次はあなたかもしれない

覧都

第1話 夏の思い出

「聞いて下さい恵美子さん」


 このおじさんは、わたしが不思議な話しを集めていることを、何処かで知人から聞いたらしい。

 話しを聞いたらお酒を奢ってくれるということで、わたしはいそいそついてきてしまった。

 本当は人見知りのわたしはこういうことは滅多にしないのですが、金欠病ですからしかたがなかったのです。


「はい、伺います」


 わたしは、ビールを一口飲んだ。

 一口飲んで、美味しすぎたので、すぐさま飲み干してしまいました。


「あー、おねーさん、生中お替わり二杯」


 おじさんは直ぐにお替わりを頼んでくれました。


「恵美子さん、東尋坊ってご存じですか」


「もちろん知っていますよ」


 東尋坊とは、福井県にある風光明媚な観光名所です。

 ただし断崖絶壁で自殺の名所としても有名です。

 私も取材で二度行ったことがあります。


「私は数年前、知り合いの借金を連帯保証人として押しつけられましてね。家族とも別れるはめになったのですよ。当時の私は絶望しましてね。ふらふらと東尋坊に行ったのですよ」


 おじさんは割と明るい表情で話しています。


「昼間に訪れた、東尋坊の崖はねー、全然高く感じられなかったのですよ。それこそ、二メートル位にしか感じられなかったのです。飛び降りてもなんともない、そんな気がしていました。何も感じないから崖のギリギリに立ち、下をのぞき込んでいました。『あんたー危ないよ』なんて知らない人に声をかけられました。その位近づいていたのですよね」


 わたしは、コクコクうなずき聞いています。

 それに気をよくしたのかおじさんはうれしそうに話しを続けてくれました。


「夜になってから、崖に飛び込もうと決意し、その場を後にしたのですよね。旅館でね。一人自分の人生を振り返るとね。馬鹿馬鹿しくなったのですよね。死ぬ事がね。そして、地元に帰り、友人にアドバイスをもらったのですよ」


「そうですか」


 わたしは、ここで相づちを、打ってしまった。

 たぶん、相談する友人がいたことが羨ましく感じてしまったのかもしれません。


「そしたらね、自己破産で事が済むのでは無いかということでしてね」


 おじさんは、ここでビールを一口飲んでから話しを続けました。


「かー、うまい。まあ、それですんだから、私はこうして生きているのですけどね。それで、久しぶりに観光で、東尋坊へ行ったのですよ。死ぬ気なんてまるで無くて行ったのですよね。そしたら、高いのですよね。崖が……。とても端に近づくことが出来ません」


 ずっと聞いていましたがわたしは、このおじさんのいいたいことが、実はよく分らなかった。

 でもここまで来たとき、背筋が急に寒くなりました。


「ボーっと遠くの海を見ていたら、急に足を引っ張られたのですよね。耳元で『お前、夜来なかったな』ってささやいて、すごい力で海へ引張るのですよ。まさに崖から落ちるというとき、誰かに体を支えられましてね。顔を見ると無表情でね。かえって薄気味悪さを感じました。そしてこれがその時出来た跡なのですよ」


 おじさんはズボンの裾をまくると、足首に出来ているあざを見せてくれました。

 そこには手で握られたような跡が両足にくっきりついていました。


「もう、一年半も経つのに消えません……」


 話しはまだ続いていました。

 でも、私の耳にはもう全く入って来ていませんでした。

 私は、幼いときの記憶を思い出していたのです。


 あれは、暑い夏の日でした。

 自営業で忙しく働いている両親は休みなんてありません。

 でもその日は休みを取ってくれて、家族五人を大きなプールへ連れて行ってくれました。


 幼いわたしと母は、子供用の浅いプール。

 父と姉と兄は大人用のプールに別れました。

 それはわたし達のいる浅いプールで起きました。


 わたしが母の前に立っていると後ろから、わたしの足に強くぶつかる物がありました。


「いたっ」


 視線を下に向けると男の子でした。

 その男の子は生きている気配が全く感じられません。


「うわあ」


 わたしは恐怖のあまり思わず声を出しました。

 この男の子はいつから誰にも気づかれることも無く、沈んでいたのでしょうか。

 そもそもこんな浅いプールでどうして溺れたのでしょうか。

 横になっていても手を前に出せば、頭は出せるような浅いプールです。


 そしてプールには流れなどありません。

 なのに変でした。

 その男の子の体は、磁石に引きつけられる鉄のようにスーッと母の体に近づいていきます。


 そして、母の足にドンと当たりました。

 母は足下に目をやると、慌てるわけでも無く、無造作に男の子の脇に手を入れ、水から引き上げます。

 そしてプールサイドに行くと男の子を座らせます。

 わたしは、今だからそれが変だと思います。


 普通は仰向きに寝かせ、人工呼吸、心臓マッサージが普通です。

 母は、トンとプールサイドに座らせたのです。

 呼吸もしていない男の子は、頭をだらんと前に垂らして座りました。


 母はその背中を二度さすりました。

 すると、男の子は大量の水を吐き、ゲホゲホ咳を数回すると、泣きながら走り去りました。

 その時の母の顔は、何も表情の無い、まるで仏像のような表情でした。

 東尋坊のおじさんを助けた人の表情がこれだと、わたしは瞬時に思っていたのです。

 そして、男の子の体には手の跡のようなものがあったのかもしれません。


 男の子が走り去ると母は、何事もなかったようにわたしの所に来て、水と戯れるわたしの様子を見ていました。


「ねーお母さん、昔家族で行ったプールの時のこと憶えている?」


「え、なんのこと?」


「ほら、男の子助けたでしょ」


「えーっ、そんなことあったかしら」


「えっ、プールへ行ったのは憶えている?」


「それは、憶えているわよ」


 中学生になったわたしは、母にプールでのことを聞いたことがあります。

 プールに行ったことは憶えていましたが、男の子の事は憶えていませんでした。

 その後、わたしは、プールの事は聞いていません。

 なんだか聞いてはいけない気がして……。


 母は、その後も夫に言われるまま口答えもせず、子供達に怒ることも無く、ご近所の悪口を言う事も無く、静かに暮らしています。


 あの日のことは本当にあったことなのでしょうか。

 それとも幼いわたしの見たまぼろしだったのでしょうか。

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