第5話 夢に父が出てきて。(思い出話)

夢の中の父は、オールバックの髪型が似合うまだ髪も黒々として若々しい男性として現れました。スイカを食べながら談笑している私たちのところに来て、「俺も仲間に入れてくれよ〜」って。


食卓には、母と夫と私の息子2人と・・・

「あれ?お父さん!一緒に食べよう!食べよう」と亡くなったであろう父を普通に招き入れ。

そんな風にスイカを食べ出したら目が醒めました。

夢の中だけど、まるですぐそこに父がいる様な夢でした。

父と夢の中ですが会えて嬉しくて涙でいっぱいになりました。😭



父が亡くなって19年の月日が過ぎます。

今日は父の誕生日です。(9月18日)

命日は10月19日。

 

 幼い時の私に父は、時々布団の中から

「ほ、ほーたるよこい!こっちの水はあーまいぞ♪」と歌って、私を自分の布団に呼び入れ面白い話しを聴かせてくれました。

寝る時はいつも母の布団の中で足を絡めて寝ていた私ですが、目が覚めるといつも父の布団の中へ。

そうやって呼んでくれるのは、たいてい休日の朝でしたけど。

話しの一つに、近くの池から蛙の卵と思い持ち帰ったら、それが蛇の卵でお母さんに叱られ、直ぐに返しに行った話しとか。


淋しくなると近所のお寺の境内で遊んで、カラスと話しをしたとか。(内容までは覚えてない)

カラスが話しするって、今のNHKの「チコちゃんに叱られる」に出てくるキョエちゃんみたいなカラスが居たんですね。

自分で体験した話しなんかをしてくれました。


父は幼くして、実の父に置き去りにされ(父親は養子でしたが舅との不仲があり出て行ったそうです)母親は再婚のため祖父母に育てられました。

お母さん(私のおばあちゃん)は直ぐに兄弟の多い末っ子息子と再婚して養子を取りましたが、一緒に暮らさないで、養子相手の転勤について行ってしまったそうです。

新しい父親には妹が2人出来ましたが、父親の転勤のため、ほとんど一緒に住んだことは無かったようです。


そんな父だったですから、自分が人一倍淋しい想いをしてきて育ったせいか、私のことを溺愛してくれました。


小春日和にはいつも、縁側で髭剃りや顔を剃ってくれるのも父でした。

いつも父はショートピース缶のタバコをスパスパ吸ってて、父の香りはタバコの香りでいっぱいでした。

時には、タバコで上手に輪を作ってくれて、その中に指を入れてくるくる回して壊すのが楽しくって〜!


父は、中国まで戦争にも行ったそうです。

戦争も終盤に18歳の少年兵として徴収されたみたいです。英語や電気機器を扱うのが得意だったので通信兵として参加したそうです。

戦場は中国の北部。向こうでは馬に乗り走り回っていたとか?(写真が残ってます)

その頃の武勇伝もよく聴かせてくれました。


ある日銃弾をお腹に受けて負傷したそうですが、下着にお金が縫い付けてあったため九死に一生を得たとか。そのため戦争の途中ではありましたが日本に帰されてきたそうです。


中国で中国人と戦ってきたはずなのに、敵国の中国のことがとても好きな人でした。

と言うのも戦時中、中国の人にとても親切にしてもらったそうです。目がくりっとして、顔も可愛かったせいもあったからかもなんですが。(この辺りの話しはあまり覚えてませんが)


日本には早めに戻ることが出来たのに、結核を帰る船内でうつされ、家に着いた時は髭はボウボウ、痩せ細って、死にそうな姿で戻ってきたそうです。

死んだ様に寝ていたら、当時3歳くらいのヨチヨチ歩きの妹が寝ている父を見て大泣きされたそうです。

その当時、結核は死の病とされ、船内で亡くなった人も何人かいたそうです。

父の命が助かったのは、父が切手やお金を集める趣味があったからだと言ってました。


帰る途中で日本が敗戦したことを聞きた日本人街のゴミ箱にお札が大量に捨ててあったそうです。

それをお金としての価値よりもお札としての魅力から拾って帰ってきたそうです。

そのお札がまだ日本国内で使えたので、当時高価な結核の薬のペニシリンを買うことが出来て命が救われたそうです。


戦争が終わった後、どういう訳なのか父は英語が覚えたくて覚えたくて、カトリック系の大学に入り、英語の勉強をしたそうです。そしてアメリカから来ている宣教師について全国の教会を回ったそうです。

中でも印象的なのは、横浜の教会で故里庵先生として作家で有名な遠藤周作さんとも一緒になったこともあったとか。集合写真を撮ったものもを自慢げに見せてくれました。

カトリック名は、9月が乙女座であることから「マリア」って言う名前をもらったそうです。男なのにマリアって。(笑)


そんな英語をしっかり勉強した父なのに、卒業後は、母と出会ったビニール袋を作る会社で社長のカバン持ちの仕事をしてましたが(今で言うマネージャー)しかし結婚後その会社が倒産してしまったものだから、父は個人でアクセサリー販売をし出したそうです。とても山気のある性格だと自分でもよく言ってました。


それも3年くらい続いたある日、バイクの後ろに積んだ仕入れたばかりのアクセサリーをゴッソリ落としてきてしまい。商売を辞め、再就職しました。その頃占い師にも憧れて色々本など集めていたらしいです。


再就職先は当時1番花型商売のテレビ局のNHKに入社しました。部署は、集金で集めきれなかった家から徴収してくる、まるで税金のマルサの様な仕事につきました。ちょうど父が入社する時に出来た職場で、父が退職後には無くなった部署です。

大学出の父には、もったいないって一度は面接員から断られたそうですが、しつこく絶対やりたいと言って入れてもらったそうです。


私が中学生の頃、タモリさんのオールナイトニッポンを聴いていたら、漫画家の赤塚不二夫さんのお父さんが警察官をやってらして、定年後同じ職場に入られて、そのエピソードを話していました。私はそれを聴いてチョッピリ嬉しかったです。


うちの父は、いつも日中は家に居て、夕方皆が家に帰る頃にバイクに乗って出かけ、真夜中に帰ってくる事が多かったので、近所の人も変な風に思ってる人もいたのでは?と。子供ながらにとても嫌な気分でした。雷があったりした時に家に居てくれたのは嬉しかったですが。まるで泥棒家業の様で・・・


給料は入社当時歩合制だったそうですが、父は若い頃からバイクに乗れたので、バイクで回れた分、人の2倍も3倍も仕事が出来たので、家も建ててくれましたし、当時まだ珍しいキャロルって言う車も我が家にはありました。当時からNHKは、保養施設はいっぱいあるし、とても太っ腹な会社で.我が家の生活は潤ってました。

保養施設は普通に使わせてもらえて、あの松平アナウンサーも泊まっておられた所へ行ったこともありました。


NHKの視聴料を払わない人は、案外社会的に地位の高い人が多く、「うちでは一切テレビを見ていないから払う必要はない。」と言い切る人も多かったとか?それを説得して払わせるのが父達の仕事でした。中にはピストルを突きつけて来て「払えるものかー帰れー」って追い払われたこともあったそうです。


そんな父も40歳くらいで入社して60歳までそこで働き、その後は地元のシルバー人材センターで指導員として75歳まで働きました。

今考えても、よく働くお父さんだったなぁと思います。


父との優しい話しのエピソードは、亡くなる一年前くらいでしたか。私が実家に車で遊びに行った日、フロントランプを付けっぱなしにしてしまい。乗ろうとしたらバッテリーが上がってしまいましたが、雨が降る中、身体中びたびたになりながら自分の車とバッテリーを繋ぎ充電してくれたことが思い出させてくれます。私にとって、何で叶えてくれたアラジンののような父でしたから、父のことは、大好きでした。

今でも父のことを思うと目頭が熱くなってきます。😢


まだまだ色々な面白いエピソードはありますが、書ききれないのでこの辺で終わりとします。


今日も伊勢湾台風並みの台風14号が九州から北上してくるとか?台風が来る前の我が家、いつも雨戸を板で打ち付けて忙しかったです。でも父たちと真っ暗な部屋で過ごす時間はとても嬉しかった記憶もあります。父が居てくれたおかげで安心して過ごせました。


大好きなお父さん。今でもあっちの世界から見守ってください!夢にもまたいつでも出てきてください。😇

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