2 急展開


 大人になると恋愛に臆病になり、鈍感になり、または過敏になり、振り回されるのを酷く恐れる。

 お見合いや婚活という出会いの形が増えるのも必然だ。互いが同じ目的を持って出会えるのなら、それに越したことはない。

 それほど人に振り回されたくないと思う反面、それほど愛せば答えてくれる人であるかを重要視する。だから吟味する。


 失敗すれば一生背負う傷になりかねない。一人でいても傷を作ってしまうのに。でも稀に、不幸になると分かっていても抗えない強烈な感情に支配されてしまう時がある。人に心を奪われるとはそういうことだ。

 人は臆病で孤独に耐えられない生き物である。

 少なくとも、私は。










「私もそう。ああいう男の人は苦手。世間で言う男らしさ、を沢山持っていればいる程気持ち悪いと思っちゃう」


「亜純も全く同じこと思ってたのね。上司だから仕方ないけど、プライベートなら絶対関わらないタイプ」


 二回目の食事会で、私と悠理は着実に距離を縮めていた。


 私は彼女の思考や価値観がとても好きになっていた。初対面の時は爽やかな印象が強かったが、話してみるとそうでもなかった。寧ろ私のような少しねじ曲がった暗さもあって驚いたほど。抱えていた感情を吐き出しても引かれるどころか共感されてしまう。そして思い掛けないところで互いの違う部分を見つけ、新鮮さに心を高ぶらせながら発掘し合う。友人として語らうこの時間が、早くも私の中で特別な時間となっていた。


 悠理の放つ言葉の一つ一つが自分に向けられているだけで満足してしまう。これはもう手遅れなのかもしれない。一目惚れのようなものだ。


「恋愛は麻薬だって言うけど、本当にそうだよね。依存して、無くなったら知らなかった頃に戻れなくなるもの」


「人間の本能なのか、脳の錯覚なのか。どちらにしろ嫌になるわ」


「ふふ、ごもっとも」


 こんな話をするのも、どちらが先かはわからない。気づけば生き方とか、価値観とか、そんな類の話になった。


 お互いの生い立ちなどは話していないが、なんとなく解るのだ。きっと誰しもこんな〝同族センサー〟を持っているのではないだろうか。

 類は友を呼ぶというのは本当で、同調できる人間が集団にいれば少しずつ集まってくる。その中で自分のセンサーが敏感に感じ取るのだ、同じ匂いを。そしてきっと彼女も。


 悠理は男性が苦手だと言う。それが一般的な苦手意識なのか、恋愛対象を誤魔化すための言葉なのかはわからない。そして、私も核心をつく気持ちにはならない。追及できないように思考を誘導されているような感覚もあるくらいだ。その絶妙な感覚でさえ、今の私にとってはプラスの刺激となってしまっているからどうしようもない。そのくせ、学生時代は女の子に告白されたなどという過去話も披露してくる。私はこの宙に浮いたもどかしい距離感に酩酊している。


 悠理は私の気持ちを大なり小なり気づいていると思う。はじめからバレていたのかもしれないけれど。








 仕事終わりの金曜日、会社の飲み会のあとの深夜零時。

 終電を逃した私たちは慌てることなくカウンターで並んで酒を飲んでいた。


 初めて来店した店はアンティーク調の内装で、オレンジ色のテーブルランプが穏やかに光る落ち着いた雰囲気のバーだ。瀟洒な雰囲気の割に値段は抑えめで居心地も良い。


 五月も終わりを告げる時期、カーディガン1枚羽織れば夜も凌げるようになっていた。そんな季節の解放感も後押しし、二人ともこんな時間まで飲むことになったのだ。二人ともオフィスカジュアルな服装で、私はベージュに花柄のワンピース、悠理はブルーシャツに白のパンツを履いている。スタイルの良い悠理はスカートよりパンツが似合うと思った。


「ねぇ、その指輪見せて。前から可愛いなって思ってたの」


 横並びに座る悠理の手がすっと伸びてきて、私の指に触れた。撫でるように持ち上げられて、左手中指に嵌めている指輪に触れて感触を確かめている。その触れ方と指輪を眺める視線が妙に色っぽくて、胸が高鳴る。緊張して震えてしまいそうな指先をごまかす為にきゅっと握りこんで、そっと左手をカウンターに置く。


「何年か前に買ったの。いろんな願掛けを込めて」


「ピンクゴールドが好きなのね、似合うよ」


「ほんと?嬉しい」


 指輪はティアラのような形をしていて、三か所に小さなピンクダイヤが入っていた。このモチーフに惹かれたのは、自尊心を満たす気がしたからかもしれない。自分へのご褒美と、新しい自分になりたいという願掛けで購入したものだった。

 確かに身に着けるようになってから自傷癖は鳴りをひそめ、考え方も少しは前向きになったかもしれない。年齢を重ねることで落ち着いただけかもしれないが、それでもつける意味はあったと思う。

 少し心に余裕が出てきた私は、未だ指輪を触ってくる悠理の手を勢いに任せてぎゅっと握った。


「やっぱり。悠理の手冷たいよ」


「ふふ、体温低いから。でも亜純の手が熱いだけかもよ?」


 笑った悠理に握り返され、私は自分の甘い欲求が満たされていくのを感じていた。

 ただじゃれあって手を握っただけ。特別なことは一切していないのに、妙に甘えたくなるというか、甘えていいと言われている様な気分になる。

 優しげな表情も、甘すぎない香水の香りも全てが私を肯定してくれている錯覚を生んだ。


「はー、人肌恋しいと思ってたから、今なんか幸せ」


「なにそれ、どれだけ飢えてるの」


 からっと笑うくせに、悠理の手は一層強く私の手を握ってくる。

 その温度を感じながら、私は何気なく、前にも聞いたことを問いかけてみた。


「ねぇ、悠理はこの先誰とも付き合いたくないって言ってたでしょ。どうして?」


「うーん。理由はいろいろあるけど…。一番は人と付き合うってことに疲れちゃったことかな。子供も特別欲しくないし、私責任能力も無いから結婚も向いてないと思う」


 まただ、と思った。この話をするときの悠理は少し変なのだ。

 一瞬だけ表情を硬くして、後は定型文を読むように淡々と言い放つ。いつも飄々としている態度から少し逸脱する。


 何か秘めている想いがあると私は確信している。当然気になるけれども、二度とも同じ反応から察するに話を掘り下げようとは思えなかった。

 それに悠理の表情はすぐに笑顔にもどる。

「亜純はどうなのよー」と私の肩下で跳ねている髪をいたずらっぽく引っ張った。

 その仕草を見て、やっぱり追求しなくてよかったと心の内で安堵する。

 そうしてしばらくふざけて話していると、私の太腿の上に悠理の手が滑り込むようにして置かれた。


「亜純は本当にかわいいね」


「えっ、どうしたの急に」


 驚いてぱっと隣を見ると、覗き込むようにこちらを見ている悠理と目が合う。近い。その距離があまりに近くて息を飲んだ。言葉なくじっと見つめられ、その視線が熱を孕んでいることに気づく。見つめ続ければたちまちに囚われて喰われてしまうような、じっとりとした獰猛さを。

 どのくらい見つめあっていたかわからないけれど、ふっと緊張の糸が緩んだように悠理は笑った。でも乗せられた手はそのままで、更には内腿を掠める。


 蠱惑的な行動に私は激しく動揺する。こんな雰囲気は今までなかった。心臓が痛いくらいに脈打っている。


 確かに初対面の時、別れ際に見せた悠理の表情を私は忘れられない。でもまだ確定はしていないし、思い違いの可能性も十分にあった。確信の持てない人に恋をすると傷つくだけだ。今ならまだ、良い友達のままで留めていられる。

 そうだ、もうこの際聴いてしまおう、女性に興味があるのかと。冗談交じりに言えば問題はないはず。そのほうが手っ取り早い。


 一呼吸おいて覚悟を決めると、私は悠理の手を捉え、握り返して口を開く。


「あのね、悠理って」


 その時だ、聞き覚えのある声が後ろから飛んできた。


「あれー?亜純じゃない?」


 勢いよく振り返ると、そこにはよくビアンバーで顔を合わせる友人が居た。心中でタイミングの悪さに舌打ちしつつ、動揺を押し殺して久しぶりだね、と手を上げる。すると友人も手を振り返したが、すぐに隣にいる悠理を見てにやりと笑った。冷やかしの意味も込められた視線に余計な事を勘繰られたかとうんざりしたが、一瞬のうちに友人の表情が驚きへと変わった。


「え?もしかしてゆーちゃん?」


「え、あ!うん、久しぶり」


「ほんっとうに久しぶり!最近出てきてないから寂しかったよー。なんだ、二人とも友達だったんだ!あ、いや違うね、もう付き合ってるか」


 探りを入れてくる友人を前に、私は開いた口が塞がらない。

 悠理もこの状況に驚いているようで、私と悠理は友人を見ながら何度か顔を合わせて瞬きを繰り返した。


「え、えっと、悠理ってコッチの人だったの⁉」


「ってか亜純もそうだったの⁉知らなかった!」


「まじか!まじで⁉」


「はぁ、こっちこそ驚いたわ。お互い知らずになに良い雰囲気出してるのよ」


 呆れたようにため息をつくと、良いものを見たわと笑って友人は後ろ手を振って離れていった。

 その後ろ姿を見送ることなく、私の頭の中は悠理のことで一杯になっていた。一番に危惧していたことを他人からあっさりとカミングアウトされてしまったのだ。


 次にこみ上げてくるのは喜びだ。与えられた可能性に舞い上がる気持ちが自然と口角を上げる。予感はやはり的中していたのだ。悠理も女性を好きになる人だったなんて。


「ずっとそうじゃないかって思っていたけど、まさか」


「私も亜純はいける人だと思ってたよ」


 顔を見合わせると、なんだか恥ずかしくなり照れ笑いをしてしまう。互いに探り合って楽しんでいたのだ、このどっちつかずの浮ついた関係性を。まさかこんな形で暴露されるとはね、と笑って私たちの関係性を揶揄し合った後、いつから疑惑を持っていたかとか、どういう子がタイプだとか、堰を切ったように抱えていた想いを私たちは吐露しあった。


「悠理みたいな子が好き」


「亜純みたいな子が好き」


 でも、はっきりと「あなたが好き」とは断言しない。

 お互いに。そこにある考えは二人とも違う。私はまだ踏み込まないだけ。


 でも悠理は違う。好意を持っていたとしても、悠理はその関係の先を思い描いていない。顔は燃えるように熱いのに、一方で心の底には冷や水がじわりと広がっていく。だって、悠理は誰かと居る未来を求めていない。


「けど、付き合わないんでしょ?私たち」


「そうだね、好きだけど、


 ひゅっと喉から音が出た。

 穏やかな声色と言葉の内容が乖離しすぎていて、理解が追い付かない。我に返っても愕然とするしかなかった。すぐに脳裏に浮かんだのは不治の病、それか生きることが難しいほどの借金を抱えているか。どちらにしろ私は振られているらしかった。馬鹿みたいに舞い上がっていた自分が情けなく、そしてそれ以上に〝悠理が死ぬ予定〟という爆弾にどうしようもなく胸が痛む。


 私の暗転した表情を見て、悠理は慌てたように言葉をつけ足していく。


「あぁ、別に病気とかじゃないよ!この通りぴんぴんしているし。ただ、色々あって。もう変えられないものもあるの」


「そう、なの…?」


「まぁ冗談半分で聞いてよ。わたしも半分冗談で言ってるんだし」


 嘘だ。目が笑っていない。

 それから私が落ち着くのを待つように背中を何度か撫ぜると、ゆっくりと口を開いた。


「亜純、死んでしまいたいって思ったことある?」


「え、あ…うん、何度もあるよ。でも、生きていたくないのに死ぬ勇気もなかった」


「わたしもそうだった。小さいころから漠然とした不安に駆られたことはある?」


「よくあった。私はなんの為に生きているんだろうって」


 自分で言っていて惨めになって、俯く。そんな私を引き寄せるように今度は手が腰にまわってきて、私の肩口に顔を埋めた。そして耳元で小さく、けれど言い淀みの無いはっきりとした口調で言った。


「私は誰とも付き合う気はないけど、だけど、その時までは誰かと一緒にいることはできる、たとえ短い期間でも。亜純は少し前の「私」みたいなの。もっと自分を知るために、私と一緒に堕ちるところまで落ちる覚悟があるなら、おいで。色々と吹っ切れるかもしれないし、取返しがつかなくなるかもしれない。どうなるかは分からないけど、暇ではないよ。今年中に終わる。今まで通り、無難に楽しく暮らしたいのなら友達のままでいいし、離れたいなら逆に今しかないと思う。亜純が選んで。私はどちらになってもあなたのことは大切に扱うつもり。」


 霞のような、雲を掴むような提案。


 それでいて突きつけられる、自分の生き方を、心の在り方を選べと。傷つきたくない、逃げたほうが良い、怖い、だって普通じゃない。わかっている、わかっている。でも!このまま漠然と生きていって何かが変わる?こんなに狂っていて魅力的な提案は今後いつ訪れる?捻くれた自尊心がむくむくと顔を出してにたりと笑う。そうだ、そうだ、寧ろこれはチャンスなのかもしれない。


 私は酔いがまわっている。確かにそうだけど、半分はそれを言い訳にしている。深夜のじっとりとした迷宮に飲み込まれていく。心地いい。

 もう答えなんて一つしか出てこない。だって私は空っぽの自分を埋めてほしいのだ。


「一緒に堕ちて同じ場所を見れるなら」


 悠理は私の瞳をみて数度瞬くと、寂しげな表情を浮かべた。けれどすぐに目を細めて微笑すると、私の手を引く。


「そろそろ出よう。次行こう」


 一歩、でも確実に、私は底なし沼へと足を踏み入れた。


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