第8話 マイラと茉依

 国王は気を取り直し、表情を引きしめた。


「マイラ、福という名前に心当たりはあるか?」


 福の名前が飛び出し、マイラは目を丸くさせている。マイラの表情で察したらしく、頷いた。


 国王は再び語る。

 フレーデリックがマイラを連れ去ったと報告を受け、慌てて宮殿こちらおもむいた。マイラと別れた後、フレーデリックにマイラを連れ去った理由を問いただした。


 フレーデリックの言い分は、自分の前世は犬で、福という名前だった。ずっと飼い主の生まれ変わりを探していた。卒業パーティーで飼い主の口癖を聞き、マイラが飼い主の生まれ変わりだと確信したという。


「マイラ、事実を話してほしい」


 国王に請われた。


(隠していても何もならないし、正直に話したほうが良い影響を及ぼすだろう)


 マイラはすうっと深呼吸をして気持ちを落ちつける。


「私は馬立茉依と申します。確かに私は福と言う名前の黒柴犬を、この世界とは違う世界で飼っていました。私がマイラちゃんの身体で目を覚ましたのが今朝のことなので、ずっと戸惑っていました」


 マイラから違う世界で生きていたと聞いた国王は、驚きの表情を浮かべた。


「やっぱり茉依だ!! 茉依、ずっと探していたんだ。これからは僕のそばにいてほしい。ずっと、一緒だよ」


 フレーデリックはとろけそうな笑顔でマイラを見つめる。


(フレーデリック様……いや、福が魅惑的な美貌の青年に生まれ変わって、私に笑顔を向けている……)


 艷やかな黒髪に狐色のメッシュと美しく整った顔立ちに、長いまつ毛。光の加減で色が変わり、惹きつけられる不思議な瞳。世の女性ならきっと、虜になるのだろう。


 フレーデリックの小首を傾げる仕草が、眼差しが、福と重なる。

 小さくて可愛かった福が、騎士のような体格で、かっこいい王子様に生まれ変わったことに思考が追いつかない。


 何ともいえない思いが胸に渦巻き、茉依は無表情になっていった。


 国王は無表情になっていくマイラに思うところがあったらしい。


「茉依だったか? よかったら、そなたの身の上を聞かせてくれるか?」


 茉依は我に返り、頷く。それではと、話し始める。


 人見知りが激しく、内向的な性格のため、人と交流することが苦手で、人の感情も場の空気を読むことができず、いつのまにか人の輪から外れ、一人で過ごしてきたこと。


 両親は茉依に無関心で、母親の手料理を食べたことがなかった。幼少期はテーブルに置かれた菓子パンと水が茉依の食事だった。冷蔵庫を開けることも許されず、水しか飲めなかったのだ。

 

 父と母は仲睦まじく、食事時は楽しそうな雰囲気が伝わってくる。

 子どもである茉依だけがつまはじきにされ、家族の温かさを知らず、一人、部屋でパンを食べていた。


 暗い部屋でパンをかじり、寂しさを呑み込んだ。水とともに希望も呑み込んだ。

 様々な感情を呑み込んだ末、感情が乏しく誰にも心を開けずに成長した。


 店で売れ残っていた福を家族に迎え、福と過ごすうちに、愛しいと思う感情が芽生え、毎日が楽しいと思えるようになってきた。


 福と散歩中に事故に遭い、気づいたらマイラの身体で目覚めたと説明をした。


「何と……人と関わらず、生きてきたのか? 寂しくはなかったか?」


 国王は痛ましそうに目を細める。


「親から愛情を感じたこともなく、甘えたい欲求も満たされなかったので、寂しさも甘えたい気持ちもいつしか感じなくなりました。希望もなく、期待することもなく、淡々と生きているだけで、人の感情も、空気を読むこともできなくて……ありがたいことにお金だけは出してくれたので、大学で学んだことを活かして一人で仕事をしていました」


 国王は口を半開きにして、顔色を失くしている。絶句しているようだ。茉依は紅茶を口に運び、続きを話そうとしたら、何も言わず、首を横に振る。


「もうよい、話さなくていい。よく分かった」


(私の生い立ちは、変なのかな? 話が進むにつれ、陛下の表情が変わったような気がする)


 茉依にとって一人でいることは、当たり前のことだった。




 街中で仲睦まじく歩く恋人たちとすれ違っても、男女のグループが大騒ぎで歩いていても、親に抱っこされた幼児の無垢な笑顔を目にしても、何も感じなかった。


 灰色のフィルターがかかった視界には、きらめく光は通されなくて。

 灰色に染まった世界にポツンと茉依は佇んでいる。

 灰色の世界が鮮やかに色づいたのは、福と過ごし始めて間もなくだった。



 ずっと黙っていたフレーデリックが、テーブルに肘をつき、指を組んであごに当てながら、思い出したように話し始めた。


「僕が福だったとき、茉依が外出中で留守番をしていたら、茉依の父親おっさんが帰宅して、僕を見下して言ったんだ。『茉依あいつは犬なんか勝手に飼いやがって』って。普段は茉依のことを無視しているおっさんの吐き捨てる言い方に、僕は無性に腹が立って「お前には関係ないだろ!!」と唸り声を上げて威嚇いかくしたらおっさん、ビクッとしたからさ、ケージの中で立って、けたたましく吠えてやったら、驚いたらしく足をもつれさせてゴロンと転んで、四つん這いで逃げていって滑稽こっけいだったな。茉依を悪く言う奴は僕の敵だ。茉依は僕が守るんだ」


 フレーデリックは思い出すだけで腹が立つと、鼻息を荒くした。


「知らなかった。そんなことがあったの?」


 フレーデリックは頷いて口を開く。


「それ以来、おっさんは僕に近づいてこなかったな。遠くから恨めしそうに視線を向けてきたけど、牙をいたら顔を背けて。小さな僕に負けを認めたから、すごくスッキリした!」


 清々しい笑顔で教えてくれた。国王もよくやったと、満面の笑みで何度も頷く。


「そうか。そう、か」


 納得したらしく、あごひげを触りながら目を伏せた。


 茉依と福がこの世界に生を受けたのも、が人として生まれてきたことには何か意味があるのだろうか。もしかしたら女神の思し召しなのかもしれないと、国王は感じた。


 ファーレンホルスト王国は豊穣の女神を崇拝している。

 神殿には右手に麦穂と稲穂を持ち、左腕に小さな幼女を抱いた女神像が安置されている。

 女神の左側には大きな狼の像があり、女神と幼女を守るような姿勢で安置されている。

 この狼は女神に仕えていたが、成長した女神の娘を守護した神獣だと、神話で伝わっている。




「茉依……いや、マイラよ。フレーデリックを受け入れる気はあるか?」


 国王の申し出に、どう答えていいのか分からない。茉依がマイラとして目覚めてから、一日も経っていない。


 先ほどあらすじ程度に出来事を振り返ってみたが、日本とは違う世界で、異なる文化に翻弄ほんろうされ理解できずにいる状況を、きちんと呑み込めるだけの時間がほしい。結婚など考える余地はない。

 ためらう仕草を見せたマイラに、国王は考えを改めた。


「フレーデリックは結婚したいとは言っておらん。マイラと一緒にいたい、そばにいたいと望んでおったので、儂がそう解釈したまでだ。しばらくフレーデリックの宮殿で暮らしてみたらどうだ? マイラも相当混乱しておるし、この状況でカレンベルク邸に戻るのも辛かろう」


 国王の提案も理にかなっている。マイラの両親は茉依の振る舞いで、中身が別人だと気づくだろう。最悪の場合、婚約破棄されて心が壊れたと思われる可能性もある。


(ここは陛下の厚意に甘えたほうがいいかもしれない)


 マイラは頷いた。マイラの了承を得て、フレーデリックに視線を向ける。 


「そなたらは元飼い主と元飼い犬の間柄なのだろう? おかしなことにはなるまい。な? ?」


(父上が僕を威嚇いかくしている。おかしなこととは何を指すのか分からんが、逆らえない)


「はい、父上」


 フレーデリックは真顔で背筋を伸ばした。


「カレンベルク侯爵には卒業パーティーの出来事が原因でマイラが記憶喪失になったと説明する。疲れただろう。今は何も考えなくていい。のんびり過ごしなさい」

「お言葉に甘えて、お世話になります。よろしくお願いします」


 幼い頃から逢いたくて探し続けた飼い主茉依の生まれ変わりであるマイラのそばにいられる。ようやく願いが叶ったのだと、フレーデリックは嬉しさで笑顔がはじけた。

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