(3)うまくいかない日
旅をしていると——いや、旅をしているかしていないかに関わらず——人には何をやってもうまくいかない日、というのがあると思う。
その日は出だしから思うようにならなかった。
少し遠出することを計画したので、ホテルを出る時にオーナーに延泊する旨を伝えた。延泊は了承されて料金をクレジットカードで支払ったのだが、支払いが完了した後で「今の部屋はチェンジする必要がある。12時までに戻ってきてくれないか」と言われたのだ。
私は慌てた。「夕方まで宿に戻ってくるつもりはない。だから延泊したのだ」と説明したが、私が滞在している部屋は予約で埋まっているらしく、オーナーは首を横に振るばかりだ。
当てが外れて少し腹を立ててしまった私は「なら別のホテルに移る。カードで支払った料金は返さなくていい」と、すぐに荷物をまとめてホテルを出ていってしまった。
冷静に考えれば、荷物を預かってもらって夕方に帰ってくれば何も問題はなかったのだが、この時の私は少々意固地になってしまっていた。
ところが、別のホテルを探そうにもバカンスシーズンのためかなかなか空いている部屋が見つからない。ドミトリー(相部屋)の空きベッドを見つけた時には、すでに時刻は正午近くになっていた。
これでは予定していた遠出も難しい。私は諦めて、スルタン・アフメト付近を散策して過ごすことにした。
旅とは思い通りにならないことが当たり前だ。トラブルや想定外の事態を楽しんでこその旅人であり、実際に私もそのような心持ちで旅をしてきたのだが、なぜだかこの日に限って些細な問題に腹を立ててばかりだった。
——少し疲れてきているのかもしれないな……
急ぐ旅をしてきたつもりはなかったが、もしかしたら自分の知らないところで疲れが溜まっているのかもしれない。
こんな時は、うまいものを食べるのに限る。
今までは屋台や地元の人々が利用しているような店で食事を済ませてきたが、思い切って少し高そうな店に入ってみよう。トルコのグルメに舌鼓を打てば、きっと元気も戻るはずだ。
トルコに来てからドネル・ケバブなど肉食が続いていたので、久しぶりに魚を食べたかった。イスタンブールは周囲を海に囲まれていることから、海の幸も豊富だ。店探しに困ることはないだろう。
私がまず向かったのは、魚市場だった。海沿いの道を散歩している時に偶然見つけた場所で、市場では近海で獲れたシーバス(スズキ)やサバなどの新鮮な魚が並んでいるほか、それらの魚を料理して客に提供する飲食店も軒を連ねていた。
値段もお手頃だったので、どこかの店に入ろうと思ったのだが、困ったことにどの店も酒類を提供していないようだった。
私が魚料理のほかにもう一つ楽しみにしていたのは、ラクゥ酒、あるいはラキという酒だった。この酒はトルコで飲まれている蒸留酒で、無色透明だが水を加えると白く濁るのが特徴だ。
——魚をつまみながらラキを一杯やりたいな。
私は迷った末に、魚市場を後にした。多少値段が高くついても、酒を提供していることを優先させたかった。
イスタンブールの土地勘がない私は、自ら“禁じ手”にしていたある手段に手を出すことにした。
ネット検索である。
Googleで「イスタンブール 魚料理」などのワードで検索した私は、ブログに載っていたとある店に目をつけた。そこは今いる魚市場からほど近くにあり、週末には席も埋まる人気店だという。
Googleマップを頼りにその店がある場所へ向かうと、レストランが一帯に並ぶ広場に出た。ここにある店ならば、期待が持てるかもしれない。飲食店が並ぶ場所というのは、競争が行われて店のレベルが高い傾向にある。
夕方前の時間帯だからか、人気店だというその店にいたのは私のほかには2、3組だった。
テラス席に座った私は、ラキとシーバスのグリルといくつかのつまみを頼んだ。
ラキがひと瓶で120リラ(約1000円)
シーバスのグリルが180リラ(約1400円)
その他のつまみは一品60リラ(約500円)ほど
旅をしている間は粗食が続く私にしては豪勢な食事となった。
つまみもシーバスのグリルも文句なくおいしかった。久々に食べる魚料理に、私は値段で躊躇していたことも忘れて夢中で頬張った。シーバスは丸々一匹が出てきて、なかなか食べつくすことができない大きさに満足していた。
しかし、期待外れだったのが楽しみにしていたはずのラキだった。
おいしい、まずいではなく舌が合わない。香草の味がきつくて癖が強く、なかなか飲み進めることができなかった。結局、瓶の半分を残してしまった。
日本酒でも焼酎でもワインでもウイスキーでも、酒はなんでも飲むことができるという自負があったので、ラキを飲み干すことができなかったのはショックだった。
思い通りにならないことは、会計時にも起きた。
どう足しても450リラ前後なのに、クレジットカードの支払いで提示された金額は500リラだった。50リラの出所を聞いてみると「チップ」だという。
自発的に渡すのならまだしも、しれっと会計に紛れ込ませるチップがあるだろうか。しかもそれはこちらから尋ねなければ明かされなかったのである。
「チップを渡すのはこの国の文化なのか、それともこの店のルールなのか」
私は知っている英語を並べてそのようなことを早口に伝えた。ウェイターの男もしばらく「多くの客はチップを払う」「デザートの代わりと思って」と粘ってきたが、最終的には料金を450リラに変更した。
店を出た私は、魚料理の余韻もなく、苛立ちと落胆が混じった複雑な気持ちで宿への帰り道をとぼとぼ歩いていた。
よくわからない料金をふっかけられて、それを修正するなんてことはエジプトでは日常茶飯事で、私はそれを楽しんでできていたはずだった。ところが、今回のやり取りには後味の悪さが残っただけだ。
朝のホテルでの出来事といい、なぜか今日はあらゆることが思い通りにならず、しかもいちいち腹を立ててしまう。
私の心が貧しくなったのか、それともトルコという国に順応できていないのか。
あるいは、自分が旅人として未熟だからというのもあるかもしれない。
人は旅に出たから旅人になるのではない。旅を通して旅人になるのだ。そういった意味では、私はまだ途上にいるのだろう。
——どれだけ旅をしたなら、おれは旅人になれるのか……
うまくいかない日も笑って楽しめる、そんな旅人に。
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