第60話 ゴッズ・インシデント

 



 うつむき、涙を流すネムシア。


 リブリオさんはわずかに表情を曇らせ、そんな彼女をじっと見守った。


 王国はもう戻らない。


 誰かが悪いわけじゃない。


 ただ――リブリオさんとネムシアの悲しみに差が見えるように思えるのは、“救い”があるか否かの違いだろう。


 だって、王国は滅びても、女王がこうして生きているんだから。


 どんな形だったとしても。




「……我は無力だな」




 ネムシアはぼそりとつぶやく。


 それを言ったら私もだ。


 界魚とは、防ぎようのない自然災害――そう知った途端、自分がとても矮小な存在に思えた。


 実際、界魚から見た私たちなんて、人間から見た微生物ぐらいちっぽけなんだろう。




「だが正直に言うと、少しだけ救われた部分もある」


「我ながら希望のない話をしてしまったな、と反省していたところなのですが」


「おかげで兄上を恨まなくていい。そして、兄上を恨む人もこの世にはもうおらぬ。犯した所業の割には、救われていると思わぬか?」


「ああ、そうですね……今ごろ、空の上で穏やかに暮らしているでしょうし」




 ニックスさんに大切なものを奪われた者も、ニックスさんから大切なものを奪った者も、この世にはもういない。


 死んでしまえば憎悪は精算される。


 ちょうど、大木たちを殺して心が軽くなった私のように。


 ある種の浄化と言えるだろう。


 界魚は増えすぎた世界を掃除して、海を綺麗にするために存在する――だとしたら、憎しみの匂いに引き寄せられるのは、特別汚い世界から、優先的に消し去るためだったりしてね。




「すまぬな、依里花。お主に関係ない話ばかりしてしまった」


「こっちも界魚に食われた世界の人間なんだから、無関係じゃないよ」


「そう言ってもらえると助かるのう」


「ところで、リブリオさんはニックスさんから界魚についての話を聞いたから、そこまで詳しいんだよね」


「それだけではありません。聞いた話を元に色々と調べましたよ」


「だったら、今、“この場所”がどういう状態なのかもわからないかな」


「と言いますと?」


「私たちは光乃宮学園っていう学校にいる間に、異変に巻き込まれた。でも現状、見かけたのは学園の中にいた人が大半で、例外はあるんだけど――“世界全部が飲み込まれた”って言われてもピンと来ないんだよね」


「我々の世界のケースとの違いということですか。確かに、私も奇妙だとは思っています。別世界であるはずのアドラシア王国が、あなたがたの世界と融合した時点で、通常の捕食とは異なる現象が発生しているのは間違いありません」


「細かいことを言うと、私たちの学校とアドラシア王国にはまだまだ違いがあって――」




 私は彼に、今まで学園で見てきた光景を語った。


 無理やり引き伸ばされ、迷宮のようになった1階。


 遊園地と融合し、これまた引き伸ばされた2階。


 そしてアドラシア王国と融合した3階。


 それぞれのフロアには主が存在し、それを倒すとフロアそのものが崩壊し、次のフロアへの出口が開いたこと。


 今までの話を聞く限り、そのどれもがアドラシア王国で起きた腐敗とは一致しない現象だったから。




「なるほど……私たちの王国を分割・・した結界。それを操る主の周辺では、空間が歪み物理現象を無視したような光景が広がっていたといいます。建物を強引の広げたのはその能力を利用してのことでしょう」


「学校以外の場所がほぼ巻き込まれてないことについては?」


「あなたがたが認識していないだけの可能性もある。ここが3階でしたか――その上の屋上にたどり着き、仮に外に出られたとしても、すでにそこは界魚の壊疽に支配された終わった世界かもしれません」


「でも私たちは――あくまで直感だけど、上の階層に来るほどに界魚の牙に近づいてると思うんだ。つまり、核である夢実ちゃんにも近づけてるんじゃないかって思ってるんだけど」


「その夢実さん、今は魂だけの存在なのですよね」


「肉体がここにあるってことは、たぶんね」


「でしたら、界魚による捕食は不完全・・・だと考えられます。先ほどお話した通り、界魚が世界に干渉するには、核を使ったダウンスケールが必要不可欠です」




 人間が微生物を『踏み潰してやる!』と思っても、そもそも見ることすらできないように――界魚にも道具が必要ってことなんだろう。




「つまりは、生命体を介することで、同種の生命体を腐敗させるということですね」


「魂とは、生命なのか?」


「命の一つの形ではありましょう、ですが界魚の核としては適さない。肉の体と魂は次元が異なる存在ですから。仮に魂を核とした場合、界魚がこの世の生命体に対して発揮できる力は百分の一……いえ、ひょっとすると一万分の一程度まで落ち込むかもしれません」


「では捕食できぬではないか」


「それがそーでもなさそうなんだよね。世界全体から見たとき、地球って星はほんの小さな一粒に過ぎないわけだし。もし界魚の核作りがうまくいってなかったとしても――それは地球が滅びない理由にはならない。だよね?」


「依里花さんのおっしゃる通りですね。界魚の捕食に不具合が生じていたとしても、星一つを食らうには十分すぎる力があります」




 でも実際、学園の外が巻き込まれてる感じはしない。


 だって、わざわざ異世界のアドラシア王国を持ってきてるんだよ?


 おそらく、夢実ちゃんはある程度は捕食を制御できてる。


 じゃあ、どうしてそんなことになったのかと言えば――




「となると、やっぱ曦儡宮かあ……」


「ここにいる人間たちが信仰していた神ですか」


「曦儡宮を呼び出したと思ったら、実は界魚が来ていた……という話ではないのか? だから大木たちは騙されておったのだろう?」


「いや、違うの。界魚も曦儡宮も、どっちもこの世界に存在してる。夢実ちゃんを犠牲にした儀式は成功してたんだよ」




 大木たちも、そこまで馬鹿じゃない。


 あいつらが勘違いしてたのは、儀式自体は完遂し、曦儡宮が召喚されていたからだ。




「戒世教は“曦儡宮の欠片”なんてものを持ってた。つまり儀式以前からそれだけ近くに曦儡宮はいたの。でも召喚の儀式が必要ってことは、この世界に実在するわけじゃない」


「異世界、ということか?」


「アドラシア王国ほど離れてない。異世界というには近すぎて、同じ世界というには遠い場所……みたいな? 何ていうか、“裏の世界”みたいな場所。たとえば、鏡に写したように全てが真逆・・になってる、とか」


「やけに具体的ですね。どこかでそれを見てきたのですか」




 鋭いなあ。


 この早さで見透すの、伊達に宰相はやってないって感じ。


 確かに私は、さっき言った光景を見たことがある。




「む……待てよ。我もそのような部屋に心当たりがあるぞ。学舎の1階にあったはずだ!」


「私とギィが出会った場所ね」


「ではまさか……ギィが、あの娘が曦儡宮だというのか?」


「うん」


「うん!?」




 そんな驚くことかなあ。


 あんまり正体を隠そうとはしてなかったと思うけど。


 でも自分から言おうともしなかったか。


 そのあたりはギィの意地悪さというか、私さえ気づいてればいいと思ってる感じもしたなあ。




「お、お主、それにいつから気づいておった!」


「1階から逃げるあたりで、たぶんそうだろうなと思って」


「そんなに前から知っておったのか!?」


「だって、違う世界から飛ばされてきたはずのギィに日本語が通じる時点でおかしいし」




 受け答えはギィとグゥだけだったけど、あの時点で言葉は理解してる様子だった。


 つまり日本語を知っていたのだ。




「曦儡宮の生贄に捧げられたはずの七瀬朝魅の魂の抜け殻を使ってる――なんて話もしてたから、ああ、この子は曦儡宮の一部なんだなと思ってた」




 そう考えると、ギィが私に恩を感じる理由にも説明がつく。


 あのとき、1階でギィとその仲間たちはやけに混乱していた。


 私に襲いかかったり、かと思えば和解してみたり。


 それは、彼女たちは私たち同様に変な世界に飛ばされた挙げ句、界魚の壊疽に襲われてびっくりしてたんだと思う。


 しかも曦儡宮の本体は近くにいなかった。


 おそらく、ただの捕食用端末であるギィたちは、本体がいないとエネルギーの供給を受けられない。


 食料を絶たれ、戦う力も持たず、化物に襲われ――そんな中で、ギィはただ一人生き残った。


 さらに、人間と融合し、名前まで得たことで完全に曦儡宮から独立したわけだ。


 曦儡宮は、生贄に捧げられた七瀬朝魅の魂を食らった。


 その中身を吸い尽くし、残った殻に自らの一部を注いで、ギィを作った。


 そういった経緯を考えると、七瀬朝魅の意識の一部を持つギィは、曦儡宮のこと嫌っててもおかしくはない。




「依里花さんのおっしゃりたいことは理解しました。これは面白い事象ですね、そうそうお目にかかれるものではない」


「何を納得しておるのだリブリオよ」


「“界魚”と“曦儡宮”。いわばどちらも神に等しい存在。依里花さんたちの世界には、それらが同時に・・・現れてしまったのですよ」


「二体の神が……干渉しあっておるのか?」




 格こそ違えど、曦儡宮も人間を相手にするだけなら神様として振る舞える程度の力は持ってる。


 衝突すれば、界魚とて無視することはできない。




「これは仮説なんだけど、曦儡宮は召喚されたとき、光乃宮学園を自分の領域として支配したんじゃないかな。元々、“鏡写しの光乃宮学園”で生活してたみたいだし」




 ギィたちが暮らしていたあの場所は、元々の彼らの住処だったってわけ。


 だから生贄を捧げるときも、学園で殺したり、壁に埋め込む必要があったんじゃないかな。


 それが界魚の介入により世界がぐちゃぐちゃに混ぜられたとき、“表”に出てきてしまった。




「そしてその学園に界魚は牙を突き立て、腐らせたのですね。核である夢実さんが魂だけという不完全な状態だったために、その力は曦儡宮の支配下として隔離された学園の外に収まり、漏れ出た分もごくわずか――遊園地なる施設と、腐りかけのアドラシア王国に流し込めば、収まり切る程度の量でしかなかった」




 いわば曦儡宮が生み出した領域は風船みたいなもの。


 界魚が本調子だったらあっという間に破裂して外まで溢れ出したんだろうけど、力が足りなかったばかりに、光乃宮ファンタジーランドとアドラシア王国を巻き込むのがやっとだった。




「夢実ちゃんが魂だけになってたのは、曦儡宮を呼び出すタイミングだったから」




 曦儡宮が食らうのは魂だ。


 そのためには、肉体から抜き出して捧げるしかない。


 どうも夢実ちゃんは他の生贄とは扱いが違うみたいだったし、生きたままっていうのがポイントだったんだろう。




「儀式ってのは、曦儡宮の好物である憎しみや苦しみをたっぷり蓄えた魂を餌にして、神様をこっちに釣り上げるようなものだったのかもね。地下室にはどっかに続く通り道みたいなのもあったし」


「儀式によってちょうど魂の抜けた肉体があったから、我はそこに収まってしまったわけか」


「界魚とて、不完全な核生成は望むところではないでしょう。しかし取り戻そうとしたときには、すでに肉体は別人のものになっていたのですね」




 取り戻そうとしかはどうかは定かではないけど、空っぽになったはずの体にすぐにネムシアが宿ったっていうのは色んな想定外を引き起こしてそうではある。


 そうなると、ニックスさんの行動も決して無駄ではなかった。




「とはいえ、まだ仮説で埋めている部分が多い。これだけであなたがたの世界が無事と言い切ることは私にはできません」


「でも私は信じとくよ。夢実ちゃんが用意してくれた舞台なんだもん、ハッピーエンドで終わるに決まってるじゃん」




 結局のところ、一番の根拠はそこにある。


 だいたい、一生脱出できなかったときのことなんて考えたって仕方ないからね。


 せっかく気持ちよく復讐できてるんだもん、だったら気持ちよく無事に出たいじゃん?




「む? リブリオ……姿が薄れておるぞ?」


「ああ、魔力が尽きてきたようですね」


「ならば休むとよい。その間にここの蔵書を運び出す準備をしようではないか」


「こんないっぱいスマホに入るかな」


「そのときは我が選別する。大事なのは、アドラシア王国がここに存在しておったという事実を残すことなのだから」


「本を運ぶ手筈まで整えていたのですね。それならば安心して行けそうです」


「どこに行くのだ?」


「あの世ですよ」




 リブリオさんは、それが当たり前のことであるかのように言った。


 当然、ネムシアは取り乱す。




「何を言っておる! お主、生きておるのだろう!?」


「強引に本に魂を閉じ込めただけです。はっきり言って、存在しているだけで苦しくて仕方がない。こうして陛下と言葉を交わせたのですから、もう十分でしょう」


「しかし……ッ!」


「ネムシア様」




 彼は諭すように言う。




「私は死ぬのではない。すでに死んでいるのです。あるべき場所に向かうだけですよ」




 肉体は朽ち、一緒に消えるはずだった魂が、辛うじて本に宿っているだけ。


 確かに、それで生きているかと言われると、そうだとは答えにくい。


 でもネムシアはやっぱり納得いかないみたいで。




「リブリオ……我を、一人にしないでくれ」




 震えた声でそう懇願する。




「一人ではありませんよ。陛下には、信頼できる“友”がいるでしょう」




 そう言ってリブリオさんは私のほうを見た。


 友かぁ……それなりにうまく付き合ってるつもりだけど、そこまでの信頼関係を築けてるかな。


 少なくとも彼からはそう見えたってことなのかも。




「国のためとはいえ、まだ幼い貴女は女王になるため己を殺すしかなかった。そこで数多の謀略と裏切りを目にし、人を信じられなくなっていく姿を見て――私は心を痛めていたのです。ですがそんな貴女が、今は国どころか世界すら違う人間に心を開いている」


「リブリオは……我のために尽くしてくれたではないかっ! 我は、お主のことを信頼しておる!」


「私は……貴女のお父様を殺害する計画に、見て見ぬふりをしました」


「は……?」




 絶句するネムシア。


 彼女のお父さんは、権力争いに巻き込まれて死んだ、みたいなことを言ってた気がするけど。




「貴女を女王にすることで、宰相たる私は実質的にこの国の権力を握ることができる」


「何を……言っておる……」


「自分の権力を高めるために、将来的には私の親族と陛下を結婚させる話も進めていました。そうなれば私は王族に――」


「やめよ! そのような話は聞きたくないッ!」




 ネムシアは声を荒らげる。


 でもわかってしまう。


 きっとそれは、リブリオさんの想定通りだ。




「お主は……我が幼い頃から、色んなことを教えてくれたではないか。我と兄上の、さらに上のお兄さんとして、一緒に遊んで、一緒にお話してっ、一緒に笑ってっ! 家族同然に……過ごしてきたではないか……」


「これでも私は、他に比べれば清廉潔白に生きてきたと思っていますよ。ええ、こんな・・・私ですらも」


「う……うぅ……」


「ですがもう、そのような醜い争いに巻き込まれることもない。ネムシア様は、偉大なるアドラシア王国では絶対に手に入らない、まっとうに幸せになれる道を見つけたのです」




 偉大なる・・・・アドラシア王国なんて、そんな素晴らしいものじゃないぞ。


 だから嘆くことはない、と――そうやって、彼はネムシアの悲しみを和らげようとした。


 実際、彼女は少し落ち着いたように見える。


 たぶん、ネムシアもわかってたんだよ。


 アドラシア王国が、そんな素晴らしい場所じゃなかったってことを。




「だから、どうか泣かないでください。信じられる友を頼り、幸せに生きてください。ネムシア・アドラークという、一人の人間として」


「リブリオぉ……」




 声を震わせ、名前を呼ぶことしかできない。


 もうネムシアには、リブリオさんを呼び止める理由が残っていなかった。


 説得は済んだ――そう判断した彼は、私に手招きをする。




「依里花さん、最後に少しよろしいですか」


「いいけど」




 ネムシアには聞こえない棚の影で、彼は人権な顔で聞いてきた。




「あなたは郁成夢実をどう思っていますか」


「関係ってこと? それなら……親友以上、かな」


「やはりそうですか」




 何が言いたいんだろう。


 私はさっぱりわからないけど、本棚から一冊の本が飛び出して、目の前までふよふよと浮遊してきた。


 そして手のひらの上にぽすんと乗っかる。




「あなたにこの本を託します」


「何これ」


「身勝手な願いだと理解はしています。ですが、どうしてもアドラークの血筋を途絶えさせたくはないのです。どのような形であれ」


「血筋って……え、えっと……ん?」


「郁成夢実の魂が肉体に戻ることがあれば、二人分の魂が肉体に同居することになるはずです。理論上、それは可能なはずですから」


「そうなんだ……」


「そしてここには、子を成すための秘儀が収められております。血筋が絶えないようにするため、代々王家に伝わっていたものですね」


「……え?」




 何を言っているんだこの人は。


 子を成す? 誰と誰が?




「無理強いはしません。ですが時が来たら、どうか私の言葉を思い出し、この本を開いてみてください。陛下ならば解読できるはずです」


「いや待って、それって要するに――」




 ネムシアと子供を作れって言ってんの? 私が!? アドラーク家を残すためにっ!?




「いやいやいや、本気で言ってんのそれ!?」


「私は大真面目ですよ。どうかネムシア様をよろしくお願いいたします」




 大声で呼び止めるも、リブリオさんは満足気に微笑むと背中を向け、ネムシアの元に戻っていく。


 この男っ、最後だからって自分のやりたいこと一方的に押し付けるつもりだな!?


 最初から胡散臭い顔だとは思ってたけど、そういうことしてくるんだ!




「ではネムシア様、これでお別れです。貴女の未来が、どうか光で溢れていますように」


「リブリオ……リブリオぉぉおおおっ!」




 触れ合えないが、ネムシアとリブリオは抱き合うように身を寄せ合う。


 さすがにあそこには割り込めない。


 そしてリブリオの姿は薄くなり――やがて完全に消え去った。


 さらに、机に置かれた本も閉じられ、ひとりでに燃え尽きる。




「う、く……なぜ、最後にあのようなことを話すのだ。お主は、我の家族であろう。愛すべき家族なのだから、素直に悲しんでも……よいだろうて……っ」




 一人残されたネムシアは、まだうまく気持ちを整理できないようだった。


 あるいは、大きすぎる悲しみに直面させないことこそが、リブリオさんがあれを話した理由でもあったのかもしれない。


 大きな瞳からボロボロと涙が流れ落ちる。


 嗚咽を漏らし、何度も目をこするが、それは止まることなく――




「ううぅ……うわぁぁぁああああんっ!」




 やがてこらえきれなくなり、彼女は声を出して泣いた。


 聞いているだけで胸がぎゅっと締め付けられて辛くなる、そんな泣き声だった。




「ネムシア……」




 私が彼女に歩み寄ると、向こうからぎゅっと抱きついてきた。




「っく……う、うぅ……もう……我にはお主しかおらぬ。重荷に思うかもしれぬがっ!」


「重くなんてないよ。頼ってくれて、いいから」


「依里花ぁ……うぅっ、うあぁぁぁ……っ!」




 胸に顔を埋め、子供のように――いや、子供として・・・・・泣くネムシアの頭を、私はぽんぽんと撫でた。


 こんなときでも、リブリオさんから言われた言葉を思い出すと、色んな考えが頭に浮かぶ。


 夢実ちゃん。


 令愛。


 あとはギィとかも……知ったら食いついてきそう。


 いや――でも、なあ。


 ああ、だめだ、きっと考えても答えが出るものじゃない。


 リブリオさんの気持ちはまあわかるけど、私の“世界観”の範疇だとあまりにぶっ飛びすぎていて。


 今は深く考えるのはやめとこう。


 目の前でネムシアが泣いてるんだから。


 両手で抱きしめて、その心を癒やすことだけを考えることにした。




 ◇◇◇




 数十分後、ネムシアはようやく顔をあげられるようになった。


 まだ精神的には不安定だったけど、どうにか両足で立って歩けるまでは回復したみたいだ。


 私の力で、少しは彼女の苦しみを癒せたんだろうか。


 家族や友人もろとも、国の全てが滅びる――そんな経験したことないから、どこまで役に立てたのかはわからない。


 ただまあ、人に虐げられるばかりだった私が、少しでも誰かの支えになれたという時点で、復讐して殺してよかったなと心から思う。


 世界から余分なものが消えたことで、私はようやく正常な人間になりつつあるのだ。




 私たちは書庫に保管されていた本を、片っ端からスマホに詰め込んだ。


 今のところ容量の限界は見えず、結局数百冊の分厚い本を、全て入れることができた。


 特別重くなることもない。


 これも界魚の力を利用したものなんだろうか。


 そして用事を終えた私たちは、警戒しながら書庫を出る。


 城内のいたるところから、大人たちが無邪気に遊ぶ声が聞こえた。


 けどやっぱり、生徒の姿は無い。


 なんだか薄ら寒さを感じる不気味な城内を、私たちは出口に向かって進んだ。


 城の中を探索するという案もあったけれど、今はネムシアを休ませたかったから。


 しかし不運なことに、来たときの道はボール遊びに興じる教師たちに塞がれていた。




「違う道を探すしかないかな」


「それか殺して進むかだのう」


「それも考えたんだけど、真恋たちがどこにいるかもわからないし、今は混乱を避けたいなと思って。本当は今すぐにでも殺してやりたいんだけどさ、キャストみたいに再生されても厄介だし」


「そうか、お主の妹たちも散歩に出ておったな」


「リブリオさんが守ってたこの建物以外はほとんど腐ってる。だとすると、あの二人の目的地も結局はここなんじゃないかな」


「合流できればよいのだが」




 合流のことを考えてるなら、最初から二人だけで出ていったりしないと思うんだよね。


 私の予想が正しければ、真恋はたぶん――




「む、あやつらこちらに来そうだぞ」


「右の道、あっちから出られる?」


「いや、玉座の間のほうに行くだけだ。しかし他に逃げ道はないな」




 出口から遠ざかるのは避けたいけど、今は仕方ない。


 私たちは足音を殺し、玉座の間方面へと移動する。


 その間、ネムシアの表情を観察していたけど、特に玉座の間そのものにトラウマは抱えていないようで安心した。


 そして扉の前までやってくると、中からは香ばしい匂いが漂ってくる。


 わずかに開いた隙間から覗き込む。


 中ではボロ布を身にまとった大人たちが、焚き火を囲んで騒いでいた。




「何やってんのあれ……」


「浮かれておるのう、ここを楽園だと思い込んでおるのか。玉座の間を宴会に使うとは、無礼な連中め……!」


「しかも何か焼いてる。全部腐ってると思ってたんだけど、城内の食糧が残ってたってこと?」


「それは無いと思うがのう。我が兄上に殺された時点で、兵糧はほぼ底をついておった」


「じゃああれは――」


「どこからか調達してきたのだろうな」




 だとすると、どこかの教室から持ってきた、とか?


 でも三階に食べ物を置いてそうな場所なんてあったっけ。


 調理実習室は1階だし、職員室は2階だよね。




「依里花、あそこにいるのはもしかして――」


「あ、真恋と日屋見さんだ」




 玉座の間の奥――焚き火を囲んで歌って踊っている連中の向こうに、二人の姿があった。


 彼女たちは、目鼻立ちの整った男性と何かを話している。




「あれは誰だ?」


瀬田口せたぐちあたる。三年の担任やってた教師だよ」




 瀬田口は馴れ馴れしく真恋の肩を抱いている。


 日屋見さんはそんな彼の前で、私たちには見せない、冷たい怒りを湛えた瞳で見つめていた。


 しかし当の真恋は、なんだか弱々しい、あの王子様使いされていた倉金真恋とは思えないような不安げな表情を浮かべている。




「我らも突入するか」


「……いや、やめとこう。あの様子だと、何かあったら日屋見さんが引きずってきてくれるよ」




 そもそも、真恋にとってそれが都合の悪いことなら、まず日屋見さんが止めるだろう。


 あれだけブチ切れながらも、瀬田口との邂逅を止めなかったということは、そうしなければならない理由があるということ。


 真恋はともかく、日屋見さんは信用できると思ってるから、ここは任せようと思う。


 ネムシアのことも心配だし、私たちは脱出を優先する。


 玉座の間の前を離れ、今度こそ出口の方へ。


 私たちは周囲に人の気配がなく、かつ飛び降りられそうな窓を発見。


 それを静かに割って、城外へと脱出した。




「ふぅ……なんとか見つからずに出られたのう」


「今度はみんなを連れて攻め込もう。あいつらの正体は真恋か日屋見さんに聞けばわかるでしょ」


「うむ、しかし……まるで味方として迎え入れられているように見えたぞ」


「真恋も幹部候補らしいし、日屋見さんだって元は戒世教の人間だからね。裏切ったことを知らなければ入り込むのは簡単なんじゃない」


「では、情報収集のために潜入したということか?」


「それは違うかも。たぶん真恋の個人的な・・・・事情だよ。まあ、じきに私も巻き込まれるんだろうけど」


「よくわからんのう」


「ネムシアは難しいこと考えないでいいの。今は私に任せて、気持ちを落ち着けることを優先して」


「……そうだな。言葉に甘えよう」


「ってなわけで、早く帰ろ。人数も増えてきたし、ここにいる間の食糧をどうするかとかも考えないと」




 そんな話をしながら、城から離れていく私とネムシア。


 するとふいに、隣を歩く彼女が、離れることを惜しむように後ろを振り返った。


 そしてそのまま硬直する。




「どうしたの、ネムシア」


「あ、あれ……」




 彼女が指さしたのは、城内にある一室だった。


 窓越しに見えた先にあるのは、やたらと赤い部屋。


 目を凝らすと、中には何かが吊り下げられている。




「人間を、吊ってる?」


「首を落として、逆さに吊り下げておる。まるで血抜きでもしておるようだ」


「まさかあいつら――」




 姿の見えない生徒たち。


 あるはずのない食料。


 そして、吊られた人間の死体。


 猛烈な嫌悪感を覚え、寒気を感じた。


 しかしその直後、私は突き刺さるような殺気を感じる。




「あの部屋の男がこっちを見ておる」




 死体が吊るされた部屋の窓から、こちらを見下ろす血まみれの、上半身裸の男。


 名前までは覚えてないけど、確か学園の先生だったはずだ。


 年齢は30代半ば。


 その瞳に宿るのは、殺意というよりは、獲物を見つけた喜びだ。




「走ってネムシア、襲ってくる!」




 牛刀のような刃物を持ったその男は、窓を突き破って城から飛び降りた。


 ネムシアの手を握り、急いでその場を離れる。


 すると男は、私たちの少し後ろに着地した。


 かなりの高さがあったはずだが、当然のように無傷だ。


 そして彼が立ち上がると、突如としてその胸部がボコッと膨らむ。




「お、おぼっ、ご……お……っ!」


「何をするつもりなのだ……?」


「あいつらがもう人間じゃないってことだけははっきりしたね」




 胸部の膨らみは喉へと移動し、最終的に大きく開かれた口から吐き出される。


 黒い、粘り気のある液体。


 大木たちが使っていた、あるいはギィの肉体を構成する黒いスライムと似ているように見えたが、“異臭を撒き散らす”という点で異なっている。


 やがてその粘液は男の肉体を覆い尽くし、全身タイツめいた黒い鎧へと変貌した。


 猫背の前傾姿勢で肩を上下させるその様は、人型でありながら野生の獣を思わせる。




「急に強そうな見た目になった」


「こうなったらやるしかないのではないか」


「というか向こうがやる気だし」




 次の瞬間、敵の姿が視界から消えた。


 私はドリーマーを握ると、ネムシアの背後に斬撃を放つ。


 彼女の頭上で、刃と爪が火花を散らした。


 速い――たぶんネムシアにはまったく見えてなかった。


 さらに、この至近距離で黒タイツ野郎の顔に無数の切れ目が入り、一斉に開く。


 中から現れたのは赤い瞳だった。


 そして瞳は光を溜め込み、今にも放とうとしている。




「ネムシア!」


「わかっておる、エアバーストォッ!」




 名前を呼ぶと、ネムシアは振り向きざまに魔法を放った。


 ゴオゥッ! と至近距離で強烈な風の爆弾が炸裂する。


 直撃を受けた黒タイツ野郎はふっとばされながら、明後日の方向に無数の光線を放った。


 光の帯は、一つ一つは細い。


 だが顔に浮かび上がった瞳の数だけ、ほぼランダムな方向に撒き散らされている上に、あまり強くなさそうなのは見た目だけで十分な威力があった。


 地面に触れれば大地を赤く溶かし、樹木に触れれば蒸発して一瞬で消し去る。




「こっわぁ……」


「何なのだあの化物は。この階層の主なのか?」


「倒して確かめるしかないでしょ。ネムシアは一息で近づかれないぐらい遠くから攻撃をお願い」


「相手は素早い上に小さい。遠距離では狙いが定まらぬかもしれぬが構わぬか?」


「動きを制限してくれれば十分!」




 私は吹き飛ばされた先で、体勢を整える敵に一気に接近する。


 向こうも私の動きに気づくと、あの素早い動きで一気に近づいてきた。



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