重イ月ノ世界

琴鳴

one


 その夜は、空気がとろとろと溶けだしてしまいそうなほどになまあたたかかったのです。


 ぼくはいつものように夜用の外套を着て山高帽をかぶり、お気に入りのステッキを手にしました。もちろん黒眼鏡は必須です。


 さむくもないのに外套を着るのは、ぼくのからだのかたちが、ほかの人たちとはちょっとちがっているので、恥ずかしいからです。友だちの深雪さんは『そんなことないよ、気にしなくていいよ』と言ってくれますが、それは深雪さんの優しい性格と友情のゆえでしょう。


 ぼくはちょっと胸をそらして咳払いをしました。


 「ムム・・・ムグホン」


 よし、これならば、ちょっとした貫禄の男のひとのようです。


 ぼくは勇気をだして、家から外にでました。


 今夜は、すごいような満月です。


 歩道には六角形の石がはめこまれていて、それがどこまでもつづいています。ぼくの家があるあたりは、まだまだ空き地があるのですが、すこし歩くと、じきにくろぐろとしたかたまりが道の両脇にみえてきました。


 お屋敷まちに入ったのです。


 このあたりは、昼のあいだは、着飾った女のひとや、黒塗りの自動車を持った紳士たちが行ったりきたりしているのですが、さすがに夜なので人通りはほとんどありません。


 ぼくは跳ねそうになる足もとをなんとかおさえながら、できるだけ恰幅のよい紳士に見えるように努力していました。


 道路の向こうがわから制服姿の巡査さんが歩いてきました。警邏のとちゅうでしょう。お屋敷まちには、高価な宝石をねらう泥棒がよく出没するのです。


 ぼくが緊張しながら、すれ違おうとすると、


「あー、きみきみ、こんな夜更けにどこに行くのかね?」


 どきり、としました。やっぱり、ばれてしまったのでしょうか。考えてみれば、お屋敷まちに行くのに歩いているなどというのは、すこしへんです。自動車で行くのがあたりまえです。だから、うたがわれてしまったのでしょう。


 ぼくは言葉を忘れてしまいました。なぜなら、黒い髭を生やした巡査さんがおおきく目をむいて、ぼくの顔を覗きこんできたからです。やはり、黒眼鏡で目を隠しているのがあやしまれたのでしょうか。


「ムム……ムム……」


「なんだね? きみの名前はなんというのかね?」


「ムム……ムグホンッ」


 こんなときに、さっき練習した咳払いが出てしまいました。


 巡査さんは、けげんそうな表情になりました。


「ムグホンさんとはかわった名前ですな……。こちらにお住まいですかな?」


 ポケットから手帳をとりだして、メモをしはじめました。ぼくは、うその名前を名乗ってしまったことになります。氏名の詐称はいけないことです。犯罪です。もしかすると死刑になるかもしれません。ぼくの身体は勝手にふるえだしました。


 皮をむかれて、かまゆでにされるかもしれない。それとも、切りきざまれて、焼かれてしまうのかも。


「ほほう、あたたかい夜だというのに、お寒いようですな。外套を着ているのに、そんなにふるえて」


 巡査さんはさらに不審そうにぼくを見つめています。


「住所を教えていただけますかな、ムグホンさん」


 もうだめだ、とぼくは思いました。いっそ、帽子を取ってしまおうか、とも思いました。


 そのときです。


 背後から自動車のかんだかいエンジン音が聞こえてきました。ふりかえると、強い光が目を刺します。それはこんなお屋敷まちにはめずらしい軽トラックでした。


 トラックは急ブレーキをかけてぼくたちのそばに停車しました。


 左側にある運転席の窓は半分ひらいていましたが、それがさらに大きくひらいて、真っ白なひげで顔の半分以上がおおわれた男の人が顔を出しました。


「おい、ポロリくんじゃないか。どうしたんだ、こんなところで」


「あ。博士」


 と、声をあげたのは巡査さんのほうが先でした。


「ご存じなのですか、この、ムグホン氏を」


「ムグホンだと……?」


 白いひげの男のひと――博士は、ぼくの顔をちらりと見ました。にやっと笑います。そんな表情をすると、とても悪いひとに見えるのですが、ぼくは知っています。博士はちょっと奇妙なところもありますが、不親切なひとではありません。


「そうそう。ムグホンくん。きみは、わしの家に遊びにくることになっておったな。迎えに行ったのだが、どうやらすれちがいになっていたようだ。ここで会えてよかったよ」


「なんだ、そうだったのですか」


 巡査さんの声から緊張がぬけました。


「そういうことでしたら、もうけっこうですよ」


 ぼくはぺこぺこお辞儀をしながら、博士のトラックの助手席に飛び乗りました。


 巡査さんは目をまるくしました。ぼくの飛びあがりっぷりがあんまり見事だったからでしょう。


「いやはや、高跳びの選手なのかしらん」


 などとつぶやいているのが聞こえました。


「さてと、では行くかな」


 博士はトラックをスタートさせました。


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