第71話 残滓
「ありがとうございました」
「おつかれさまーこの調子なら次は通しでいけそうね、新しいステップもしっかりできてるし」
なんとか今日のダンスレッスンもついていくことができたと先生の言葉に安堵しながら、タオルで汗を拭きとり水分を補給しストレッチを始める。
始めたばかりの頃は今よりもずっと少ない運動量のはずなのに、レッスンが終わると同時にその場に座り込みストレッチも満足にできないくらいだったことを考えれば大した成長だと思う。
ダンスといえば学生時代に授業で習ったことはあるが、あれはどちらかというとみんなで楽しむだとか自己表現の仕方云々といったお題目であって当時はそこまで興味もわかなかったので軽く流した記憶しかない。
そんな私相手でもほとんど忘れていた基本的なステップはもとより、正しい姿勢から身体の作り方まで親身になって教えてもらえるのは仕事とは言えありがたい。
その中でも一日のレッスンの総まとめである最後の振り返りをしながらのダンスは毎回ビデオで撮影されていて、それを見せてもらいながら色々とアドバイスをもらうのだが。
せっかくだからその映像を見ながら家でも自主練しようと思い、データを貰えないかと言ってみれば映像に加え事細かなアドバイスと共に先生自身のお手本までわざわざ撮って送ってくれるという徹底ぶり。
「貰った映像のおかげです、今日の分もお願いしていいですか?」
「もちろん、ただあまり詰め込みすぎるのはダメだからね?」
無理をすればすぐ見抜かれるほどにプロの目というのは侮れない、本当なら今日も時間が許す限り残って復習をしたいのだが生憎と後ろの予定がつまっている。
「わかってますよ、ではすいませんお先に失礼します」
「はーい、お仕事頑張ってね」
手早くストレッチを済ませて手荷物をまとめロッカーに向かって着替えと身だしなみを整える。
このあとはオンラインでの取材対応に……終わり次第時間を見つけてマネージャーとの打ち合わせ。時間が許すなら一度事務所に立ち寄って細々とした用事も済ませておきたいし。そろそろアレの進捗も気になるところだ。
アプリで呼び出したタクシーに乗り込み行先を告げこのあとの予定をざっと頭に思い浮かべる。こういったスケジュール管理は経験からどちらかと言えば得意ではあるのだが、最近はその内容も増えてきたことで自分一人では手が回らなくなってきた。特に
企業案件ともなれば半年どころか一年先といった話がいくらでも出てくるし、企業同士のやりとりが絡んでくるので色々と制約もついて回る。個人時代もいくつか企業案件の話を持ち掛けられたことはあったのだが、諸々の調整にどうしても時間が取られてしまう事と自身の活動時間確保のためお断りしていた。
今は窓口として事務所やマネージャーが対応してくれているのでかなり負担は減っているのだろうが、最終的に決めるのは私自身だし活動についてもかなりの部分で自由を認められてるからには責任を持たなければならない。
ダンスレッスンによる適度な疲労感とタクシーのわずかな揺れに身を任せていると自然と瞼が重くなってくる。そのまま睡魔に身を委ねかけたところで目的地へはさほど時間もかからず到着し、眠気によって火照った身体に当たる風はすっかり冬の様相。
足早に建物へと入っていきエレベーターに乗って目的の階へ、知らされている暗証番号で施錠されている扉を開け白い廊下を進んでいけば古めかしい扉があり目的のお店『Álfheimr』へとたどり着く。
「いらっしゃいませ
「こんにちはフィオさん、いつものお部屋使わせてもらってもいい?」
「かしこまりました。ではこちらへ」
店内に入れば外で感じていた寒さなど忘れてしまうような暖かな陽気、少し先にはいつものクラシカルなメイド服を身に纏った少女が礼儀正しく出迎えてくれる。美しいカーテシーを披露し先導してくれるフィオのあとに続きながら店内の様子をうかがってみるが今日も他の客は見当たらない。業界人がお忍びで訪れるというお店の性質上みな個室を利用しているのか、それともたまたま私が訪れるタイミングのせいなのかわからないが不思議なものだ。
つかさの紹介により利用するようになったこのお店だが、すでに数度訪れていることからわかるように随分と気に入ってしまっている。個室があるので他者の目を気にしなくていいということもあるが、なによりこの森の中の隠れ家といった雰囲気が良く自然と集中して作業が出来るというのは大きい。
お店側としてもそんな利用方法を咎めることもなく「必要であればネット接続用のケーブルまで用意できますよ」とまで言ってくれるので他にも似たような使い方をしている客がいるのかもしれない。
ちなみにフィオいわく防音も完璧ということであるが、どのような構造で実現しているか元自作防音室で配信していた身としてはとても気になる。
「今日もマスターさんはいらっしゃらないんですね」
「気まぐれな方ですので……、運命が必要を命じるならばいずれお会いになることもあるでしょう」
個室に入りすすめられるままに席につけば、今日も姿が見えなかったマスターの話を振ってみるが返ってくる答えはいつも同じもの。初対面時に見せたつかさとの砕けたやりとりを見ていなければこれが少女の素なのだろうかとも思うのだが、あの姿を見てしまえばどちらかといえばあっちが素なのだろうなと考えてしまうのは仕方ないだろう。
「それは残念、じゃあいつものハーブティを」
「かしこまりました」
いつものようにオーダーを告げると心得ているとばかりに少女は退室していく。そんな彼女を見送って仕事をすべくリュックからノートパソコンを取り出し早速準備に取り掛かる。
最近買い替えたばかりのそれはとても軽くて薄く、スペックも中々……なにより携帯電話用の通信モジュールも備えているのでどこでも通信できるのは思った以上に便利だ。前のものでもスマートフォン経由で通信したりと色々手段はあったのだがひとつのもので完結しているというのは何事にも代えがたい。
まぁその分かなりいいお値段はしたのだが……経費計上しようにもここまでいくと固定資産だ。また税理士の先生に色々言われてしまうかなぁと思いつつも、度重なる機材の購入で半ば諦められてる節もあるので気にしないことにしておこう。
「お待たせいたしました。本日は少しお疲れの様でしたので、ハイビスカスにマリーゴールド、ローズヒップをブレンドしております。こちらのハチミツはお好みに合わせてどうぞ」
ちょうど荷物の整理まで終わったところでタイミングよく扉がノックされ少女を招き入れる。
毎年必ずやってくる確定申告という一大イベントの事を考えていたせいで疲れた表情をしてしまっていただろうかとも考えるが、そんなことがなくとも少しの変化も見逃さないのがこの少女だ。さすがメイド服を着ているだけあると密やかに思っていたり。
「そんなに顔に出てました?」
「何やら思案しているようではありましたが、お顔というよりも……」
「……というよりも?」
「企業秘密ということで何卒」
いちど言葉を止めジッと見つめられれば、その答えが気になりこちらも先を促して黙ってしまう。そんな私に対して完璧なメイドはニコリと微笑み小さく頭を下げる。
ハーブティを淹れる準備中のちょっとした戯れ。よどみなく手を動かしながらも、どこかつかみどころのない振舞いと物言いから見れば実のところ結構悪戯好きなのかもしれない。
「ではごゆっくりお過ごしください、御用の際はそちらのベルでお呼びくださいませ」
「ありがとう」
手慣れた動作でカップが目の前に置かれ、いつもの言葉を残して退室していく少女。こころなしか先ほど見せた微笑みに柔らかさを感じたのは見慣れたからかそれとも気のせいか。
カップの中にハチミツを垂らし香りを楽しんでから一口。多少疲れていたことは確かなのでハーブの香りとハチミツの甘さが身体にしみわたっていく。
はふ……と暖かくなった吐息を漏らし、ぼうっと緑に溢れた室内を見回してみればこのまま眠ってしまいたくなるが……そんな室内に似つかわしくない机の上に鎮座する最新技術の塊。
「あっ、時間……」
店内の空気と雰囲気のせいでゆるくまったりとしてしまったが、時間を確認すればオンライン取材の時間が迫っている。いくらチャットでの受け答えといえどこのまま緩み切った気分で受ける訳にはいかないだろう。やりとりをするためのメッセージソフトを立ち上げ気持ちを黒惟まおへと切り替えていく。
「やるか」
一度目を閉じ、自らに宿る魔力の存在を感じてより魔王らしい自らをイメージしていく。なかなか配信でアバターを身に纏わなければうまく出来なかった気持ちの切り替えも魔力という要素を感じ取れるようになってからは随分とスムーズにできるようになった気がする。
『これで感じ取るだけじゃなくて一人で自由に操ることが出来れば一人前の魔王なんだけどな』
こんな風に内心に引っ込んだ
◇
夢を見ていた。
それはとても昔のようで。
誰かの記憶のようで。
不確かな思いの残滓。
己にその玉座は大きすぎて。
己にその王冠は重すぎて。
とても不釣り合いだと誰かが笑う。
それでも愛してもらうために。
愛してあげるために。
この身を捧げたというのに。
どうして……。
「……さま。く……まさま。」
「んぅ……」
「来嶋さま」
「ぅん……あ……えっと……」
「おはようございます」
「おはよう……ここは……」
「Álfheimrでございます」
「あるふへいむ……ようせい……?」
自らを呼ぶ声に意識が引き上げられていく。さっきまで自分は何を……。
思考がおぼつかない頭で周りの状況を確認してみてもいまいち状況が飲み込めない。
アルフヘイムというのはたしか妖精の住む世界で……。
だとしたらこの華憐な少女はきっと妖精なんだろう。
「思った以上にお疲れのご様子でしたので様子を見させていただきましたが、そろそろお帰りになられた方がよろしいかと思いまして」
「あ、フィオさん……これありがとうって私……っ!?」
いつの間にか肩にはブランケットがかけられていて身体を起こすとさらりと滑り落ちていく。それを手に取りようやく目の前にいる少女がÁlfheimrの店員であることを思い出すと、まさかの事態に驚愕する。まさか、寝落ちしてた!?
目の前にあるノートパソコンの画面を凝視すればメッセージソフトが立ち上がっていてオンラインで受けた取材のログがつらつらと残っている。その下の方まで視線を落とせば互いに礼を述べて解散となったようでまずは安心する。
さすがに取材中に寝落ちするなんていう大ポカはやらかしてないようだ。
「よかっ……たぁ……」
そう安心したのも束の間、ハッとしてスマートフォンを手に取ればそちらのメッセージアプリにはマネージャーからの連絡が数件。慌てて今度はそちらへと目を通すと「本日の打合せですが、先方との急な打合せが入りまた後日にリスケさせていただければと思います」の文字。取材のこともあり、時間が出来ればという話だったのでこちらもなんとか迷惑をかけるような事態にはならなかったようだ。
「あぁ……もう……なにやってんだ私……」
結果的に問題はなかったが一歩間違えれば大惨事になりかねない気の緩み。安堵した心とは別に自己嫌悪で頭を抱えたくなる。
「ごめんなさいフィオさん。お店の方は大丈夫?」
「お気になさらないでください、当店はいつまでも……何でしたらお泊りをご希望されても対応できますので」
宿泊まで対応しているとは思わなかったが……どのようなニーズに対しても応えるという意味では対応していてもおかしくないなと思わせる不思議な納得感があるのも確かだ。
「それは機会があれば……、今日は帰りますね」
「はい、それがよろしいかと」
皮肉なことに眠ったおかげで目が覚めてしまえば随分とすっきりしている。ただそれは体調面だけのことであって精神はズタボロもいいところだ。
今日の配信どうしよう……。
帰り支度を進めながら夜やろうと思っていた配信の事を考える。今から帰れば……時間的には凝ったことをしなければ準備も含めて配信は可能だろう。
ただしそこまでに気持ちを持ち直すことができるか……。
逆に言えば配信によって気持ちを持ち直せるという考え方もできるが……。一部のリスナーは的確にこちらの不調を感じ取ってしまうだろうという思いもある。
どうするべきか……。そんなことを考えているうちに記憶の片隅に残っていた不思議な夢の事はすっかり忘れ。
帰宅後に覚悟を決めて配信の枠を立ててしまえば杞憂だったとばかりにいつも通りの配信ができ、今日の事は反省しつつ大事にならずに良かったと思うに留まるのであった。
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