第27話 慣れ過ぎた作業

「はい先生」


 珠はゴミを出した側の廊下――回収廊下と呼んでいた場所で手を上げた。先生と呼ばれたのはそこで洗剤やタオルを用意している翠羽だ。


 翠羽は手を止めずに珠を見た。


「なにかしら。珠さん」


「塩素系漂白剤って普通に手に入るものなのに、危ない物の話のときにいつも出てくるよね。規制されたりされないの?」


「確かに、今までの話だけだと、とても危ない物に感じるかもしれないわね」


 翠羽は手を止めて、珠と向き合った。


「使用方法や危険性を周知させる表示は義務づけられているけれど、強い規制はかけられていないはずよ。それに簡単に手に入らなくなると困る人も多いと思うわ」


「そうなの?」


「ええ。次亜塩素酸ナトリウムという成分なのだけれど、適切な使い方をすれば安全な薬品なの。普通の家庭では漂白剤やカビ取りに使っているし、水道水の消毒もプールの消毒も同じ成分を使っているのよ」


 一つ、二つと翠羽が指を立てて利用例を数えていく。


「確かに漂白剤使ったときに、プールの臭いだって思ったことある」


 珠が頷くと、翠羽は両手を合わせて笑った。


「そうなの。あのわかりやすい香りが次亜塩素酸ナトリウムの特徴でもあるわね。殺菌力が高いから、手術室での消毒にもつかったりするわ。アルコールが効かない菌にも有効なのよ」


 珠はわざと大げさに頷いた。


「へー。それじゃあ、今日もその次亜塩素酸ナトリウムっていうのを使うの?」


「いいえ。今日使うのはこれよ」


 翠羽はスプレーボトルを手に取った。そこには過水と書かれた大き目のネームシールが貼られている。


「かすい?」


「過酸化水素の略よ。それが主成分の洗剤がこのボトルに入ってるの。洗剤そのもののラベルもあるのだけれど」


 翠羽がボトルをひねると、裏側に英字が細かく書かれたラベルが貼られていた。


「これだけだと、知らない人は一目では何が入っているのかわからないでしょう? だから、わかりやすいように主な成分を書くようにしているの」


「なるほど。でもわたしじゃ過水でもわからないから、勉強しないと」


 珠はそう言ったが、実は過酸化水素についてはよく知っていた。血が綺麗に落ちるので、前の掃除屋時代によくお世話になっていたのだ。なんなら塩素系漂白剤も、痕跡を消すのに便利に使っていた。


(これだけ知らないアピールすれば、血生臭い知識は隠せたはず)


 その思惑は成功しているようで、珠の言葉を疑うような素振りは見せず、翠羽は頷いた。


「そうね。一つずつ覚えていきましょう」


 翠羽は珠にスプレーボトルを手渡した。


「過酸化水素は傷口の消毒にも使われる薬品で、高い殺菌作用があるの。塩素系と混ざると殺菌力が失われるから一緒には使わないわ。今日は塩素系は使わないから、気にする必要はないわね」


「わかった」


 それに関しては珠も知らない知識だった。


(使っていても知らないことって結構あるんだな)


 スプレーボトルを眺めながら感慨にふけっていると、翠羽から、目の細かい水色のタオルを二枚渡された。


「洗剤は清掃面に直接かけるのではなく、タオルにスプレーして使うの。拭き掃除はゴシゴシ擦るイメージがあるかもしれないけれど、ダスタークロスで除塵したときと同じで一方向にふき取るのよ」


「姑が指で埃をすくうときのイメージ――だよね」


 珠は指でスプレーボトルの上をなぞって見せた。


「覚えててくれてうれしいわ。除塵よりも少しだけ力を入れても大丈夫よ」


 翠羽は自分も同じものを用意して手術室へと先導した。中では眼帯を外した刺美が、棒の先にシートを取りつけたもので床を掃除していた。テレビCMでよく見かける床拭きシートの一式によく似ていたが、ついているシートは除塵用のダスタークロスだ。


 神社で珠がテーブルの除塵したときに使った道具がサイズアップした物だ。棒の長さは身長に合わせているのか、刺美の肩くらいまであり、床を拭いている板は珠の肩幅より広い。


 刺美は翠羽に視線を向け、軽く手を上げた。


「さすが力を解放したわたしだな。アームと無影灯の除塵はもう終わった」


「ありがとう。それじゃあわたしと珠さんで清拭を進めていきましょう。綺麗に見えてもよく見ると……」


 翠羽は無影灯を見上げた。そして今は消えている点灯面を保護するプラスチック板を指さす。そこには茶色の点があった。


「こうやって血がとんでいるから、気を付けて拭いていってね」


「はーい」


 珠はタオルに洗剤をかけ、撫でるように拭いていく。一度拭いただけでは、固まった血は落ちない。


 珠はすぐには拭き直さなかった。少し待つと、洗剤に覆われた血液が白くなっていく。珠はそれを確認してから拭いた。そうすると固まっている血も簡単に落ちると知っていたのだ。


 前の仕事では洗剤を直接をかけて、色が変わるのを確認してから拭いていた。


「勘がいいわ。洗剤は化学反応で汚れを落とすから、接触時間を伸ばすと汚れを落としやすくなるの」


 翠羽の声が耳元で聞こえた。珠の顔のすぐ横、触れるほどのところに翠羽の顔があり、珠が拭いた無影灯の表面を覗き込んでいる。


「え? いやその……たまたま。たまたまなんで」


 珠は血生臭い知識を指摘されたと思い、思わず二歩下がって距離を取った。


 翠羽もゆっくりではあったが、同じく二歩下がる。


「あら、ごめんさい。作業した面を確認しようとしたら近寄りすぎてしまったわ。不躾だったわね」


 偏った知識を指摘されなかったので、珠はひとまず胸をなでおろした。


「えっと……汚れているところだけ拭けばいいの?」


 すぐに質問したのは、余計なことを聞かれないようにするためだ。翠羽は無影灯を見上げた。


「そうね。汚れたところだけを拭くことをピンポイント清拭というのだけれど、普通のお掃除だとそれで大丈夫よ。ただここは手術室だから、汚染の可能性のある場所と手を触れる場所は全て拭いて消毒する必要があるの」


 翠羽は無影灯からベッド、その近くの機械の塊の順に指さした。


「手術はベッドの上で行われるから、近くの無影灯や麻酔の機械が汚れやすいわね。でも部屋の中の物がどう使われているのか理解していないと、汚れやすい場所を判断するのは難しいかもしれないわ」


「それじゃあ、わたしは手を触れそうな場所を拭こうかな」


「そうね。それじゃあお願いしようかしら。手すりやスイッチ。キーボードの周辺がよく手の触れる場所だから、そのあたりを気を付けて拭いてみて頂戴」


「うん。わかった」


 珠は頷いたが、心の中では少し悩んでいた。痕跡を消すという作業をよくやっていたので、人の触る場所などもよくわかっているのだ。


 だからといって、あまりにうまくやりすぎるとまた目をつけられてしまうかもしれない。


(とりあえず、言われたところだけ綺麗にしよう)


 そう決めてベッドから離れようとすると、刺美が床から掃除道具を離さずに近寄ってきた。


「ちょっといいかね。ここの掃除が終わったら翠羽と食事をするのだが、珠くんも一緒にどうだろう?」


「あら、いいわね。作業が終わるころには暗くなっているだろうし、珠さんの都合が良ければ、ぜひご一緒しましょう」


「うーんと……」


 本当はすぐに首を縦に振りたかった。翠羽と刺美はかなりお金持ちのようなので、相当いい物を食べるのだろう。少なくともマズい物を食べさせられるということはないはずだ。


 だがすでにたくさんの服を翠羽からプレゼントされており、珠はそれだけでもかなり後ろめたく思っていた。その上でご飯まで頂いていいのだろうかと思っていたのだ。


(ハシルヒメだったら、きっと迷わずたかるんだろうな)


 頭に浮かんだ小さな神さまは、料理をしていた。


(あ、そういえば……)


 珠は刺美と翠羽に向かって頭を下げた。


「すみません。ハシルヒメに食べて帰ると連絡していないので、ご飯はいけないです」


「そんな。謝らないで。急に誘ったのはこちらなのだから」


 翠羽は屈んで珠の下げた頭に目線を合わせる。


 珠が頭を上げると、刺美が前のめりに腰をかがめて珠の顔を覗き込むようにした。


「今から連絡はできないのかい?」


「わたしはスマホを持ってないから。電話番号も知らな――覚えてないし」


 そもそも電話などあるのだろうかとも思ったけれど、翠羽に掃除を依頼しているのでどこかにはあるのだろう。


 刺美は翠羽に目を向けた。


「翠羽からは連絡が取れるのではないか?」


「そうね。連絡してみようかしら。ハシルヒメさんたちもご飯に誘ってみましょう」


 翠羽が立ち上がると、刺美が大きな声で笑った。


「それはいい考えだ。ぜひ呼んでみよう」


「え? いや、それはやめたほうが……」


 タダ飯が食べられるとなると、ケチなハシルヒメなら間違いなく食いついて来る。珠が服を買ってもらったと知ったら、便乗してたかる可能性すらある。


 だがそれを直接言うのは恥ずかしくて、大きな声は出なかった。


「それじゃあちょっと連絡してみるわね」


 珠の声は届かず、翠羽は手術室から姿を消した。

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