「死んだりしてないわよね?」


「今は確認してる余裕はあらへん、大地が優先や!」




 二人は部屋に入る。


 そして大地の体に繋がっているコードや点滴などを外し、体を持ち上げ車いすに乗せた。


 病室ではうるさくアラームが鳴り響いている。


 じきに看護師がやってくるだろう。


 車いすを押して、急いで部屋を出る二人。




「島川さん!? 何をなさってるんですか!」


「あかん、もう見つかってもうた。急ぐぞ久美子!」


「はい!」




 車いすを押したまま走り、看護師を振り切ろうとする亮。


 そして夫妻はエレベーターの前までやってきた。




「はよう来い! こういうときに限ってなんで違う階にあるんや!」


「あ、あなた、あの人っ!」




 脇にある階段の方から、連城が姿を現す。


 その後ろには島川夫妻を追う看護師の姿もあったが、何か不穏な空気を感じたのか、少し離れた位置で足を止めていた。


 連城は笑顔を浮かべると、ポケットから警察手帳を取り出し二人に近づく。




「どうもどうも、見ての通り、俺は刑事なんだが――」


「あんたが連城聖義か」


「ああ……絹織ちゃん、教えちゃったのか」




 ふっと連城の顔から表情が消え、そして彼は無言で銃口を亮に向けた。


 亮は妻と大地をかばうように前に出る。




「あなた、あれって……」


「うろたえる必要はあらへん。いくら刑事言うても、そう簡単に発砲できるわけが」




 次の瞬間、パァンッ! という発砲音が廊下に鳴り響き、亮の肩で血が弾けた。




「ぐうぅぅッ!」


「いやぁぁぁああああッ!」




 亮のうめき声、そして久美子の悲鳴が響く。


 少し遅れて看護師も響き、何事かと他の人々もあたりに集まりはじめた。


 連城はお構いなしに銃を握ったまま島川夫妻に歩み寄る。


 対する亮は、歯を食いしばって痛みに耐えながら、その場に立っていた。




「ほんまに……牛沢さんが話した通りのやっちゃな」


「お嬢さんはなんて言ってたんだろうな」


「心が死んどるから、人を殺すのに躊躇が無いっちゅうことらしい」


「さすが記者だ、見る目がある」




 そう言って、連城は二発目を放つ。


 次は腹部に命中、亮は「う、ぐおぉっ……」とうめきながらも、なおも倒れない。




「しぶといな」


「あなた、あなたあぁぁあっ!」


「お前は大地を連れて逃げるんや! こいつは……俺が止める。うおおぉぉおおおおッ!」




 雄叫びをあげながら、連城に突進する亮。


 同時にエレベーターが到着した。


 久美子は涙を流しながらも、大地と共に乗り込む。


 連城は三発目を放とうとしたが、亮のタックルが想定以上に早く間に合わない。


 だが動揺はしない。


 このような直線的な動き、軽く投げ飛ばせば済むことだ。


 それから久美子を追っても、エレベーターのドアが閉まるのに間に合うはずだった。


 連城は亮に足をかけ、バランスを崩そうとした。


 しかし、思いの外相手の体幹が強い。


 また、容易に投げられない体勢を取れている。




「素人じゃねえのか」




 そう連城が気づくと、亮は口元を血で汚しながらニィッと笑った。




「学生時代は、レスリング部でなぁ。素人や思て油断したんやろ!」




 相手に組み付く亮。


 思いの外、手間を取らされ連城は舌打ちをした。


 その間にエレベーターの扉は閉まり、大地と久美子は出口のある一階へと移動する。




 ◆◆◆




 絹織は病院に到着すると、夜間入り口から中に入る。


 院内は騒然としていた。


 上の階で騒ぎが起きたようだ。




「亮さん、まさかもうやっちゃったの?」




 はたまた、連城が何かやったのか。


 今はとにかく、千尋がいる階に向かうのが優先だ。


 エレベーターの場所まで走ると、ちょうど1階に到着したらしく、ドアが開いた。


 中から車いすに乗った大地と、顔を真っ青にした久美子が姿を現す。




「久美子さん!」


「う、牛川さんっ……あの人が……亮さんが……っ!」




 取り乱した久美子は、その場にしゃがみ込む。


 大地の体はわずかに血で汚れていた。


 連城が発砲したのだろう。


 絹織の血の気が引いていく。


 だが、ならばここに留まっているのは危険だ。


 絹織は久美子に歩み寄ると、その背中をさする。




「今は大地さんを連れて逃げましょう。助けてくれた亮さんのためにも」


「ええ……そうね、そうするしかないわ……」




 少しだけ落ち着きを取り戻した久美子は立ち上がると、エレベーターを降りた。


 二人は並んで出口を目指す。


 そして外に出る直前、絹織は足を止めた。




「久美子さん、私はまだ助けないといけない人がいるんです」


「えっ?」


「二人で先に逃げててください。島川さんの車は使えますか?」


「近くに停めてるけど……でも危険よ、あの連城って男がいるの!」


「知ってます。彼の狙いは私ですから」




 そして今までの傾向からして、おそらく間違いなく千尋を狙う。


 どうしても絹織を殺したくないから、周囲の人間を殺して心を折ろうとするのだ。




「……わかったわ。でも気をつけてね」




 その時、前方でタンッと何かが地面に触れる音がした。




「もう手遅れだよ」




 続けて、連城の声が響く。


 上の階から飛び降りてきたのだ。


 そちらに二人の視線が向くと同時に、彼は発砲する。


 絹織はとっさに久美子の体を掴み、床に転がりそれを避けた。


 銃弾は壁に当たり、火花を散らす。


 反射的なものだった。


 避けられたのは完全に奇跡だ。




「お嬢さん、いい反応するな。殺し屋の才能があるんじゃないか?」


「連城ッ!」


「怖い顔するなよ、まだお嬢さんの身内は誰も殺してないだろ」


「あなた……亮さんをどうしたの! あの人はっ!」




 返り血で汚れた連城は、久美子を見て不気味に笑った。


 彼女はその表情から答えを察し、目を見開き取り乱す。




「そ、そんな……いやぁぁぁあああっ!」




 少なくとも、亮は動けない状況に追い込まれている。


 そしてエレベーターで降りた久美子に追いついていることから、おそらくは上の階から飛び降りてきたのだろう。




「この人でなしめ」


「そうさ、俺は人でなしだ。死んでるんだから当たり前だろ?」


「そういうのは開き直りって言うの。死ぬなんてかっこいいもんじゃない!」


「かっこいいかぁ? まあいいや、どうせみんな死ぬんだ。見てくれなんてどうでもいいだろ」




 再び銃口が二人に向けられる。


 狙っているのは久美子か。


 この期に及んで、絹織を優先的に殺すつもりはないということか。




「おっと、その前に――大事なことを忘れてたな」




 すると、連城はなぜか銃を降ろす。


 そしてすっかり暗くなった夜の闇の向こうに視線を向けた。




「言ったろ、後悔させるって」




 彼は近くの茂みに踏み込むと、そこに隠してあった“何か”を引きずり出す。




「千尋っ!?」




 それは、拘束された千尋だった。


 意識はあるようだが、姉同様に猿轡を噛まされうまく喋れないようだ。


 いや、それだけじゃない。


 顔にわずかな痣があり、その瞳には明らかな恐怖が滲んでいた。




「そうやって、また無関係な人間を巻き込んでえぇッ!」


「絹織ちゃんは関係者だろ。じゃあ関わった人間も全員関係者だ」


「そんなの無差別に殺したいだけの理屈だ!」


「仕方ないだろ、上がそう望むんだから」




 連城は千尋の頭に銃口を押し付けた。




「んううぅぅっ! うううう!」


「やめろぉおおおッ!」


「なら止めてみろよお嬢さん。ここは理不尽な悪夢の中なんだよ、都合の悪いことばっか起きちまう世界なんだ――とまあ、絹織ちゃんにも俺と同じ目にあってほしかったんだが、そうもいかないんだ」


「どういうこと……?」




 弄ぶように、再び銃が降ろされる。


 そして今度は、ポケットの中から小瓶を取り出した。


 暗くてよく見えないが、中では赤い何かが蠢いている。




「ブラッドシープ」




 急に、連城が聞き慣れない言葉を発する。




「何よ、それ」


「戒世教が生み出した、神の断片だよ。あるいは神そのものかもしれない」


「だから何なのかって聞いてるの!」


「学園から回収されたんだ。人間を神の使徒に変えてくれるありがたい……あー、なんだ、生き物? って言えばいいのか」




 半笑いで話しながら、彼はその中身を取り出すと、千尋の耳にそれを近づける。


 絹織は止めようと前に踏み出すが、すかさず連城は足元に発砲。


 その動きを静止する。


 そしてついに、ミミズのようなブラッドシープは、千尋の体内に入り込んだ。




「んっ、んぐうぅぅううっ!」


「ち、千尋ぉ……」




 くすぐったさ、気持ち悪さに身を捩る千尋。


 しかし、すぐにその体に変化が生じる。


 びくんっ! と大きく痙攣しはじめたのだ。




「ぐおぉおおおおっ! お、おぐぅっ、むぐおぉおおおおおっ!」


「もうやめてよ連城さんっ! 殺すなら私を殺せえぇぇええええッ!」


「俺を生かしたのはお嬢さんだろ? 因果応報ってやつだ」




 さらに千尋の痙攣は激しくなり、目からは大量の涙が溢れ出していた。


 猿轡を噛む力も強くなり、ついに口を封じていた布が千切れる。




「が、がふっ、ぐがっ、きお、り――」


「千尋っ! 千尋ぉ、しっかりしてぇぇっ!」


「ぐぎゃっ」




 そしてバキッという音と共に、首が不自然に曲がり、千尋の動きが止まる。




「……千尋?」




 絹織は彼女にもとに駆け寄った。


 なぜか、連城はそれを止めなかった。


 千尋の体を抱きかかえる絹織。


 なおも、千尋は動かない。




「千尋。千尋っ、千尋っ、千尋ぉおっ!」


「ぅ……ぁ……」




 動かなくなったと思った千尋だったが、わずかにうめき声をあげる。


 体も温かいし、まだ生きている――そう感じた絹織の表情にわずかな希望が生じる。


 だが、次の瞬間。


 ずるうっ、と耳から赤い肉の塊が這いずり出てくる。


 それは人の頭ほどの大きさのある――いや、人の頭そのものだった。


 形も角度もいびつな目に、歪んだ鼻、そして歯茎をむき出しに開かれた口。




「千尋ちゃん、新しい顔よ。なんてな」




 連城がそんな笑えないジョークを言った。




「あ……あぁ……何……ち、千尋……あ、ああぁぁあああっ!」




 目の前に現れたその異形に、腰が抜け、うまく喋ることすらできなくなる絹織。


 一方、本来の千尋の頭の方は、半開きの口からだらんと舌を出し、唾液も鼻水も涙も垂れ流す、まるで死んだような姿になっていた。


 まるで新しい頭ブラッドシープに乗っ取られたような、そんな風にも見えた。


 そして“彼女”は言う。




「サビシイ」




 ぬるりと赤い首を伸ばして、絹織に開いた口を近づけながら。




「ミンナ。ワタシ、イタクテ、サビシイヨ」




 そして、そんな切なげな声を吐き出す口から、ぬるりと赤い触手が伸びる。


 それを絹織の耳に近づけた。




「ひ、いやぁぁぁああああッ!」




 もはや彼女は叫ぶことしかできなかった。


 その拍子に、わずかに顔を背けたことで侵入を避ける。


 顔にぬるりとした感触が触れた。


 反射的に、絹織は千尋を突き飛ばす。


 倒れた彼女は、ゆっくりと両腕を使わない人間離れした動きで立ち上がった。


 千尋は尻もちをつき、後退りする絹織にじりじりと迫る。


 動きはさほど素早くない。


 それだけに、近づいてくるまでの時間が限りなく無限に近い長さに感じられた。


 連城はそんな二人の様子を、目を細め、感慨深く観察していた。




「いい夜だな、絹織ちゃん」


「もうやだ。何なのこれ、こんなの夢だよ!」


「言ったろ、後悔するって。終わりなんだよ。規制された千尋ちゃんの脳はもう穴だらけだ、二度と元に戻ることは無い」


「悪い夢だぁぁああっ!」


「そうだ、悪夢だな。俺は4年も見てきた」




 そして望んできた。


 夢の終わりを。


 希望が尽きる、その瞬間を。


 すると――しばらく静かになっていた久美子が、ふいに大地の車いすをつかむ。




「う、うううぅぅ……」




 さながらエンジンのように低い声を出し、血走った目で連城を睨みつける。


 あるいはそれは、決意や覚悟とでも呼ぶべき感情なのかもしれない。


 夫は身を挺して自分を守った。


 そうして生き残った自分がやるべきことは何か――


 それは狂乱のようで、しかしこの場にいる誰よりも冷静な判断でもあった。


 彼女は低い姿勢のまま、島川大地の乗った車いすで連城に突っ込んでいったのだ。




「破れかぶれかよ……チッ、息子を盾にしやがって!」




 彼は躊躇した。


 戒世教の手下である連城は、盾となった島川大地を傷つけるわけにはいかなかったのだ。


 横に飛んで、久美子の突進を避ける連城。


 すかさず横から彼女に発砲。


 久美子は脇腹に銃弾を受けて崩れ落ち、大地の乗った車いすだけが離れていく。


 一方、その様子を見ていた絹織は、己の中に渦巻く二つの感情と戦っていた。


 恐怖と憎悪。


 もはやそれ以外、何も感じることはできず――どちらに屈服するか、その選択を迫られている。


 彼女は決めた。


 今は、連城を憎悪するこの気持ちに身を委ねよう、と。


 そして彼が久美子に発砲したとき、絹織はすでに走り出していた。


 手にはバッグに潜ませていた改造スタンガンを持って。




「うわぁぁああああああっ!」


「お嬢さん――」




 銃口が絹織の方へ向けられる。


 が、彼女の方が速い。


 改造スタンガンなんて代物を都合よく持っていたのはなぜか。


 それは以前、連城に言われたからだ。


 身に危険が及んだときのために、相手はまともじゃないんだから、強めの護身道具を持っておけ、と。


 そう――それを告げたのが自分だからこそ、連城の意識が、一瞬だけスタンガンに向いた。


 俺の助言を聞いてくれたのか、とわずかに頬が緩む。


 そして押し付けられたスタンガンから、バチィッ! と電気ショックが放たれた。




「がっ……あ」




 連城の体が震え、力が抜けていく。




「はっ……はっ……はっ……」




 絹織は地面に倒れた彼を見下ろし、肩で呼吸をした。


 やがて憎しみと勢いに埋め尽くされていた心に、別の感情を詰め込む余裕が出来て、途方もない虚しさが去来する。




「何なの、これ」




 信じていた人が人殺しだった。


 大好きな人が化物になった。


 そしてその大好きな人は今――倒れた久美子に覆いかぶさり、耳に何かを注いでいる。




「ねえ芦乃……何でこんなことになっちゃったの……?」




 久美子の体が震え、千尋と同じようにその耳から赤い塊が出てくる。


 新たに生まれた顔は、「サビシイ」「イタイ」と繰り返しながら、絹織に歩み寄ってきた。


 加えて、病院の中からも、同じくブラッドシープに寄生された患者や看護師たちが出てくる。


 まるでゾンビ映画で見たような光景だった。


 あまりに行き過ぎて・・・・・いて、絹織は諦めにも似た、投げやりな気持ちになっていた。


 悲しみを通り過ぎ、怒りを通り過ぎ、恐怖を通り過ぎ、感情が温度を無くしている。


 一方その頃――久美子の手を離れた、大地の乗る車いすは少し離れた場所で止まっていた。


 絹織はそちらに視線を向ける。




「千尋がいないなら、もう何もかもに意味はない」




 だから、何を選択したとしても、何も変わらない。


 ならきっと、最善策は千尋に身を委ねることなんだと思う。


 でも、なぜだろう。


 心は死んでいるはずなのに、まだ体は前に進もうとしている。


 絹織は大地の乗る車いすに駆け寄り、彼とともに自らの車の前まで移動した。


 ブラッドシープの群れが追いかけてくる中、大地を助手席に乗せ、絹織は運転席でハンドルを握る。


 バックミラーには、こちらを追いかけてくる千尋の成れの果てが写っていた。


 だがそこに写る自分の顔もまた、ゾンビみたいに疲れ果てた有様で。


 たぶん私たちの間に大きな違いなんて無いんだろう――そう感じた。




「行くよ、大地くん」




 エンジンをかけ、アクセルを踏む。


 ブラッドシープたちの「サビシイ」という声が、遠ざかっていく。




 ◆◆◆




 車を走らせ、市境が近づいてきた頃、ラジオから速報でニュースが流れてきた。




『今日夜、光乃宮市内の病院にて傷害事件が発生しました。容疑者は市内の新聞社で働く牛沢絹織と見られ、現場からは車で逃走したとのことです。容疑者は病院に入院していた少年を連れ去ったとの情報もあり、警察は捜査を進めています』




 絹織はとっさに左の路地に入ると、ブレーキを踏んだ。


 ニュースに驚いただけではない。


 道路の向こうに、パトカーのランプが見えたのである。




「あの状況を見て私がやったって、どうなってるの。今は市外の警察がやってるんじゃなかったの?」




 戒世教の影響が及んでいるのは、光乃宮市だけではないというのか。


 それにしたって、あのブラッドシープを見れば異常なことだと気づくだろうに。


 しかし、県境に見えたパトカーは明らかにその場に止まっていた。


 検問を行っているのだろう。




「これじゃあ逃げられないじゃない」




 道は塞がれた。


 絹織は仕方なく引き返すと、できるだけ人の居ない場所を目指すことにした。




 ◆◆◆




 夜の山道を車は走る。


 ラジオからは絹織を犯人扱いするニュースばかり聞こえてくるので、今は消してある。


 もっとも、そんなことをしたところで、“追い詰められている”という感覚は消えない。


 まともに舗装されていない道路を進みながら、浮かぶ言葉は『私は何をしているんだろう』という虚しいもの。


 誰も救えなかった。


 何も成し遂げられなかった。


 そんな状態で大地を連れて逃げて、一体何を目指し、どこへ行こうというのか。


 いっそ警察に自首して、事情を伝えた方がマシなんじゃないか、と思ってしまうほどに追い詰められていた。


 そのとき、助手席の大地がもぞりと動いた。




「……何や。俺、生きとるんか」


「な――目を覚ました!?」




 慌てて路肩に車を止める絹織。


 大地は大きな声をあげる彼女の方に、ゆっくりと視線を向けた。




「あんた誰や」


「私は、牛沢絹織」


「牛沢……牛沢先輩の親戚なんか?」


「先輩? そっか、あなた高校1年だから――もしかして会衣と知り合いなの?」


「ああ、学校ん中で生き残り同士で集まってたからな。その中に牛沢先輩もおったんや」


「会衣が、生きてる……!」




 それは、久しぶりに聞いた“良い知らせ”だった。


 今すぐにでも姉に伝えたい。


 だが、うかつに連絡を取ると、また危険に巻き込んでしまうかもしれない。


 絹織はぐっと気持ちを飲み込んだ。




「その反応、やっぱり家族なんやな」


「会衣は私の姪よ。それより学校で何があったの?」


「待ってくれ、その前に現状の説明をしてくれんか。俺の体はこんなことになっとるのに、何で車で連れ出されてるんや?」


「それは……」




 絹織は、今日まで光乃宮市で起きたことを、できるだけ簡潔に説明した。


 もちろん、先ほど病院で起きたことも。




「親父……おふくろ……せっかく生きて外に出られたっちゅうんに、結局は戒世教にやられてしまうんか……」


「やっぱり学園やファンタジーランドが消えたのは、戒世教のせいなんだね」


「ああ、たぶんな。俺は1階で脱落してもうたから、詳しいことまで知っとるわけやないけど」


「脱落?」


「まずはあの中で何が起きたかを説明せんとあかんな」




 今度は、大地が話す番だった。


 光乃宮学園の内部がどうなっていたのか――それは絹織が話した内容よりも、さらに信じがたいものだった。


 同時に、大地が“ブラッドシープ”なんて荒唐無稽な存在を、あっさりと信じてくれた理由もわかる。




「じゃあ、私が病院で見たブラッドシープは、学園にいた化物の一部みたいなものなのね」


「何で残ってるのかはわからへん。フロアの主になった兄貴が死んだ時点で、全部崩壊したはずやのに」


「でも大地くんは生きてる」


「それは……1階が崩落するとき、俺も死を覚悟してたんや。というか、兄貴と一緒に死ぬつもりやった。けど……」


「優也くんが守ってくれた。違う?」


「正直、俺も意識が飛ぶ寸前ではっきり覚えてるわけではないんやけど……なんか温かいような、生ぬるいような、そんな感触に包まれとった。兄貴が、命を賭けて俺のことを守ってくれてたんやろうな」




 島川優也は復讐を望んだ。


 だが、それに大地や明治羊子を巻き込むことは望んでいなかったはずだ。


 そのせめてもの償い――それが、大地を生かして外に逃がすことだったのだろう。


 しかし、一度フロアの主となった優也にとっても、それは無茶なことだった。


 目と手足――それほど大きな代償を伴わなければ、あの崩壊から生き延びることはできなかったのである。




「そこまで大事に守られた命なのに、私が無力で申し訳ないな」


「外に助けを求められる相手はおらんのか?」


「すでに誘拐犯扱いされてるのに、私のこと信じてくれる人なんていると思う?」


「ブラッドシープとやらの写真は無いんか、証拠があれば動いてくれるかもしれへん」


「さすがに撮影する余裕は無いよ」


「……一つ確認なんやけど」


「何?」


「学園から生きて出てきたのは俺だけなんやな?」


「現状、2階とファンタジーランドの瓦礫が落ちてきてるけど、今のところは見つかってないわね」


「牛沢先輩は死体すら見つかっとらんし、倉金真恋とか、日屋見麗花みたいな有名人も見つかってないってことでええんか」


「日屋見グループのご令嬢じゃない。彼女も一緒にいたの? もし見つかってたら騒ぎになってるはずよ」


「そうか……なら生きてるのかもしれん」




 それが、今の追い詰められた状況とどう関係してくるのか、絹織にはわからない。


 しかし、どのみち打つ手などないのだ。


 大地が何か活路を見出しているのなら、それに任せるしかない。




「なあ、お姉さんのスマホ貸してくれへんか」


「いいけど……」




 ロックを解除し、絹織は大地にスマホを渡す。


 いつもなら嫌がるところだが、今は見られて困るものなど何もない。




「何や、また新しい階が落ちてきとるやんけ」


「そうなの? 今度は3階ってこと?」


「3階と、何やどっかのお城やらが、土やらが混ざってたみたいやな」


「あの学園、確か3階建てだっけ」


「ああ、あと残るは屋上だけやな」




 大地は残った右手を使い、なにやら誰かに連絡を取ろうとしているようだった。


 絹織は最初こそその様子を観察していたが、いつまでも止まっていては危険なので、再び車を走らせる。




「これ、どこに向かっとるんや。えらいガタガタした道やけど」


「山の頂上」


「そこ行き止まりやろ」


「せめてもの時間稼ぎができればと思っただけだから。その間に、誰かが助けてくれたら……」


「誰もおらへんのに、そう願うぐらい追い詰められとるんやな」


「大地くんも一蓮托生なんだけどね。というか私のこと信じていいの? 誘拐犯なんだけど」


「戒世教の方がよっぽど信用ならんわ」


「話がわかる相手で助かる」


「その勢いで二人とも助かるとええな」


「うん……二人どころか、みんな助かるといいのに。千尋……」




 千尋は化物になってしまった。


 連城曰く、あれに寄生された人間は脳を穴だらけにされて、二度と元には戻らないのだという。


 信じたくはない。


 というか、これが現実だと思いたくない。


 目を覚ましたら朝で、同じ部屋に千尋が暮らしていて、二人でのんびり朝ごはんを食べて――そんな日常が待っているのだと、そう思いたくて仕方ない。


 でも、これは現実なのだと。


 バンッ! とフロントガラスに叩きつけられた人体の衝撃が、夢への逃避を許さない。


 “上”から落ちてきたのは、ブラッドシープに寄生された千尋だった。


 二人の目が合う。




「いやあぁぁああああっ!」




 絹織は叫びながら大きくハンドルを切った。


 そして車は路肩の壁に衝突し、車内をガクンっ! と大きく揺らしながら停止する。


 エアバッグが展開され、絹織と大地の体に勢いよく叩きつけられた。


 静かな山中に、クラクションの音が断続的に鳴り響く。




「うおぉおおっ! いっつつ……今のはなんなんや」


「う、うぅ……千尋……どうして、千尋が……っ」




 あの移動速度で、山に先回りできるはずがない。


 つまり、誰かがここまで寄生された千尋を連れてきたのだ。


 その答え合わせをするように、複数人の足音が近づいてくる。




「なんやなんや、変な連中に囲まれとるぞ!?」




 絹織の車を取り囲むのは、顔の隠れたローブのようなものを纏った怪しげな4人ほどの集団。


 銃で武装しているが、どう見ても警察ではない。




「戒世教のやつら……」




 彼らは窓を割ると、慣れた手付きで鍵をあけ、絹織と大地を車から引きずり出した。




「離せや! お前らのせいで何人死んだと思ってるんや! 俺の家族を返せッ!」




 もちろん大地は腕一本で抵抗などできるはずがない。


 どれだけ叫んでも、抵抗虚しく彼らの乗ってきた車に連れて行かれる。


 一方、絹織はとっさに例のスタンガンを取り出すと、まず一人目の首に突きつけた。


 服越しでもショックで身動きが取れなくなる程度の威力はある。


 一人目が崩れ落ちると、もう一人が絹織に銃を向けた。




「こいつ、武器なんて持っているのか!」


「うあぁぁぁあああああッ!」




 彼女はやけくそ気味に発砲される前に掴みかかると、銃を持つ手に噛みつく。




「クソっ、もう終わりなんだよ。大人しくしろ!」




 振り払われ、地面を転がる絹織。


 だがこれで距離は取れた。


 彼女はすぐさま立ち上がると、山頂の方角を目指して走りだした。


 しかし、その前に千尋が立ちはだかる。




「サビシイ。イタイ。タスケテ」




 ブラッドシープが不気味な声を出しながら近づいてくる。


 絹織は、千尋の顔を見ると足がすくんで、思うように動けなくなった。


 その間にも、背後からは戒世教の集団が接近している。




「千尋……ねえ、千尋。私、絹織だよ。千尋が大好きな牛沢絹織! ねえ、わかんないの!?」


「サビシイ。サビシイ。ヒトリ、イヤダ」


「私だって一人はやだよお! 帰ってきて、お願いだからぁ……!」




 泣きながら懇願しても、千尋がもとに戻ることはない。


 元の彼女の頭部は、ただ体液を垂れ流すだけで、完全に死んだようになっていたから。




「牛沢絹織、大人しく我々についてこい」




 後ろにいる連中も、完全に絹織の逃げ道を塞いだ。


 前には千尋、左には壁、そして右には崖。


 もう、行くべき道は一つしかない。




「……っ、うおぉおおおおおおおッ!」




 絹織は可愛げの欠片もない咆哮を轟かせ、思い切って崖から飛び降りた。




「バカな、何メートルあると思ってるんだ!」


「死んだな」


「死体を持ち帰れば猊下からお説教だ。二人は島川大地を運べ、俺とお前ですぐに追うぞ」


「了解」




 戒世教の男たちは、速やかに絹織を追跡する。


 一方、残された千尋は崖の前まで移動すると、無言でじっと下を見つめていた。




 ◆◆◆




「おーい、起きろ」




 頬をぺちぺちと叩かれ、絹織は目を覚ます。


 視界に入ったのは――近くに置かれたランプに照らされた、連城の顔だった。




「ひっ――」




 思わず引きつった声をあげ、後ろに下がろうとする絹織。


 だがその背中には、木の幹が当たっていた。


 崖から飛び降りた絹織は、斜面を転げ落ちて、木々が鬱蒼を生い茂る山中に倒れていたのだ。


 それを連城が発見し、休ませていたらしい。




「そんな怯えることないだろ。いや、怯えることあるのか。俺がやったんだもんなあ、全部」


「連城……お前の、お前のせいで千尋が……!」


「俺も同じ気持ちだったよ、4年前」


「言い訳をするなあッ!」


「そうだな……言い訳だな。俺が死ねば全て済んだだけの話だ。でも絹織ちゃん、俺を生かしたのは君だろう?」


「意味の分からない理屈で私に責任を押し付けないで」




 真正面から憎しみを向けられた連城は、満足気に微笑むと、切り株に腰掛けた。


 そして置かれていた缶コーヒーを口に運ぶ。




「良かったよ、来る途中の自販機でこのコーヒーがあって。人によっては苦すぎるって言うやつもいるんだが、俺はこれが好きなんだ」


「話をそらさないでよ」


「芦乃も飲めなかったんだよな。そんなに俺の味覚がおかしいか? って不安になったもんだ」


「何を誤魔化そうとしてるの?」


「誤魔化してなんかない。ただの思い出語りだよ、そうしたくなるタイミングなんだ」


「意味、わかんない」


「さっきからそればっかだな。もしかして俺の言動、ちぐはぐになってるか?」


「ずっとね」


「そうか……まあ、4年も浸ってるとなあ、頭だっておかしくなるさ」




 そう言って、連城は疲れた様子で苦笑した。




「今日話した通り、最初は死体の写真を見せることで、お嬢さんや津森を戒世教から遠ざけるつもりだった」


「……知ってるけど」


「そう怒るなって、俺なりにお嬢さんの疑問に答えようとしてるんだ。知りたいんだろ、何で俺が生きてるのか」


「その話とどうつながるっていうの」


「死体の写真、何度見せても……折れねえんだよ。お嬢さんも津森も。それどころか、よりやる気を強めて、戒世教を暴いてやるって意気込むんだ。俺、尊敬したんだよな。眩しくて、キラキラしてた」




 懐かしむように、遠くを見ながら彼は語る。


 もう戻らない日を惜しむように。




「それはまさしく、“希望”だった。どれだけ死体を見せても前に進もうとする二人の姿は、俺に、生きる勇気をくれた」


「だから……死ななかったっていうの?」


「俺が殺すだろ? それを撮影しながら、俺は自分が憎くて、ふがいなくて、殺したくなるんだ。でもその写真を見た二人の姿を見ると、元気が湧いてくる。その繰り返し。繰り返したせいで、たくさん死んだ」


「あの世で家族が軽蔑してるだろうね」


「芦乃と津森もな」


「津森さんはまだッ!」


「死体が見つかったらしい」


「っ……」


「だから、俺を罰してくれる人が増えた。それも安心点だな」


「逆に誰も罰なんて与えてくれないかもね。もう近づきたくないと思って」


「そりゃあ辛いな。ああ、そっちのが辛い。まあ、あっちに行きゃ結果は出る。そのときに、嫌でもわかるさ」




 連城はコーヒーの近くに置かれていたリボルバー銃を手に取ると、残弾数を確かめた。




「青柄千尋にブラッドシープを寄生させたとき、絹織ちゃん、すごくいい顔をしてたよな」


「目が腐ってるんじゃないの」


「俺を生かした希望の顔じゃない。俺がずっと見たかった、絶望の顔だ」


「当たり前でしょ……私が、どれほど千尋のこと好きだったか……! やっと、やっと思いが通じ合って、恋人になれるってときだったのにッ!」


「いいタイミングだったな」


「ふざけるな連城おぉおおおおッ!」




 絹織は怒りのまま立ち上がろうとした、だが右足に力が入った途端、猛烈な痛みが彼女を襲い崩れ落ちる。




「うぐうぅっ、ぐ……!」


「今まで気づいてなかったのか? 右足、折れてるぞ。まああんだけ高い場所から落ちてきたんだ、足だけで済んだのは幸運だったな」


「クソ……クソ……こんなやつが目の前にいるのに、何もできないなんて……!」


「なに、心配は必要ない。言ったろ? やっと絹織ちゃんの絶望が見れたって。君は俺に生きる勇気じゃなく――死ぬ勇気をくれたんだよ」


「は……?」


「残弾5発だ。今から1発使うから、残り4発になる」


「な、なにを……するつもりなの」


「正直、病院の時点で諦めるんじゃないかと思ってた。あれだけの絶望だ、心が折れてもおかしくない。でも、お嬢さんはここまで来た」




 自らの銃を、こめかみに当てる連城。


 確実に死ぬなら口で銃口を咥えたほうがいいなんて話もあるが――今までさんざん人を殺してきた連城が、自分を殺し損ねるはずがない。




「だから――今もまだ抗おうと思ってるんなら、この銃を使うといい」




 そして、彼は引き金を引いた。


 迷いはなかった。


 もう死んでいるのだから、これはその事実を確かめるだけの行為だ。


 タァンッ、と乾いた銃声が響き、銃弾は連城の頭部を貫いた。


 銃撃の衝撃により、切り株に座っていた彼の体は横に倒れる。


 顔を彼はに埋めて、笑顔のまま動かなくなった。




「連城さん……? 連城さぁあんっ!」




 最初に訪れた感情は――悲しみだった。


 何だかんだ、6年も一緒にやってきたのだ。


 最後の最後に裏切られたとはいえ、それまでの時間が消えてなくなるわけじゃない。


 もちろん恨みが晴らされた、という気持ちもある。


 でも今は、己の刹那的にこみ上げてきた直感的な感情は、涙を流すことを選択した。


 足を引きずりながら、彼の亡骸に近づく絹織。




「何……やってるんですか。ほんと、最初から最後まで……色んなもの、めちゃくちゃに壊して……ッ!」




 津森も連城も死んだ。


 芦乃も千尋ももういない。


 もう絹織には、何も残っていない。


 ならば――遺されたこの銃を、手に取る意味は何か。




「銃声が聞こえたぞ、こっちだ!」




 戒世教の連中の声が聞こえる。


 絹織は、気づけば握っていたその銃口を、その声の方角へと向けた。


 暗い上に、涙でにじむその視界で、一体何を狙えるというのか。


 意味は見えず。


 もはや本能で動いているだけの絹織は、その人影が見えた瞬間、迷いなく引き金を引く。




「ぐあぁぁああっ!」


「撃ってきたぞ、連城じゃない! 牛沢絹織だ!」




 暗闇の中、再び見えた人影に続けて発砲。


 当たらない。木の幹に阻まれる。


 また顔が見えた、そこに向けて発砲。


 しびれた腕ではまともに狙いを定められず、明後日の方向に飛んでいく。


 これで、残るは1発。




「連城の死体を確認。銃は彼のものかと」


「あの男め、殺されたのか? いや、罪の意識に耐えきれず死んだか」


「さっき当たったのはビギナーズラックだろう。相手は素人一人、もう警戒する必要も無いんじゃないか」


「いや待て、あれは……」




 もはや居場所を隠すこともせず、言葉を交わす男たち。


 だがそれとは別の足音が、ざっ、ざっ、と落ち葉を踏みつけながら近づいてきていた。


 千尋だ。


 崖を飛び降りて絹織を追ってきたのか、服は破れ、体中傷だらけだった。




「サビシイ。クルシイ。ワタシガワルイ?」


「……そうだね、千尋もけっこう悪かったと思う。だってはっきりしないんだもん」


「ヒトリハイヤダ。イタイ。カユイ。カラダ、バラバラ」


「もっと早くに好きって言えてれば、もっと満足して死ねたかもしれないのに」




 絹織は、自らの左足に銃を向け、ゼロ距離で発砲した。




「う、ぐっ……うぅ……ふううぅぅ……こ、これで……もう、逃げられない、よ」




 折れた右足と合わせて、両足が潰れた、


 もう歩くことすらできない。


 銃を投げ捨てた絹織は、両手を開いて千尋がたどり着くのを待つ。




「サビシイ。ダレカ、イッショニ」


「私が一緒だよ。千尋と、ずっと。あの世にいっても――」




 千尋は、絹織を押し倒した。


 そして異形の顔から触手を吐き出し、絹織に近づける。


 それでいい、と思った。


 これは千尋ではないけれど、そう思い込むことで、最悪の中での最善を選ぼうとしたのだ。


 私は千尋に殺されました。


 そう思って逝けたのなら、少なくともこの命に、千尋を刻むことができるから――と。


 しかし。


 ブラッドシープが体内に入る直前、千尋の体は蹴飛ばされた。




「これで命令通り、生きたまま確保できるな」




 そして戒世教の男は、警棒型のスタンガンで絹織を気絶させた。


 意識が沈みゆく中、彼女はこちらに手を伸ばす千尋の姿を見た。


 絹織も応えるように手を伸ばすが――二人の指先が触れ合うことはなかった。




 ◆◆◆




 目を覚ますと、またしても絹織は知らない景色の中にいた。


 灰色の壁で覆われた、学校の体育館ほどの広さがある、冷たい空間。


 絹織の体は、その壁に鎖で繋がれていた。




「う、く……こんどは、何……? どこに連れてこられたの……」




 折れた右足や、撃ち抜いた左足はそのままなので、かなり痛む。


 治療の跡もなく、服などはボロボロのまま連れてこられていた。




「さあな、俺もわからへん」




 隣には、同じく鎖で拘束された大地の姿があった。


 つまり、どうやらここは戒世教の施設らしい。




『ようこそ我らがクレイドルへ。ここに洗礼を受けずに足を踏み込んだ異教徒は、君たちがはじめてだよ』




 スピーカーで知らない男の声が響き渡る。


 どうやら絹織たちの前方上方にある窓の向こうで話しているようだ。




『私の名前は瀬田口博。戒世教では大司教という立場でやらせてもらっている』


「あの白髪の男が……瀬田口」


「うちの学校の瀬田口先生と関係でもあるんか」


あたるは私の息子でね。非常に優秀な息子だよ』


「巻き込まれたまま戻ってきてないみたいだけど」


『神に見初められたのだろう』


「前向きやな」




 間違っていても、都合のいい解釈でこじつける――学園にいた信者たちも似たようなことをしていた。


 日本支部ではかなり高い地位にある瀬田口博ですらこの様子なのだ、彼の下にいる信者たちが似た思考回路を持ってしまうのも仕方のないことだ。




『事実、曦儡宮様は我々の信仰に応えてくださっている。ブラッドシープがその証拠だよ。大掛かりな儀式を成功させた我々をねぎらうために曦儡宮様が与えてくださった、新たな叡智』


「ただのゾンビのなり損ないやんけ」


「あんなものがプレゼントとか、神様センスないよね」


『黙りなさい! そうやって曦儡宮様を愚弄するから、あなたがたはそこにいる』


「ちょっと調べられただけで愚弄って。表に出すのが都合悪いって自覚あるんじゃん」


「そもそも俺は目を覚ましたばっかりで何も調べてないんやけど」


『しかし……ブラッドシープにはいささか問題がありましてね。どういうわけか、あれは優しすぎる・・・・・


「優しい? あんなものが?」


『ええ、何せ人を殺さない。私が思うに、あれは真の世界への到達ではなく、この世界を真の世界に作り変えるために曦儡宮様が与えてくださった力なのですよ。だというのに、人を殺さず、仲間ばかり増やしては意味がないでしょう』




 確かに、ブラッドシープはあの見た目で、誰かを殺したりするわけじゃない。


 あくまで覆いかぶさり、寄生させるだけ。


 神様というよりは、地球に存在する生命の行動に近い。


 まあ、脳を壊す時点で殺すのと何も変わりはないのだが。




『そこであなたがたには、改良したブラッドシープのテストに付き合っていただきたいのです』


「そんなもんお断りや」


『本来は異教徒を選ぶべきではないのですが、生きてここに連行できたのも何かの思召。どうか曦儡宮様に感謝しながら味わってください』


「私はともかく、大地くんは何か目的があって連れてきたんじゃなかったの!?」


『必要なくなりました』


「生還者が増えたから、やな」


『ええ、もはやあなたは貴重なサンプルではない。調べるのが目的なら彼女たちを使えばいいだけですので。でははじめましょうか』




 壁に設置された扉がスライドして開き、そこの穴から人間が滑り落ちてくる。


 べちゃっ、と床に叩きつけられたそのブラッドシープは、“顔”の部分が明らかに前より大きくなっていた。




「カ、カナシッ、サビ、サビシ、シシ、シッ、カチカチカチカチ」




 口も一回り以上大きくなり、白い歯をぶつけながら音を鳴らしている。


 代わりに、発していた言葉は、聞き取るのも難しいほど発音が滅茶苦茶になっていた。


 また、“寄生主”である人間の頭部には、まるで植物が根を張るように赤い筋が浮かんでおり、前以上にブラッドシープに乗っ取られている、という雰囲気が強くなっている。


 さらに、現れたブラッドシープは1体や2体程度ではなかった。


 数十――いや、百にも達そうかという数が、次々と部屋に投入されたのである。


 その中には、大地や絹織の見知った顔もあった。




「親父ぃ、おふくろぉおっ!」


「千尋に……姉さんまで」


『連帯責任です』


「瀬田口……お前はぁぁぁあああッ!」




 今日だけで何度叫んだだろう。


 もう絹織の声はガラガラだった。


 そして――何度叫んだところで、加害者たちには届かない。




『あなたがたの命は我々のデータとして残ります。安心して食べられてください』




 以前と違い、ブラッドシープたちは欲望をむき出しにして“獲物”に迫る。


 裸足で走る彼らの姿に、およそ人間らしい理性は感じられない。


 新鮮な肉を狙う、ただの獣だ。




「違う。これは違うっ!」




 死を受け入れた絹織ですら、拒絶する。


 これでは、千尋と一つになるという妥協・・すら叶わないではないか――




「オナカスイタ。ンァ――」


「お願いやめて、千尋ぉおおっ!」




 大きく開いた口が、絹織の肩に食らいつく。


 ブラッドシープの噛む力は非常に強く、あっさりと肉に沈み骨まで到達した。




「あ、があぁぁあああっ!」




 絹織の叫びが響き渡ると、瀬田口博は満足気にうなずいた。


 ガリッ、ゴリッ、と歯をのこぎりのように左右にずらし、骨まで砕いていく。


 その圧力に耐えきれなくなり、グシャッと骨が潰れると、絹織は一瞬で意識が飛ぶほどの痛みを感じた。




「――ーッ! い、ぎいぃいいいいっ!」


「く、かっ。やめろ……親父に、おふくろにこんなこと……ぐううぅぅっ!」




 隣では大地も両親に食まれ、苦しんでいく。


 さらに他のブラッドシープたちも二人に食らいつき、足に、腹に、腕にと全身に歯を沈ませる。


 生きたまま肉をそがれ、引きちぎられ、骨まで食らわれる二人。




『いい光景だ』




 瀬田口は恍惚した表情でそれを見下ろす。


 ミサイルすら防ぐ強化ガラスに守られた自分と、食欲に塗れた汚れた獣に囲まれた二人。


 神に選ばれた者と、選ばれなかった者。


 そのあまりに残酷な対比。


 それこそが、神を信じ続けてきた自分の行いの正しさを証明してくれる。




『神は我々を選んだ。神は君たちの救いよりも、我々の望みを満たすことを優先したのだよ』


「いやぁぁああっ! たすけっ、ひゅ、たずげでぇっ、だれがあぁぁああっ!」


『誰が助けに来る?』


「来る……必ず、来るん、や。ぐ、あぁあっ!」


『一体どうやって!? この秘匿された地下施設に、分厚い壁で隔たれた完全なる密室に、神に祝福もされていない普通の人間が、どのようにして!』




 なおも希望を抱く大地の心を砕くべく、瀬田口は興奮ぎみにまくし立てた。




「言ってみなさい島川大地。一体、誰が、神の意に反して、君たちを助けに来ると!?」


「私なら」


「へ?」




 そして瀬田口は、真後ろ・・・で囁くその声を聞いた。


 思わず振り返る。


 そこには――少女が立っていた。


 同じ部屋にいる信者たちも驚愕している。


 入れるはずのない場所に、この少女は――倉金依里花は、突如として現れたのだから。




「神様を殺した人間なら、助けていいよね?」




 憎しみと歓びを混ぜ合わせた笑みを浮かべ、依里花は至近距離で瀬田口にナイフを投げつける。


 無論、ただの投げナイフではない。


 瞬間、瀬田口の体は浮き上がり、強化ガラスに叩きつけられる。




「があぁっ! な。どう、やっ――」




 そしてドリーマーはミサイルすら防ぐとされていたガラスを貫き、彼を突き当りの壁――つまり大地と絹織の真上に叩きつける。


 彼は腹部に突き刺さった刃により固定され、そのまま血を垂れ流しながら磔になった。




「倉金先輩っ!」




 大地はなおも噛まれながらも、目に涙を浮かべ喜ぶ。


 依里花は彼に微笑みかけると、瀬田口が通っていった穴を抜けてブラッドシープのいる空間に降り立った。


 すると、先ほどの部屋に残っていた信者が動く。




「よ、よくも大司教猊下を……!」




 彼が何らかのボタンを押すと、空間の壁からカメラ付きの銃がせり出してきた。


 機関銃で、ブラッドシープや絹織たちもろとも、依里花を殺すつもりのようだ。


 しかしそのとき、天井で爆発が起きる。




「今度は何だぁっ!」




 戸惑う信者。


 部屋どころか施設全体が大きく揺れ、天井にあいた穴から現れたのは、




「よし……の?」




 死んだはずの、井上芦乃。


 彼女は両手に握ったトンファーを、壁から現れた銃に向けた。




「よくもあたしの親友を――ガトリングショットッ!」




 放たれる無数の銃弾が、依里花たちを狙う前にそれらを破壊していく。


 あとは、この大量のブラッドシープたちを処理すれば終わりだ。




「とりあえずあの気持ち悪いの切り落せばいいよね」




 標的設定。


 この部屋に存在する全ての壊疽。


 数は許容範囲内だ。


 今の依里花ならば、この程度の脅威絶望、瞬きよりも早く斬れる。




「ソードバラージッ!」




 一歩、前に踏み出す。


 途端に依里花の姿が消えた。


 その場でかろうじて視認できたのは、芦乃一人だけだ。


 立体空間を舞台に少女は舞う。


 斬撃が繚乱する。


 血羊の蕾が紅の花を咲かす。


 夢の名を冠する刃は悪夢のはらわたを裂き、ご都合主義にも似た現実へと作り変える。


 その瞬間――全てのブラッドシープがほぼ同時に破壊された。



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