07 肌

 休日になった。

 無職にとっては毎日が休日だが、日付では休日だ。


「おいーっす」


 気の抜けた小林の挨拶に、オレは手を挙げる。

 柄シャツにデニム姿の小林は、いかにも休日という格好をしていた。

 ただ、茶髪のポニーテールだけは勤務時と一緒だ。


「おっす。休みなのに来てもらって悪いな」

「いいってもんよ。車に荷物あるから、運ぶの手伝うぞ」

「いや、オレがやるよ。仕事でお疲れのところだろうし」

「お気遣い感謝」


 車の鍵を締めた小林は、煙草の箱を握っていた。


「部屋、上がっていいか?」


 当然、そういう流れになる。

 今までも休日にオレの家に来ることがあった。

 しかし、さんざん出入りしていたのに突然渋られたら、小林も疑うだろう。


『条件があります』


 数分前に春野と交わした約束を思い出す。


『外に出て対応すること。携帯と財布を置いていくこと。私のことを話さないこと』

『一緒に煙草を吸うのは?』

『好きにしてください』

『いい条件だ』


 まぁどう考えても、ここで家に入れるのは悪手だろう。

 春野にとっても、オレにとっても。


「……少し歩かないか?」


 小林の質問を質問で返す。


「オーケイ。ニートは運動しなきゃな」

「まだニートじゃねぇよ」


 これなら春野のことを気にせず、小林と話せる。






 小林が吸うロングピースから甘い香りが漂う。

 オレはショートホープ。長い煙草はどうしても苦手だ。


「しかしまぁ驚いたよ。同僚がクビになるなんてさ」

「オレもだ。自分があんなことをするとは思わなかった」


 ふたつの煙が風に流されていく。

 灰を携帯灰皿に落としながら、オレたちは近くの河川敷を歩いた。

 朝なのに日差しが暑い。いつの間にやら、もう夏になっている。


「上司を殴ったのは、意図的か?」


 小林が煙を吐き出しながら訊いてくる。


「さぁ、どうだろうな」

「ちょうど見てなかったんだよ。教えてくれ」

「見世物じゃねぇぞ」

「何言ってんだ。こんなの、入社以来のビッグイベントだろう?」


 カッカと小林が笑う。

 オレのショートホープはすでにフィルター部分まで燃えていた。

 小林の煙草はまだ半分も燃えていない。


「で、柳川くんはなぜ拳を?」

「……殴らなきゃいけなかったんだ」


 オレは吸殻を携帯灰皿に入れ、2本目の煙草に火を付けた。

 続けて吸ったせいか、軽いヤニクラを起こす。

 小林はきょとんとした顔をオレに向けた。


「どういうことだよ、それ」

「そういうことだ」

「言いたくないってことか」

「まぁな」


 なるほどなぁ、と小林は煙を細く吐いた。

 こうしてふたりで歩いていると、現実を忘れる。

 オレはまだ会社員で、同僚と愚痴を言い合いながらも、なんとかやっていけている。

 そんな夢を見ているような気分で。


「しっかしまぁ……本当に辞めちまうんだな」


 そんな小林の一言が、オレを夢から覚ました。


「……あぁ」

「戻る気も?」


 ない——この言葉を彼女に伝えても意味はない。


「金が尽きたら考える」

「はは。じゃあ1週間後だな」

「そんなに貧乏じゃねぇよ」


 オレたちの関係は雑だ。

 しかし互いにきっちりと距離を保った、心地良い距離感だった。

 会社を辞めてもこの関係は続いてほしい、そう思うくらいには。


「なぁ……いまさら言っても、遅いんだけどさ」


 改まるようにして小林が言う。

 いつもはヘラヘラしているくせに、真面目な話の時は真面目な顔をする。


「な、なんだよ」


 まるで人が変わったみたいで、そんな小林にオレはいつもドキッとするのだ。


「もっと頼ってもいいんだぞ」

「頼るって……なにがだよ?」

「困った時に、人に助けを求めること」

「…………」

「お前、仕事も全部ひとりでやってただろう?」


 そう言われて、オレは苦笑すら浮かばなかった。

 人に頼る——言葉にすれば簡単だが、オレにとっては難しい問題だった。

 確かに、人に頼れば自分は楽になる。しかしその分、頼った人の時間や労力を奪ってしまう。オレの仕事を誰かにやってもらうのは、それだけで気が引けた。

 今日だって、小林に荷物を届けてもらうことすら、申し訳ないと思うほどだ。


「つらくなくてもさ、簡単なことでもさ、人に頼っていいんじゃないか?」


 小林は見抜いている。

 同期だからこそ感じ取れる、オレの性格を。


「そんなことしたら、迷惑だろ」

「ひとりで抱え込んでクビになられるよりはマシだよ」

「う……」


 痛いところを突かれてしまったが。

 小林はオレのことを案じて、そう言ってくれている。

 恥ずかしいが——まったくもってその通りだ。


「……気が向いたらな」

「おいおい、そんなんじゃあ先が思いやられるな」

「お前はどうなんだよ。ちゃんと頼れてんのか?」


 オレの問いに、カッカと笑う小林。


「わたしは極度の面倒くさがりだからな。昼飯も買いに行ってもらってる」

「図太い奴め」

「人という字は支え合っていてなぁ」

「下でお前を支える人がかわいそうだ」


 そうして気付けば、車を停めた場所に戻ってきた。

 小林はやっと吸い終わったロングピースを、オレの携帯灰皿に入れた。


「柳川と話していると、時間があっという間に過ぎるよ」

「奇遇だな、オレもだ」

「やっぱわたしたち、身体の相性もいいんだろーな?」


 そしてオレたちは、いつものくだらない会話に戻ってくる。


「案外ヤってみたら面白いかもな」

「ホテル代はもちろん、柳川が全額払ってくれるよな?」

「考えます……」


 真面目な話のあとでも、くだらない話ができる。

 オレたちの関係に涙はいらない——そういうことだ。


「ま、これから仕事探すんだろ。次はなにすんだ?」

「まだ決めてない」

「そうか。次の職場でも適当に頑張ってくれ」

「投げやりな応援だな」

「わたしたちの関係なんて、そんなもんだろう?」


 ほどよい関係だと思っていたのは、どうやらオレだけではなかったらしい。






 カーウィンドウからグッドポーズが送られながら、車は去っていった。

 オレはひとり静かにため息をついた。


 ——そんな話ができる人がいるだけでも、柳川さんは幸せだと思いますよ。


 ふと、春野に言われた言葉を思い出す。

 オレはおそらく、幸せなのだろう。

 会社を辞めても、同僚がこうやって会いに来てくれる。


(面と向かっては伝えられねぇけど、小林には本当に感謝だな……)


 オレは会社の荷物を抱えて家に入った。


「小林さんとは恋人なんですか?」


 そしてオレはもう一度、深いため息をついた。


「女と歩けば恋人か?」

「なんだか気の合うふたりって感じでしたよ」


 春野から見ると、オレと小林はそんなふうに見えるらしい。


「仲がいいだけだ」

「じゃあ恋人ですね」

「決めつけんな」


 どうやら春野は恋愛に興味があるようだ。

 女子高生はそうだと決まってでもいるのか。


「今回はどんな話をしたんですか?」

「別に……会社のこととか、話しただけだ」

「またえっちな話してたんですね」

「だから決めつけんなって」


 そう言いつつも、実際は春野が正しいのである。

 つくづく、勘の鋭い女子高生だ。


「でも、職場内だと別れたときがつらいですよ」

「男が悪者にされるやつだな」

「今なら別れても悪者にはなりませんね」

「無職の男と付き合う女がかわいそうだ」


 荷物を部屋の隅に置く。

 少し外に出ただけで、もう汗だくだった。


「……ちょいとシャワー浴びてくるわ」


 オレは服を脱ぎ捨て、浴室に入る。

 ノズルをひねると、冷たい水が降ってきた。

 頭を洗いながら、さきほどの春野との会話がぽつぽつと浮かんでくる。


(何が恋人だよ……小林とは、別に)


 確かに小林はフレンドリーで、会話の内容だって踏み込んだものばかりだ。

 だが、近すぎることはない。オレたちはしっかりと一線を保っている。

 もちろん、セックスなんてしたことはない。キスも然りだ。


『あたしたち、体の相性もいいんだろーな』


 さらっと流した冗談だったが、やっぱり生々しい響きだ。

 あの女子高生のせいで、今まで意識しなかったことが気になってしまう。

 あぁ、くそったれ。


「小林とは恋人でも何でもねぇっての……」

「やっぱり恋人なんじゃないですか?」

「うわっ!?」


 後ろから春野の声がして、オレは声を上げた。

 てっきり扉の向こうから声をかけてきたと思っていたのだが。


「だぁから、ちげぇっての——って!?」


 そこには、タオルも巻いていない、裸の春野が立っていた。


「お、おま!? なっ、なにしてんだァッ!?」


 慌てて目をそらす。

 大事なところは見ていない。

 ギリギリ、見えていない。


「なにって……シャワーを浴びに」

「オレがいんだろ!? さっさと出てけ!」

「考えたんですよ。私もシャワーを浴びたいけど、柳川さんがそのスキに逃げちゃうなって」


 背後から聞こえる春野の声に、オレの身体は硬直する。

 どう考えてもこれ、やばい状況すぎるだろ。

 シャワー中に後ろからとか、安物のホラー映画かよ。


「だからって一緒に浴びる必要ねぇだろ!?」

「大丈夫ですよ。私、見慣れてますから」

「そういう問題じゃなくてだな……あぁもう! わかった!」


 オレは空の浴槽の中で、三角座りをして頭を抱えた。


「1分だ! 1分で全部終わらせて出てけ!」

「女の子が1分で終わると思うんですか?」

「くっ……がぁッ……!!!」


 本っ当にクソ生意気な女子高生だ。

 出会った当初の律儀さ——というのも変だが——はどこへいったのか?


「早くしろ……風邪引いちまうからな……」


 オレは諦めて目を閉じた。

 シャワーの音。肌に弾ける水の音がヤケに鮮明に聞こえる。

 

 すぐそこに、全裸の女子高生がいるという事実。


(やベェ、意識すんな。マジで意識すんな……)


 何がやばいって。

 オレが意識していることは——オレのを見れば一目瞭然なのだ。

 それがバレた時には。


『未成年に興奮って……救えないほどの変態ですね』


 こいつは心底嬉しそうにバカにしてくるだろう。

 立ったら終わりだ。二重の意味で。


「柳川さん」

「ぎゃッ!? んだよ、今度はなんだ!?」


 春野の声がこれまたちょうどいいタイミングで降ってくる。

 そして次に言われたことは、予想もしないことだった。


「襲わないんですか?」

「はぁ……!?」


 どちらかというと、襲われているのはオレの方なんだが?


「普通、この状況なら襲いますよね?」

「お前、なに考えて……」

「自分でこう言うのも変ですけど、私ってモテるんですよ」

「あ?」

「クラスの男子が言ってたんです。『抱き心地の良い女・第1位』って」


 春野がそう真面目に言うものだから、オレは変な笑い声が出た。

 やっぱり年頃の男は、バカだ。

 オレも似たようなことをやっていたし、どの時代でも男って奴は。


「そ、それがどうした」

「柳川さんは、私を抱きたいですか?」

「あ…………お前な、からかうのもいい加減に」

「答えてください」


 冗談のように聞こえるが、春野はいたって真剣らしい。

 抱きたいか、抱きたくないか——。

 その本当の意味も、彼女はわかって聞いているのだろう。


「世の中の男性は、女子高生を抱きたいんですよね?」

「だからってオレがお前を抱くとは限らねぇだろ」

「柳川さんは、女子高生の裸に興奮しないんですか?」


 いや、認めざるを得ない。

 春野は確かに、エロい身体をしている。

 チラリと見てしまった時、やっぱり出るとこは出ている。

 脅された時だって、真っ先にそう気付いたことだ。


 ただ、抱くとか、抱かないとかは、まったく別の話で。


「あぁ、するよ……でも、犯罪だろ」


 倫理の問題として、常識の問題として。

 女子高生に欲情しても、手は出さない。

 どう考えても普通のことで、当然のことだ。


「興奮しようが、欲情しようが、犯罪だ。だから、オレはお前を襲わない」


 春野は黙っているのか、シャワーの音だけが聞こえてくる。


「ってことは、やっぱり抱けるんですね」

「話、聞いてねぇな?」

「それは常識の話であって。身体はいいってことです」

「……お前、結局なにが言いたいんだよ?」


 キュ、と締める音がして、水の音も止まった。


「ただの好奇心です。シャワー、ありがとうございました」


 そういって春野は出ていった。

 取り残されたオレはようやく目を開ける。

 春野が居ないことをを確かめてから、どっとため息をついた。


「あいつ、マジで何言ってんだ」


普通、そんな考えが浮かぶはずがない。

もしオレが女子高生だったら、そんな男どもは「キモい」で一掃する。

そのはずなのに、春野はオレに訊いてきた。


あいつ——オレに襲われたいとでも言うのか?


「意味わかんねぇ……やっぱり、頭のおかしい女子高生だ」


立ち上がり、もう一度シャワーを浴びた。

鏡に映る自分に、オレは苦笑した。


「……バレなくてよかったな、これ」


 女子高生に強がっていながら——結局オレもバカな男なのである。






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