(9)首都アンカラへ

 イスタンブールの宿を引き上げた私は、地下鉄でオトガルに向かった。

 オトガルとは、トルコのバスターミナルのことだ。バス大国であるトルコでは一つの都市に一箇所は必ずあるオトガルがあり、ひとまずここに行けばどこかには向かうことができる。


 オトガルではバス会社の看板が所狭しと並んでいた。これだけ選択肢があると、逆にどのバスを利用すればいいのかわからなくなる。

 私はとりあえず窓口の前に立っていたワイシャツとネクタイ姿の男性に行き先を告げた。


「アンカラ?」


 アンカラはトルコの首都だ。イスタンブールが商業都市だとすれば、アンカラは行政都市といったところだろう。アメリカにおけるニューヨークとワシントンの関係に近い。

 男性は「もちろん」と言うように頷く。料金を聞いてみると、220リラ(約1700円)だという。高いのか安いのかわからない。そんな場合はいくつかのバス会社を回り、相場を掴むことが大切だ。


 結局、私は提示してきた中で最も安かった200リラのバスに決めた。

 私にとっては冷暖房が付いてさえいれば“いいバス”なのだが、トルコの長距離バスは多数のライバル会社としのぎを削ってたためかやけに質が高い。


 冷暖房はもちろん、座席で映画を見ることもできる上、定期的にコーヒーや紅茶が配られる。低価格の飛行機を“空飛ぶバス”と呼ぶことがあるが、こちらはさしずめ“陸を走る飛行機”といったところか。


 窓の外に目をやると、緑の丘陵が広がっていた。

 イスタンブールが坂の街だったように、その周辺もなだらかな丘が続いている。私はしばし、車窓を流れる牧歌的な風景を楽しんでいた。


 正午にイスタンブールを出発したバスは、午後5時に休憩を挟んだ。停車したのは日本のサービスエリアのような場所で、軽食を食べることができるほか、土産物を置いている。

 私は小腹を満たすために、カップに盛り合わせてケチャップをかけた茹でトウモロコシを食べた。悪くはなかったが、イスタンブールの屋台でよく食べた焼きトウモロコシに比べると、味は数段落ちる。


 バスは20分ほど休憩した後に再び走り出し、アンカラのオトガルに到着したのは午後7時半を過ぎた頃だった。

 バスターミナルから中心街に出るために地下鉄に乗る。駅員に尋ねると、途中で乗り換えUlusという駅で降りたらいいという。

 Ulusに到着し、階段を登って地上に出ると外はすっかり暗くなっていた。


 ——ここが本当に中心街なのか?


 私は足を止めて周囲を見渡す。人通りは少なく、あたりはひっそりとしている。夜でも喧騒に包まれていたイスタンブールで過ごしていたため、余計にそう感じるのかもしれない。


 さて、ホテルのある通りはどの辺りだろうか。

 初めて訪れた街で、どちらの道に行けばいいかわからずきょろきょろしている時間が好きだ。自分がどこか知らない世界に迷い込んだような気がして、心がそわそわするのだ。


 いくつかの街で安宿探しを経験する中で、私が見つけた鉄則は「裏道を行け」だ。

 メインストリートから一本外れた道や、あるいは観光ホテルが並ぶ通りの裏手、横道に入ってさらに曲がった路地に私のような格安旅行者が求める安宿はある。


 しかし、今回はあえてその鉄則を封印し、目についたホテルに飛び込むことにした。

 夜遅かったので早めに落ち着ける場所を見つけたかったというのはある。それ以上に、イスタンブールで騒々しい宿での宿泊が続いていたので、多少値が張ってもいい部屋に泊まりたかったのだ。


 ライトアップされて一際目立つモスクのそばに、「☆」のマークが二つ輝くホテルを見つけた。二つ星ホテルならば、値段も相応でそれなりに綺麗な部屋に泊まることができるだろう。


 ところが、その予想はあっけなく覆ることになる。


 受付の男性に部屋の料金を尋ねると「300リラ(約2400円)」だという。

 私は思わず「本当に300リラ?」と聞き返した。二つ星ホテルというからにはもっと高額な値段が返ってくるかと予想していたからだ。

 前日までイスタンブールで泊まっていた個室も同じ300リラだった。エアコンはないわトイレは壊れているわ、裏手にクラブがあるせいで夜通し騒音が聞こえるわで、ずいぶんひどい思いをした。


 同じ値段だから同じレベルだったら嫌だなと考えていたのだが、部屋に案内されておったまげた。この旅を始めて以来最高に綺麗な部屋だったからだ。


 ベッドが二つあり、イスもテーブルもある。風呂とトイレは清潔に保たれていたし、シャンプーとボディソープまで備え付けられていた。

 しかも、窓からはライトアップされたモスクを見下ろすことができる。


「ここに泊まります」


 私は案内してくれたホテルの従業員に即答した。

 チェックインを終えると、私は夜景を眺めながらスーパーで買ったリンゴをかじり始める。

 ほんの少し歩いただけなのに、自分がアンカラという街が好きになってきていることに気がついた。

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