第零話 繧ゅ≧豸医∴縺溘> (Part.1)



▽ 1 ▽




 あの日生まれた感情をどんな名前で呼べばいいのか、未だにわからない。私はそれをひとつの映像として、ここに提示する事が出来る。





 ――私は真っ白な防音室で、手足を縛られ、椅子に座らされている。


 両目の間、皮膚から5cmの距離に、鋭く尖ったアイスピックが固定されている。


 それは現在静止しているが、必ず動き出し、私の眉間を貫いた後、脳髄を惨たらしく破壊する事だけは確定している。


 ただし、それがいつ発生する出来事なのかは、誰にもわからない。もちろん、私にも――





 目の前の光景がちゃんと視えているはずなのに、それが意味する正しい本質をまるで理解できなかった。


 混乱する頭で「これが全部夢であればいいのに」と、どれだけ願っただろう。


 目覚めたら真っ白でふかふかなベッドの上で、何も知らなかった頃の楽しい日常が待っている。横には愛する妹の無垢な寝顔。


『おはよう、お姉ちゃん』


 眠りから目覚めた妹は、新しい1日の始まりが楽しくて楽しくて仕方が無いといった最高の微笑みを浮かべている……そんな優しい世界。


 でも、残酷な現実はすぐ目の前に広がっている。そして、これは私が始めた物語なのだ。




▽ 2 ▽




 ごん!ごん!ぐちゃっ!


 ごん!ごん!ごん!がきっ!べちゃっ!




 炎が燃え盛る研究所の一室、重厚で鈍い音が部屋内に木霊する。その音は私の脳内に、大型肉食獣がバリボリと死肉を貪る場面をイメージさせた。空想内の彼らは骨を噛み砕き、肉を切り裂き、内臓を啜る。顔を血潮で真っ赤に染め、空腹を満たす喜びに顔をだらしなく緩める。ただ、私の眼前に獰猛なライオンもいなければ、残忍なワニもいなかった。


 音の発生源は双子の妹、椎だった。


 彼女は嬉しそうに笑いながら、何度も何度も何度も何度も――まるで高速で動く水飲み鳥の様に、メンゲレ博士の亡骸を岩で殴打していた。


 きっと、たくさん殴り過ぎだのだろう。博士の顔面から、ポロリと右眼球が飛び出した。「目は口ほどに物を言う」という諺があるが、この時、零れ落ちた目玉は何も語らなかった。それは感情を有していないし、我々に語るべきメッセージを何も持ち合わせていなかった。ただの硝子体の塊。それ以上でもそれ以下でもない。


 床を転がる眼球を発見した妹は、おもむろに立ち上がり、その白くて柔らかい物体を右手で掴む。


『博士、ごはんのじかんですよ~』


 椎はだらしなく開かれた博士の口内に、先程零れ落ちた眼球を投入した。そのまま、両手で口を閉じさせようとしたが、死後硬直が始まっている為か、なかなか閉じない。何度も試してみたが、7歳の腕力では顎を動かすことは不可能だった。


 業を煮やした椎は、手で口を閉じる事を諦め、右足の踵で思いっきり顎を蹴飛ばした。私の耳にプチトマトを潰した時の様な、小さく不快な破裂音が聞える。死体に食事をさせるというひどく歪な目的を達成した妹は、大きく高笑いをした。巣へ戻るアリの行列を踏み潰している、幼い子どもみたいに。


 顔面へ暴行に飽きたのか、今度は一の字状に裂けていた腹部に手を突っ込むと、セロハンテープを出す時みたいに、腸を引き摺り出した。彼女は腸を両手で掴んだ後、万歳の形で空中に高く持ち上げる。その姿勢は、大自然の神々に対し、狩猟してきた贄を捧げる太古の部族の様だ。目を閉じたまま、そのままの姿勢を数秒キープした後、急に眼をカッと開くと、まるでコメディドラマを観ている時みたいに、「あひャアハハハッ!!!おもひろィ!!!」と大爆笑した。


 圧倒的な攻撃性を孕んだ笑い。かつて自分をいじめていた研究者らと同じ様に、椎も自分より弱い物言わぬ躯をいじめながら、大爆笑している。かつて聞いた「天国には笑いが無くて、地獄には笑いが溢れている」という言葉を、今なら信じられる。私はこの凄惨極まりない光景に、思わず自分の眼を潰したくなった。あんなに大人しかった妹の、こんな姿はもう見たくない。


『椎……お願い、もう……止めてください……』


 私は後ろから椎の右腕を掴み、弱弱しく英語で懇願した。だが、私の眼前で微動だにしない鋭利な凶器は、未だに鋭い光を放ち、自分の眉間、その奥深くに収まる脳味噌を破壊せんと狙いを定めている。


『おねえちゃん、なんで止めるの?この遊び、とっても楽しいよ!見て見て!わたしの事をたくさんたくさんいじめていたメンゲレ博士が、今ではわたしのおもちゃなんだよ!こんなに面白い事って、そうそうないと思わない?ねぇ?そう思わない?ねぇねぇねぇ?』


 全身血塗れの妹は、こちらを振り向く。そこに浮かぶのは、無邪気で子どもらしい微笑み。その様子は、人形を使って、おままごとを楽しむ幼女の姿を私に連想させた。表情と口振りから、彼女が正気を保っている様に見えてしまうのが、却って恐ろしい。


 私は掴んだ右腕を放し、へなへなと尻餅をついた。辺り一面は熱気に包まれているはずなのに、全身の至る所から悪寒が止まらない。力無く座り込みながら、私はかつてメンゲレから教わった、荀子じゅんしの性悪説を思い出す。




 ――人間の本性は、限度の無い欲望。教育や努力によって、修正され善へと至る。




 椎は私と出会うまで、教育らしい教育をまるで受けていない。7年間もの間、施設の中で、何度も何度も何度も何度も何度も……人体実験の被験体として、仄暗い暗闇の底で辛酸を舐め続けてきた。多分……彼女の中には、善悪の概念すら存在しないのだろう。ただ己の欲望のままに動いている。まるで産まれたばかりの赤ん坊が、お腹が空いたら時と場所も関係無しに大声で泣き叫ぶみたいに。


 きっと、これは私のせいなんだ。自分の幸福に胡坐をかいて、椎になされた数多の非人道な行為に、全く気付けなかった事がいけなかったんだ。私がもっと早くこの研究所の異常を察していれば……。そして、もっと早くこの愚かな施設から逃げ出していれば……妹はここまで狂わなかったんじゃないだろうか?


 ふと、メンゲレの遺体に視線を移す。それはもはや人の形を成していない。本来そこに備わっていなければならない部位は、ありとあらゆる所が欠損していた。激しい憎悪と止まらない欲望、そして攻撃的な笑いに咀嚼された生暖かい肉片を視界へ捉えてしまった私は、込み上げてくるものに堪え切れず、その場で激しく嘔吐した。吐瀉物の酸っぱい香りが口内に拡がり、更に気分が悪くなる。再び横隔膜と腹筋が収縮しだす……。


 胃の内容物をあらかた吐き出した後、無力感と情けなさのあまり、私は嗚咽を漏らす。そして、先に逝った友人へ助けを乞う。その言葉は……どこか祈りに似ていた。


 ――ねぇ、マーサ……。私はあなたみたいに頭が良くない。だから教えてください。あなたなら、どうやって狂った姫君オフィーリアを救いますか?




▽ 3 ▽



 

 私が産まれたのは、アフィリア統一連邦の東部。かつて、ナイジェリアと呼ばれていた土地。そこに広がる広大なジャングルの中にある、真っ白な研究施設だった。


 両親の事はほとんど知らない。私の物心が付いた時には、すでに他界していたからだ。写真を見たことすら無い。彼らについて、私が知っているのは、日本という遠い国からアフリカ大陸にやって来たという事だけだった。


 でも、寂しくはなかった。なぜならば、研究所のみんなが私に優しくしてくれたからだ。特に所長であるメンゲレは、私が求める多くの事に応じてくれた。


 生まれてから一度も敷地外に出た事は無かった。でも、私はこの真っ白な箱庭を深く愛していた。




▽ 死 ▽




 私の肉体には、特殊な力が備わっていた。それは「人を殺せるウィルスを操る能力」だ。


 この特別な力は、「神貸能力しんたいのうりょく」と呼称されている。私の様な特別な力を持った人間の事を、研究所の人々は「ボロワー」と呼んでいた。


 ボロワーは、例外なく5歳までに何かしらの能力を発現する。しなかった場合は、能力を持たない普通の人間という事になる。非能力者は「ローレンテック」と呼ばれていた。


 私の神貸能力、特にウィルスを操る能力に関しては、研究所のみんなが褒めてくれた。ある人は「最高傑作」と言ってくれたし、別の人は「世界を支配する力」とも言ってくれた。だから「自分はきっと凄い存在なんだ」と、ずっと信じて生きてきた。


 ……そう、妹と出会う日までは。




▽ 5 ▽




 研究所の外へ出られない私だったが、読書は自由だった。建物内には様々な分野の本が置いてあり、施設に無い物はタブレットで閲覧する事が出来た。時間はたくさんあったので、私は多くの本に触れてきた。


 また、勉強もいろんな人が教えてくれた。特にメンゲレ博士は教師として、かなり優秀であった。私は彼のお陰で一次関数や連立方程式などをマスターした。


 グレゴール・メンゲレ。38歳、ドイツ出身の研究者。髪の色は黒で、瞳の色は緑がかった茶色。整った顔立ちをしており、身体には無駄な肉が付いていない。私にはいつも紳士的な態度を見せてくれるが、プライドが高く感情の起伏も激しいので、部下の研究者達からはとても怖れられていた。


 2025年4月1日。いつもの様に、メンゲレ博士から数学を教わっていた時の事だった。


『素晴らしい……。とても7歳とは思えない知能だ……。流石、あの春風琴の娘というだけの事はあるな』

 因数分解の問題を解く私を見ながら、博士が驚いたように言った。


『お褒めの言葉、ありがとうございます。この問題が解けたのも、あなたの教え方がとてもわかりやすいからです』


『どういたしまして。今日の勉強はこの辺で切り上げようか。さて、林檎。今から君に大事な話をしなければならない』


 大事な話と聞いて、私の心は踊った。いよいよ研究所の外に出られるだろうと思ったからだ。施設での生活に何1つ不自由を感じていなかった当時の私にとって、最大の願いは「外の世界をこの目で見る事」だったからだ。


 水中に飛び込めば、まるで宙に浮かんでいると錯覚してしまいそうになるくらい透き通ったモルディブの海。ルネッサンスの中心地であり、「屋根の無い博物館」と呼ばれる芸術の街フィレンツェ。その秀麗な容姿から江戸時代には信仰の対象となり、今なお多くの登山者を受け入れる霊峰、富士山。


 外界の事は写真や文章でしか知らなかったが、「あの幻想的で美しい景色を実際に見られるかも知れない」と考えると気持ちが浮足立つ。


 真っ先に行くのが、世界的に有名な観光地じゃなくても良かった。例えば、ここから1番近い町に行って、公園に行って自分と歳の近い子ども達と色んな事をお話ししたり、一緒に広場でサッカーをプレイしてみたい。メンゲレ博士と一緒に小さなレストランへ入って、そこで見た事も聞いたことも無い食べ物を2人で一緒に食べてみたい。食後のコーヒーを飲みながら、2人でランチの感想を何分か交わし合ってみたい。そんなささやかな出来事でも、籠の中の鳥である私には十分過ぎる程の幸せだ。


『大事な話とは、一体なんなのでしょうか!?』


 私はワクワク感を隠せず、興奮気味に博士へ訊ねる。が、彼から返ってきた話は、私の考えていた浅はかな夢物語とは全く違う内容だった。




『今まで黙っていたんだが、林檎には双子の妹が居るのだよ。彼女は「椎」という名前だ』




 メンゲレ博士は感情を込めず、事実を事実としてさらりと私に伝えた。


 聞き手の私は当然混乱する。予想していた外出の話では無かった事も、ショックではあった。が、それ以上に、突然現れた妹の存在にとても強い衝撃を受けた。もうすでに血の繋がった家族は全員死んだと思っていただけに、その驚きはなおさら大きい。


 数秒間の動揺後、違和感――いや疑念が湧いてくる。何か引っかかる。私はその引っ掛かりをなんとか言語化してみせた。


『えっ……ちょっと……ちょっと待ってください。双子って事は……7年間も……私に内緒だったって事じゃないですか』


『君はあの子に会うべきではないと判断したから、あえて秘密にしていたんだよ』


『わかりました。それならば、教えてください。私が妹と会ってはいけない理由を』


『それは椎があまりにも違い過ぎるからだよ。優秀な君とはね』


『説明になっていません。博士、お願いします。私を妹と会わせてください』


 あまりにも抽象的すぎる理由に対し、不信と怒りを感じた私は、博士の顔を睨み付けながら、糾弾と懇願をした。自分には血の繋がった妹と会う権利があると思ったからだ。それが正しい行為なのか正しくない行為なのかは、7歳の私には判断が付かなかった。知らない方が幸せな事だって、世界にはたくさんあるのかもしれない。ただ自分の性格上、妹に会わなかったら一生後悔する。それだけは、はっきりわかっていた。


 メンゲレ博士は、秘密にしていた事を悪びれる素振りを全く見せず、以下の様に言い放った。


『もちろん会わせるさ。その為に君へ妹の話をしたのだから』




▽ 6 ▽




 画面越しに映る真っ白な部屋。そこに春風椎が居た。




▽ 7 ▽




 私が連れて来られたのは、椎が居る実験室に隣接する監視ルームだった。妹は隣の部屋で力無く椅子に座り、虚空に視線を向けている。


『メンゲレ博士……。これは一体?』


『感覚遮断実験さ』


『妹は……これをどれくらいやっているんですか?』


『かれこれ、4日かな?』


 私はあまりにも非人道的過ぎる実験内容に愕然とした。というのも、人間は五感への刺激が制限された状態だと、たった2,3日で発狂するとされているからだ。


 真っ白な部屋に入った実験の参加者達は、序盤こそ全く問題ない様な素振りを見せる。最初に表れる症状は睡眠欲求の上昇だ。みな、充分な睡眠を取る。寝過ぎにより、これ以上眠れなくなると今度は歌を歌い出す。この時点でおかしくなった者は、壊れたオルゴールみたいに同じフレーズを何度も繰り返すことになる。


 時間が経過すると、今度は幻覚が見え始める。それは人物や動物だったり、幾何学模様だったりと様々だ。どうしてそんなバグが発生するのかというと、何も刺激が無い事に――つまり虚無に私達の脳が耐えられないからだ。


 更に実験が進むと、刺激が欲しくて自傷行為に走ったり、イマジナリーフレンドに支離滅裂な話をしだす。それに満足できないと、自分の血液や排泄物を身体や部屋中に塗りたくる者。壁に頭を強く打ち付けて自殺することで、際限ない苦痛からの解放を図る者まで現れるそうだ。


 つまり……感覚遮断実験は、人間の精神をボロボロに破壊する、非情な実験なのである。


『今すぐこの実験をやめてくださいッ!』

 私は大声で叫ぶ。被験者が血の繋がった妹だから叫んだわけではない。室内に居るのが誰であろうと、こんな事を許してはいけない。


『メンゲレ博士……どうしますか?』

 と、若い男性研究員が動揺の気配を見せながら、メンゲレ所長に指示を仰ぐ。


『どうしますも何も実験は終わりだ。今すぐ椎を部屋から出せッ!』

 博士の号令の後、モニター室と実験室を繋ぐ扉が解錠された。


 私は誰よりも早くドアに向かい、実験室に飛び込んだ。急いで椅子に座る妹の元へ駆け寄る。


 ――春風椎。初めて会った7歳の妹は、私に瓜二つだった。まるで鏡の世界から、もう1人の自分が飛び出してきたみたいだ。だが表情は虚ろで、意識があるのかどうかすら怪しい。よく見ると身体の至る所に、痛々しい青痣が無数に付いていた。


 妹の肩を担ぎ、隣接するモニタールームへと運んだ。驚いたことに、この真っ白な室内では、私の足音が一切反響していなかった。こんな場所に4日も居ただなんて……。自分なら間違いなく廃人になっているだろう。


 妹を床に寝かせると、私は座り込んだ状態でメンゲル博士に視線を移した。


『博士、なんでこんな無茶な実験をしたんですか?』


『それは彼女が「ローレンテック」だからだ』


『意味がまるでわかりませんし、全くもって説明になっていません』


『つまりだ、こういった特殊な状況下に置く事で、君の様な優れた「ボロワー」に覚醒するかもしれないだろ?だからやった。それだけだ』


『待ってください。ボロワーとしての神貸能力が発現するのは5歳までだと、セリザワ博士の書籍で読みました。つまり、7歳の時点で異能力が発現していない妹に、こんな実験は無意味です』


 私のこの言葉を聞いて、メンゲルは口をつぐんだ。――甚だしく不快な沈黙。10秒ほど考える様な素振りを見せた後、彼は言った。


『その……例外だってあるかもしれないだろ?』


『無いです。既に歴史がそれを証明しています。だから、2度とこんな実験をしないでください』


 メンゲルは何か言いたそうに、もごもごと口を動かしたが、結局言葉を発する事は無かった。






 私は意識朦朧の妹を目覚めさせる為、少し身体を揺らした。何度か試してみたら、妹の眼の焦点が定まった。


 椎はおもむろに上半身を起こすと、驚いた表情で私を指差す。その右手は麻薬中毒者の様に、ブルブルと激しく痙攣していた。


『わ、わ、わたしが……もう一人……あは、あはは……あはは……もうあたま、バカになっちゃったんだ……あはは……はは……』


 私の鼻腔に絡みつく据えた異臭。それはアンモニア臭だった。驚いた私が妹の下半身を見ると、彼女は失禁していた。モニター室の床に、黄色い液体がじわじわと拡がっていく。


 次の瞬間、激昂した女性研究員が、椎の背中を思いっ切り蹴り飛ばした。椎の小さな上半身は、激しく前のめりに倒れ込んだ。


『どこでションベン漏らしてんの!?ってか一体、誰が掃除するのか、わかってのッ!?あぁ、こっちはただでさえ実験が失敗してムカついてんのにさ!役立たず!さっさと死ねよ!この知恵遅れッ!』


 研究員はキンキンとした高い声で、ヒステリックに叫ぶ。





『あうっ……あっ……あの……そっ……その……す……すっ、すみ……ませんで……した……』





 身体を起こした妹は、おどおどと謝罪する。口から発せられた言葉は同じ7歳児とは思えない程たどたどしい。眼からは大粒の涙が滝の様にボロボロと零れ落ちていく。


 最初、何が起こったのか、私は全く理解が出来なかった。誰かが誰かに暴力を振るう現場なんて、今まで見た事が無かったからだ。椎を蹴り上げた女性だって、普段は私に対してとても親切だし、頼めば勉強だって教えてくれた。内心、「妹を助けなくては」と思いつつも、恐怖と動揺で身体が竦む。


 暴力行為を見かねたからだろうか、メンゲレ博士は右腕を横に広げ、女性研究員を制止した。その光景に、私は内心で安堵した。「双子の妹が居たという隠し事をしていた事はまだ許せないが、博士はやはり人格者だったんだ。彼に任せれば、この場を丸く収めてくれるだろう」と、この時の私は考えた。が、それは自分に都合が良い甘い考えだった事を、数秒後、私は思い知らされる。


 ヒステリックな研究員を下がらせた後、メンゲレ博士は私達を見下ろしながら、以下の様に告げた。


『林檎。今日、君をここに呼んだのは、「デッドアップル」で椎を処分して欲しいからだ』


 彼の言葉は、私の時間を凍らせるには十分過ぎる程の冷徹さを持ち合わせていた。信じられなかった。気性の激しさ故に、彼が部下達から怖れられているという事ぐらいは知っていた。だが、私に対してはいつも優しかった。こんな酷い――いや、最低なお願いなんてしない人のはずだ。


『……処分って、その……一体どういうことでしょうか?』


 私は一縷の望みを抱いて、博士に質問した。もしかしたら、聞き間違いだったかもしれないし、彼の言いたかった事を、私がちゃんと理解していなかっただけかもしれない。メンゲル博士は無慈悲に命令を繰り返す。


『殺人をしてくれと頼んでいるのだ。君にとって、人生で初めてのね』


『どうして……どうして、妹を殺さないといけないんですか?』


『林檎、椎は――君の妹は既に壊れている。精神的にも知能的にもね。それは今の場面を見た君にもわかるだろ?喋り方もおかしいし、人目を気にせず失禁するような恥知らずだ。はっきり言おう。鹿。だから、君の「殺人ウィルス」でこの子を楽にしてあげよう。その方がきっと椎の為にもなるさ』


 メンゲレは、ここで一旦言葉を区切った。私から視線を外し、少し考える素振りを見せた後、またこちらを見つめ直す。


『それにもしかしたら……万が一ではあるが、君みたいにウィルス耐性を獲得する可能性だったある。なんせ優秀な君の片割れだからね。その場合は彼女も死ななくて済むし、これまでみたいに無理な能力開発実験をする必要性も今後は無くなる。どちらに転んでもそんなに悪い話じゃないと思うんだが。じゃあ、よろしく頼むよ』




 私は床に座り込んだまま、周りの研究員の顔を見渡した。肉食獣から襲われそうになった幼い草食獣が、群れの仲間に助けを求める様に。が、この時、誰も私に目線を合わせてはくれなかったし、誰もこの狂気じみた命令を止めようとはしなかった。




 私はこれまでずっと、研究所の職員らはみな心優しい人達だと思っていた。だが、この時ハッキリと気が付いた。彼らはをしていただけだったんだ。私はメンゲレ博士のお気に入りだったし、たまたま特殊な神貸能力を保有していたから、ちやほやされていただけ。自分の身を挺してまで私達を助けてはくれないし、殺人行為だって見て見ぬふりして黙認しようとする。


 私はこれまでにたくさん本を読んで、いろんな事を勉強して、何でも知った気になっていた。メンゲレの言う通り、自分は他の子(もっとも同世代の人間と会ったことは無いのだが)よりもずっと頭がいいと思っていた。


 でも、本当は何にも知らなかった。いつも優しい女性研究者があれほど汚い言葉を使う事だって知らなかったし、双子の妹が同じ研究施設内に居た事だって知らなかったし、その子がこれほど劣悪な環境で生きていた事さえも知らなかった。そして、ずっと父親の様に慕っていたメンゲレが非道徳的で非情な人間とは知らなかった。


 私は無知だ!その気付きと同時に、泉の様に湧き出る悔しさが、小さな胸一杯に溢れ出す。


 自分がもし何も神貸能力を持っていなければ……この拷問部屋に入らされ、頭がおかしくなり、要らない存在と言われ、そして無慈悲に殺されていたのは、私の方に違いない。目の前の少女は「私に有り得た可能性」の1つの暗喩メタファー。つまり、椎はもう1人の私なんだ!


 そう思った私は、恐怖に震える妹を優しく抱きしめ、一緒に大声で号泣した。彼女の漏らした小便が服や肌に付着したが、一切気にならなかった。今、この場で彼女を守ってあげられるのは、間違いなく私だけしかいない。


 ずっと誰からも愛されず、周囲には敵しか居ない妹。今、彼女の命は用済みとなり、ロウソクの灯のように消される。そんな事……そんな馬鹿げた事は、絶対に許せなかった。


 意を決した私は、1度深呼吸をした後、腹の底から力一杯叫ぶ。




『ふざけないでくださいッ!!!妹は……椎はまだ生きています!この子を壊したのはあなた達です!それなら、私がこの子を治してみせます!だから、能力は使いません!絶対にッ!』




 思えば、メンゲレに反抗したのは、この時が初めてだった。私は彼から怒鳴られると思っていたが、顔を見ると意外にも落ち着いている様子だった。おそらく私の反応について、彼の中である程度は予想していたのだろう。博士は何度か頷き、そして淡々と言った。


『なるほどなるほど。そういう所も母親とそっくりだな、君は』

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