08 目

 春野が郵便ポストを開けた。

 そしてぎょっとした目をした。


「うわっ。なんでこんなに溜まってるんですか」


 雪崩のように紙類が流れ出た。

 中にはチラシやらよくわからない紙ゴミばかりだった。


「こういうの、毎日開ける気にもならねぇんだよ」

「部屋もゴミが溜まってましたし。ちゃんと掃除しましょうよ」


 社会人時代も週に1回開けるだけだった。

 無職になった今なら時間もある。気をつけよう。


「私も持ちます」

「さんきゅ」


 春野とふたりで紙の束を抱える。

 夕方の空を見ると、曇り空が広がっていた。

 夕日は茜色の雲に隠れている。


「夜、雨降りそうですね」


 春野がぽつりと言った。


 雨は嫌いだ。

 通勤がだるくなる。スーツが汚れる。電車はむさ苦しい熱気に包まれる。濡れると風を引く。なんだか気分も落ち込む。いいところはひとつもない。


「雨が降ろうが、無職には関係ねぇ」

「私にも関係ないですね」


 部屋に上がり、郵便物をテーブルの上にぶちまける。

 1週間分のチラシやら新聞やら。それらを見ずにゴミ袋に入れる。


「柳川さん、新聞取ってたんですね」


 新聞を抜き取った春野が言う。


「ほぼ読んでないけどな。なんとなく取り続けてる」

「もったいない。地球が泣いてますよ?」

「資源を大事にしねぇとなぁ」


 机に置かれた新聞を手に取る。

 月に数千円も取られてるわけだ。この際ちゃんと元を取ろうじゃないか。


「ご飯の準備しますから、片付けておいてくださいね」

「うーい」

「それ、空返事ですよね?」

「わかったっての」


 オレは今日の新聞を広げた。

 一面には、大きなニュースが載っている。

 どこかの誰かが誰かを殺した、といった内容。


「へェー…………」


 一面というのは、重大な内容だ。

 それなのに、今のオレにとってそれが、どうでもいいことに思えた。

 無職になった今、社会との繋がりが薄れたせいだろう。

 

 世の中から離れてしまった感覚は、やっぱり慣れない。


「どうしようもない奴だな、オレは」


 新聞を流し読んでいると、醤油の匂いと炒め物の音がしてきた。

 

 春野はひとりで夕飯を作ってくれていた。

 オレが作ると言った時に「これくらいさせてください」とのことだった。

 彼女なりの恩返しなのだろう。

 脅した奴へ恩などあるのか知らないが。


(しかしこう、なんだろうな……サマになってるよなぁ)


 台所に立つ春野は、手際がよく、無駄がない。

 料理のできる普通の女子高生——そうとしか見えない。


 本当に人殺しなのか、わからなくなる。


「……あんまり見ないでください。恥ずかしいです」


 オレの視線に気付いたのか、春野はあたふたとしていた。


「ほんとお前、ぱっと見は普通の女子高生だよな」

「どういうことですか、それ」

「なんで女子高生がオレに飯を作ってくれてんだろうなって」


 なんとなく、『家庭』という言葉が浮かんだ。

 オレはこうして新聞を読み、春野は料理を作ってくれている。

 この空間に漂う雰囲気は、まさしく『家庭』そのものだ。


「私が食べたいだけです。勘違いしないでください」


 ただ、春野はそうは思っていない。

 オレの一方的な思い違いだ。

 これ以上、考えるのはやめよう。


「ちょっと……ご飯、置けないじゃないですか」


 机の上にはまだ新聞が広げてある。


「しかたねぇ、床で食うかァ」

「…………」

「わかったわかった。そんな目でオレを見るなって」


 ジト目で見てくる春野。


 そういえば。

 最近になってようやく、春野の感情が見えてきた。

 相変わらずマスクで顔は見えないが、彼女はけっこう感情をあらわにする。


(特に目とか、な)

 

 オレをからかうときの目、怒っているときの目、嬉しい時の目——彼女の小さな瞳には、そんな気持ちがしっかりと現れる。


(意外とわかりやすい奴なのかもしれねぇな、こいつ)


 目は口ほどに物を言う、とはこのことだ。


「ほら、準備オッケーだ」

「今盛り付けます」


 カチャカチャと食器の音。

 料理の気配というのは、大人になってもワクワクする。

 待ち遠しい、早く食べたいと思えてくる。


(そういや、ガキの頃もこうやって準備して、飯を待ち遠しく思ってたっけ)


 遠い昔の思い出。

 懐かしいが、戻りたいとも思わない。

 視野が狭かった少年時代と比べれば、無職でも大人の方がまだマシだ。


「柳川さん? 食べましょうよ?」


 いつの間にか料理が並んでいた。

 テーブルに置かれた、青椒肉絲、卵スープ、白米。

 湯気が立ち、食欲をそそられる。


(見ただけでわかる。これウマいだろ)


 そう思っていると突然、クスっと小さな笑い声がした。


「柳川さんって、意外とわかりやすいですよね」

「えっ?」


 オレが先ほど春野に思っていたことと同じで、ドキッとする。


「表情に出るんですよ。特に嬉しそうなとき」


 自分の顔を触ってみる。

 確かに口角が上がっている。自然と笑っていたらしい。


「お、お前だってわかりやすいぞ」


 オレは照れ隠しの仕返しにそう言い返す。


「え?」

「嬉しそうな時、目がキラキラしてるぞ」


 春野はきょとんとして、自分のまぶたを触っていた。

 そこは触ってもわかるわけないだろ。


「そんなにわかりますか?」

「案外な」

「自分のことなのに、知りませんでした」


 春野はオレの隣に座ると、静かに両手を合わせた。

 そして、オレの方をじっと見つめてくる。

 小さな目が「早くしなさい」と語りかけてくる。

 よく喋る目だ。


「はいはい」


 オレたちは一緒に手を合わせた。


「いただきます」

「いただきます」


 オレは一番はじめに、ツヤツヤと輝く青椒肉絲を口に放り込んだ。

 瞬間、口の中が弾けた。


「うっま!?」


 それはもう当たり前に美味いのである。

 味の濃さは絶妙で、ピーマンの歯ごたえが心地よい。

 白米に箸が伸びる、すばらしい出来栄えだった。


「うめっ、ウメェ……!」


 春野の作った料理は、やっぱり美味い。

 どうしてオレの家で、オレとは違う味になるんだ?


「むふふ」


 対して春野は、目を細めていた。

 誰がどう見ても嬉しそうだ。声も漏れているし。


「もしかして……なんかヤバいの入れたか?」

「人聞きの悪いことを」

「だって……オレが作るのと味が全然違うんだが」

「やってればこうなりますよ」

「オレが10年続けても、こんな上手くはならなかったぞ」


 それはですね、と春野は声を弾ませて言う。


「誰かに食べてもらいたい気持ちですよ」

「食べてもらいたい、ねぇ……」


 確かに、オレは自分のためだけに料理をしてきた。

 もしオレが誰かと同棲していて、誰かのために毎日作っていたとしたら。

 春野のように、人を喜ばせるほど料理が上手くなっていたかもしれない。


「じゃあ春野は、オレのために作ってくれたんだな」


 何気ないオレの一言に。


「う、あ、え……?」


 春野の耳が赤くなっていた。

 その反応で、オレも自分が恥ずかしいことを言ったと気付く。


「い、いや! なんでも、ないぞ……」

「べ、別に! おじさんのために作ったわけじゃ……」


 なんだが気まずい雰囲気になった。

 お互いにわかりやすい、というのも難しいものである。


「…………」

「…………」


 結局その後、オレたちは黙々と食べ進めた。

 春野の料理は、やっぱり美味かった。

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