第16話 願いの盃
「やーっと終わったぁ!」
珠は本殿の床に大の字で寝転がった。今度は休憩ではない。
カワタの話を聞いた後も珠は作業を続け、翠羽が戻ってきたら一緒に作業した。それでも翠羽が帰るまでに壁の掃除は終わらなかった。
翠羽はまた後日に作業の続きをすると言っていたが、珠は道具を借りて作業を続けた。そしてついに壁の掃除をやり切ったのだ。
「ハシルヒメの願いはかわいい女の子に掃除をしてほしいだったはず。これで願いは叶えたから自由になれる?」
珠は体をぐっと伸ばした。背中に血が通って疲れが押し流される。
「おぉ! 綺麗になったね!」
ハシルヒメが本殿の入口に立っていた。その後ろに見える外は、もう真っ暗になっている。
珠は起き上がり、手で本殿の壁に触れた。
「どう? これで願いはかなえられた?」
「え? まぁ、その。とりあえずご飯食べない? ちょうどできたところだから、呼びに来たんだよ」
ハシルヒメの声の明るさが若干濁り、見るからに目が泳いだ。
「ねぇ、何か隠してる?」
「いや? 逆に何を隠すっていうんさ」
「それはわからないけど、カワタなら知ってるんじゃない?」
「い、いや。カワタも忙しいからさ。そろそろ帰るんじゃないかな。ちょっと見てくる――」
「珠は見つかったん?」
ハシルヒメのすぐ後ろにカワタが顔を覗かせた。ハシルヒメが背後を取られた暗殺者のごとく、珠でなければ見逃してしまう速さで振り向いてカワタの両肩を掴んだ。
「カワタ! カワタは忙しいもんね! もう帰るよね!」
「うん? せっかく用意してくれたん。ご飯食べてから帰るんよ」
「いや! あれは明日の朝ごはんに――」
珠がハシルヒメを後ろから裸締めにして黙らせた。ハシルヒメが珠の腕を激しくタップするが、珠は緩めない。
「た、珠? どうしたん?」
「いや、ハシルヒメに『願い叶った?』って聞いたらはぐらかされたの。それで何を隠してるのかカワタに聞こうと思ったんだけど、邪魔しようとしたから、つい」
珠が手を離すと、ハシルヒメは四つん這いになってせき込んだ。カワタは屈んでそこに目線を合わせた。
「なんなん? あれを珠に見せてあげればいいん」
「ごほっ……いや、わたしの心配を……」
カワタはハシルヒメの頭を二回撫でてから立ち上がった。
「珠。一回外に出るん。ハシルヒメもなん」
それに従うと、カワタは本殿の扉を閉めた。
「ハシルヒメ。神域に繋ぐん」
「うぅ……はい」
ハシルヒメがうなだれながら扉を開けると、先ほどより明らかに広い部屋が広がっていた。
珠が生き返ったときにいた部屋だ。
「こっちに来るん」
カワタは祭壇へと向かった。教卓のような台の上に、相撲取りが儀式で使うような大きな盃が置いてある場所だ。
「あれは儀式に使った盃なんけど、わんしが移動口に使ってるん。でも本当の役割は別にあるん」
歩きながらカワタは説明する。
「あれは願いの盃なん。願いの叶い具合で水が溜まっていっていくんよ。完全に願いが叶うと溢れるんから、それが目印になるん」
「最初から水入ってなかった?」
「それは珠が、ハシルヒメが望んだ美少女だったからなんと思うん」
「まーでもね!」
突然ハシルヒメが大きな声を上げた。
「そう簡単にわたしの盃は増えないよ。一滴も増えてないんじゃないかな」
「それは見ればわかるん」
三人で祭壇の前に並んだ。
盃は表面張力で水が膨らんで見えるほど水でいっぱいになっていた。だが盃の外には水は一滴も零れていない。
ハシルヒメはほっと息を吐き、珠は教卓のような台の足を蹴った。
「ちょ、何やってんの!」
ハシルヒメが珠にしがみつき、全力で止める。
「いや、ちょっと振動与えれば零れるかなって」
「ダメだろ! そんなの無効だよ!」
カワタが盃を持ってひっくり返した。
「ちょ……! カワタ何やって……!」
盃は逆さになっても、浮かぶ風船を抑え込んでいるように水を湛えていた。
「この盃は願いが叶う以外に溢れさすことはできないん。んまでも、もう少しで溢れそうなん」
「じゃあ、まだわたしは解放されないってこと?」
「そうなるん。でも時間の問題だと思うん。明日には溢れてるかもしれないん」
珠はそれを聞いて、ハシルヒメと肩を組んでにっこりと笑った。。
「じゃあ毎朝見にこよう。約束ね」
「ま、まぁ、まだ掃除して欲しいところあるし、そこが終わってからで――」
「うん?」
珠が聞き返すと、ハシルヒメは深く息を吐いてうなだれた。
「や、約束します……」
ハシルヒメは小指を出して、指切りを行った。
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